P01 黒の居候と橙の家主
「ただいまー」
返事は来ないだろうことを予想しつつ、しかし一応の礼儀として声に出して彼はドアを開いた。
しんと静まった家の奥では、今でも明りがついたままだ。今日もまた、ここの家主であり店主でもある彼は睡眠という作業を放棄したらしい。
あからさまに怪しい、奇妙な部品やら「掘り出し物」やらで埋め尽くされた、足の踏み場すらともすれば怪しい廊下を歩いていく。
彼の手には、まだあたたかい紙袋が抱えられていた。絶対にまともな食事などしていないだろうからと、バイト先の厨房を営業終了後に少し借りて作ってきたものだ。
距離としては大したことはないのに、主に足元のせいで妙に時間をかけつつ、彼は明りの漏れるひとつの扉の前へと辿りついた。ちょっとバランスを崩してその場にふらりとしたのはご愛嬌というやつである。
「ヘイ。ヘイ? …どうせまだ起きてるんだろ、入るぞ!」
ノックとほぼ同時にドアを開く。瞬間目に入ってきた異様に強い光に、半ば反射的に自分の腕で彼は顔を覆った。
ともすれば直射日光より眩しいくらいのその光は、この部屋の主が創り出した人工的かつ永続的に光を放ち続ける代物「光球」だ。この光の中でずっと作業をしていた彼ならともかくとしても、朝日の中を歩いて帰ってきた青年にとっては、どうにもその光は目に痛すぎた。
ドアの開く音と声とでようやく彼に気づいたのか、部屋の中心にて山ほどの部品に埋もれていた男が顔を上げる。
「あァ? リョウじゃねぇか、今日はまた随分早ェお帰りだな」
「別にぜんぜん早くないよ。ヘイの時間の感覚がおかしいだけだ」
「あン? …ああ、何ンだ、もうこんな時間か」
道理で頭が重いワケだな。青年の指摘に手近の時計を見やった男、ヘイはばりばりと頭を乱雑に掻いてニヤリと笑う。
まったくもっていつもと変わらない彼の様子に、思わず青年はため息をついた。
「道理でって、おまえなあ。熱心なのはいいけど、ホントもうちょっと自分にも気を使え」
「必要あんのか? どうせテメェが治すじゃねェか」
「あるに決まってるだろ、バカ。俺に出来るのはすげー微々たるものなの」
青年が男へ返すのは苦笑。しかしその曖昧な苦笑の表情に、俄かに不機嫌な光をちらりと男はその目によぎらせた。
ヘイが青年へと向き直る。鋭い眼光にどこか殺気めいたものすら感じて、思わず半歩彼は後ずさった。
しかしなにしろ、場所が場所だ。部屋は狭く家としても決して広くはなく、後方に下がってみたところですぐに壁に当たる。そもそも青年には、この男の家以外に身を寄せられる場所などどこにもないのだ。
青年を睨みつけつつ、ヘイは青年の名を呼んだ。
「なァオイ、リョウ」
「ん、?」
自然に応じようとするも、しかし一歩も動かず立ち上がりもしない男に奇妙に気圧される。
明らかに不審で訳の分からない青年の、居候をあっさりと彼はかつて許した。拾われたそのときから絶対に普通ではないとは思っていたが、折に触れてこんな瞬間、ふと彼が只者ではないことを感じさせられる。
リョウ。呼ばれる名に込められた意味を、随分考えたんだと妙な自慢をされた名前の字面を知る、分かる人間はここには一人もいない。
そして彼はその事実と、もっとちゃんと向き合えと時折、不意に迫ってくる。
バカげたお伽噺のような青年の真実を、事実と知っているからこそヘイが向ける視線は、厳しいのだ。
「このままで、今のまンまでいいのか? オマエ」
肩先まで伸ばされたオレンジの髪といい、派手で奇抜なピアスだらけの耳といい、銀と青が混ざったような色の瞳といい。
それなりに顔は整っているし足は長いし背も高いのに、常に浮かべている不敵不遜な表情と乱暴な口調のせいで、普段はどうしてもチンピラのようにしか見えない男が問うてくる。基本的におそろしくだらしなく適当に過ぎるくせに、こんなとき唐突に、この相手が自分より年上であるという事実を目の当たりにする気が青年には、する。
このままでいいと、思っているのか。
一人ではどうしようもない問いに、小さく青年はため息をついて口を笑みの形に曲げた。
「…さあ、どうなんだろう」
満足などしていない。できるわけがない。
なぜなら自分が願っていた、望んでいた自分としての在り方は今現在の彼のそれからはあまりにも程遠い。幼いころから夢見ていた、いつごろからかも知らないうちにあこがれていた。時間が過ぎ成長して事実を厳しさを知り、その苛酷さを知ってもそれでも、願いは揺るがなかった。
