P18 黒は銀と金とを撫で2
至極恥ずかしげに頬を染めた彼女を、可愛いと思わない人間はまずいないと思う。
「……おいしい」
「ん、そんならよかった」
目の前で本日の椋のデザート、となるはずだった杏仁豆腐がカリアの中へと消えていく。未だにその頬が微妙に赤いのは、決して椋の気のせいではないのだろうが指摘はしない。
何とか場を繋ごうと半ば苦し紛れに出したものだったのだが、どうやら彼女の様子を見る限り、椋の予想以上に良いものとして杏仁豆腐は作用してくれたようだ。若干砂糖の分量を間違えたような気がしたのだが、こういう類のものに目がないヘイに「いやまあうまいんだけどよ、でも今回のなんか甘くねェか」などと実際に言われたりもしたのだが、…きっとアイネミア病やら何やらで疲れているのだろうカリアには、丁度よかったのかもしれないと椋は思う。
ちびちびとしかスプーンが進んでいないのは、一気に食べてしまうのは勿体ないと思ってくれているからなのか、それとも本当に食が細くなってしまっているがゆえなのか。
椋に判断はつかないが、しかし今最も大切なのは「食が細くなったカリアがちゃんと杏仁豆腐を食べてくれている」ということである。それに彼女のこの様子なら、たぶん渡した分、カップ一杯分は全て食べきってくれるだろう、ということも。
少し丸みを失って削げた顔の輪郭は、彼女の元々シャープに整った顔立ちと相まってまた非常に綺麗では、ある。
しかしどことなく血の気も薄くなったそれをずっと見ていれば、ああ綺麗だなあと考えるより強く、彼女の体調に関する心配がむくむくと椋の中では湧いてきてしまうのだった。
ふうとひとつ息をついて、顔を上げたカリアがふわりと椋に向かい、笑う。
「ほんとうにすごく、おいしいわ。…リョウのつくったもの、すごく久しぶりに食べた気がする」
「たしか最後にカリアがクラリオンに来てから、もう半月くらい経ってるからなあ」
思えばすべての変化が始まったのはあの日。クレイが椋を尋ねてクラリオンを訪れ、ただの常連客でしかなかったカリアの本当のことをわずかに知り、…そしてあの魔物が、クラリオンの前に現れた日だ。
最初のアイネミア病患者が出たのは、果たしていつだっただろうか。あれから数日後という感覚しか椋にないのは、似たような症状を呈する人たちが、偶然では片付けられない数、椋の周辺で見られるようになったのがそれくらいだったからだ。
あの場所に現れた魔物を討伐した関係でだろう、それらに関する一切の責任者に彼女が任命されたらしいことを椋が聞いたのもそれくらいの時期だ。北で起きた同様の一件についても同じように、第七騎士団の団長がその責任者になっているのだと聞いた。
作れるだけのお菓子を全部、作らせて目の前に並ばせたい。
クレイ伝いの彼女の言葉は、事態が一切の収束の様子を見せない今はまだどうやら現実となるにはあまりに、遠いようだった。
「……本当、びっくりしたのよ」
ぽつりと不意に、カリアが口を開いた。
カップを両手に抱えて小さく落とすように笑う彼女に、わずかな影が見えたような気がして椋は目を細めた。
「どうしてるかな、とは思ってたけど、まさかこんなところでリョウと会うなんて」
しかもおやつまでもらえるなんて、夢にも思ってなかったわ。
そう言って笑って見せる彼女に、合わせるように椋もまた笑ってやった。
「俺だってびっくりだよ。本当に驚いた。…カリアって、ヨルドのおっさんとは知り合いなの?」
「おっさんって…リョウ、治癒術師のヨルドといえば、この王都に知らぬ者はいないくらいの変わり者の名前よ」
「…あ、やっぱり変わり者なんだ」
「ええ。そもそも王都には治癒術師が彼を合わせて全部で確か百人、だったかしら。それくらいしかいないから、余計ね」
「はは」
そうだろうなとは思っていたが。しかしやはりこの世界の人間を持ってしても、あのおっさんは変わり者なのか。
その事実への同意につい流しそうになったカリアの言葉は、しかし次の瞬間がりっと椋の中で猛烈に引っ掛かった。今この王都で治癒術師が何人だって言った? カリアは。
「って、ちょっと待って」
「なに?」
「ひゃくにん? …治癒術師が? この広い王都全体で百人って言った?」
「ええ。…でも正直なところ、それも仕方がないといえば仕方がないのよね。何しろ治癒術師の扱う治癒の魔術って、凄く術式が複雑で分かりづらい上に、発動のために必要な魔力がものすごく多いから」
「ああうん、それはヨルドのおっさんにも聞いた」
「それなのに実際に出る効果は、神霊術とあんまり変わらない。となれば、治癒職を志す人間ならまず、祈道士を目指そうとするでしょう?」
「…良く知ってるんだな、カリア」
彼