だから進んでいたのだ。進めていたのだ、あのときまではちゃんと。
そのまま何もなかったなら、ごく当然の結果として青年は―――己の望みを、かなえられていたはずだったのだ。
「…ったくよォ。何だ、その他人事みてェなモノの言い方は」
またばりばりっと乱暴にオレンジの頭を掻いて、のそりとヘイがその場に立ち上がる。
かと思えばこちらに寄ってくるので何かと思えば、青年のすぐ近くまで来た彼はひょいと、青年の腕から紙袋を無造作に奪い取った。
「俺ァな、リョウ。確かにそこに使えるモンとして在ンのに、誰もそれを使わねェ、見向きもしねェって状況が一番大ッ嫌いなんだ」
ばりばりと紙袋の封を乱暴に破き、中身を取り出してかぶりつきながらヘイは言葉を続ける。多少礼儀にうるさい人間が見れば即刻眉をつりあげそうな光景だが、生憎この場にそんな殊勝な人間はいない。
お手製サンドを平らげていく彼を眺めつつ、ふと青年はひとつため息で返した。
「だから? 俺になにしろって言うんだよ」
「オマエの発想力や知識はな、俺一人が食い占めたトコで使えるタカが知れてンだよ。俺の知識や技術ってのは、手ェ伸ばせる範囲はな。テメェを一番生かせる位置には生憎、存在してねェんだ」
「別におまえに、そんなこと期待してないよ」
「こンの腑抜け、ちったァテメェを売り込もうとする努力をしろっつってんだ俺ァ。リョウ、何度も言うようだがな、おまえだって今の状況に、満足してるわけじゃねェんだろ?」
知識、常識、社会倫理。青年の中でそれらを形作っているのは、この世界に由来するこの世界において当然とされているものでは、ない。
その差異によって生じる視点の違いを、良くも悪くも進んだあるいは遅れているがゆえの思考を彼は「おもしろい」という。おまえみたいに俺の創作意欲を刺激する人間他にいねェよ、何とも妙な褒め言葉を、青年が彼から向けられたのも既に一度や二度ではない。
そして目前のヘイという男は、己の器の大きさと奇抜さゆえにその放散を青年へと迫る。
これはできるか、あれはできないのか。この世界であれはないのか、こんなものがあったらいいんじゃないのか。
ある特定の分野において、それを語る青年の目が熱意が明らかに他と一線を画する事実を知っているからこそ、こうして彼は青年へと迫ってくるのだ。
「……ヘイ」
「別にいいじゃねェか。なァ。…無魔は治癒術師や祈道士を目指すななんざ、この世界の誰も言っちゃいねェんだからよ」
少しだけ、向けられる言葉の硬さが緩んだ。ぽいと無造作に投げられた何かを反射的に受け取って、手のひらに収まったそれがリナスの実であることに彼は気づく。
皮の色や甘さと酸味、シャリシャリとしっかりした歯ごたえが青年の元の世界にあるものによく似たそれは、青年がこの世界において最初に口にしたものだった。とある有名な科学者は青年の世界においてその落下で新たな物理法則を発見したが、青年がリナスを食べて発見したのは、目前に広がるのは夢ではなく現実だという容赦のない事実だった。
今はナイフも包丁もないので、がぶりと皮ごとその実へ無造作に青年はかぶりついた。かつて彼へと事実を示し、昨日はひとりの少女の無垢な笑顔を引き出した赤い実は、今日は目前の相手の言葉も相まってか、喉奥に詰まるような妙なほろ苦さを青年へと感じさせた。
無魔。それは魔術を使えない人間大多数を指す、蔑称にもほど近い呼称だ。
青年はそして、この世界における無魔であった。魔術を駆使し、世界に跋扈する魔物を倒すことはおろか、ろうそくの火をともすことさえ火種がなければ彼にはできない。
しかし青年を苦み走らせるのは、彼が無魔だという事実それ自体では、なかった。
「無茶苦茶言うなよ、ヘイ。自分で魔術が使えないのに、どうやってそういうもんをやれって?」
彼がかつて望んだものに、最もこの世界においては近いとされるもの―――治癒術師、および祈道士。
総括的には治癒魔術と呼ばれる、二種の魔術をそれぞれ専門とする職業だ。傷ついた人間を癒し、病に伏せった人間を治し、己ではなく他人のため、その力を駆使してすべてへの再起の力を与える、与えることのできる職である。
それはかつて青年の目指した、とある職に役割がよく似ていた。だが青年には、それを目指すことはできない。
なぜなら彼は、無魔だからだ。
術が使えぬ術師など、誰も必要とする、はずがない。
「だから今、即席治癒魔術発動のための魔具をテメェに作ってやってんじゃねェか。…ま、今日も失敗だったがな。また魔石がムダんなっちまった」
「頼むからあんまり無理するなよ。ただでさえ、おまえ皆に変人って呼ばれてて仕事も収入も少ないんだから」
「るっせぇボケ、ガタガタジャマ言ってんじゃねェよ。つーか俺の話はいいんだよ、俺は」
青年が微妙に話をずらそうとしたのに、しかし今日の彼は敏感に反応した。
彼は変わりものだった。物凄いまでの変人だった。何かを発明することに平気で命を魂を削る彼は、しかしその奇抜さゆえに異様な存在である青年をあっさりと「そういうもの」として受け容れた。
ヘイという名前と、彼の職が魔具師、魔術を応用した道具を作り出す職業だということしか彼について青年は知らない。なぜあのとき自分を彼が拾ったのか、なぜ自分に対し、自分の発する言葉に対し、彼が必死になって目の色を変えて発明に没頭するのか、…わからないでいる。
青年の表情に何を思ったか、唐突に深くヘイはため息をついた。
「リョウ。…確か本名はミナセリョウ、だったか」
「ああ」
「オマエは、何をそんなにビビってる。何にそんなにタマァ小さくしてんだ、リョウ」
青年―――かつてなら己を水瀬椋と、そう当然のように他人に名乗れた彼は沈黙する。
今は名前を名乗ったところで、その名にあてる漢字を聞かれることは絶対にない。親たちが結構に考えてつけてくれたという自分の名前の意味を、他人に理解されることはない。
だからただ、青年は己をリョウ、と名乗る。自分の世界ではないこの場所で、日々を過ごす手段のひとつとしてそう名乗っている。
この世に対して、怖いのは何だろう。
自分が恐れていることは、嫌だと思うのは、まともに考えることもともすれば放棄したく、なるのは。
「なあ、ヘイ」
「何だ」
目前の男の名前を呼ぶ。肩をすくめて苦笑した。…先ほどまで浮かべていた曖昧なものではなく、ほとほと困り果てた情けない男の、水瀬椋本人の本心からの表情を浮かべる。
少し驚いたような顔をするヘイに、情けないことを言っている自覚に内心で辟易しつつ椋は続けた。
「俺はさ、ヘイ。お前みたいに強くないし、自分の知識が完璧だっていう自信も持てないうえに、そもそもその知識自体が穴だらけでいまいち、今の状況じゃ役に立たない。立たせられない」
「…リョウ」
「だから、…だから、だろうな」
ほんの一月と半分ほど前までは、椋は自分の世界において、所謂「医学生」と呼ばれる人間だった。いずれ医者になるものとして、教育を受ける権利と義務とを掴み取った人間のひとりだった。
けれどある日唐突に、椋にとってのその「いずれ」という道は消えて失せた。失った道の代わりに、彼の目の前に広がっていたのは異世界。魔術が発達したが故に、医術がなく、治癒魔術と呼ばれるものによって、すべての医療行為がなされる世界だった。
そう。言うなればここは、医者になれない世界だった。
医者というものが必要とされない、治癒魔術を使う人間こそが必要とされる世界だった。椋が医学と呼んだものは、すべて治癒魔術というカテゴリの中に吸収される世界だった。
であるというのによりにもよって、この世界の人間でないからか椋は、無魔だった。帰る方法も皆目見当がつかない状況で、何とか自分にできることをしようとした、その矢先に思い知らされた絶望だった。
ここは、医者が、いない世界。
魔術を操る力がなければ医療ができない、椋の望みの決して、叶うことのないあまりに残酷な、世界。
「どうしてもうまく、動けないんだよ」
笑おうとした顔がぐしゃりと惨めにゆがんで、不意にひきつった喉と目許の不快さにぐっと、強く奥歯を椋は噛み締めた。
そしてそんな椋の様子を、何とも言えない険しい表情でヘイはただ無言で見ていた。情けないことこの上ない顔をしているんだろうに、それを一切指摘してこない相手を今はひどくありがたく思った。
俺はもう医者にしかなれない、なりたくない人間だって、そんなのずっと昔から分かり切ってる話なのにな。
そうだというのにこの世界は、―――勝手に俺を引き込んで、しかも身勝手極まりなく俺を、絶望させる―――。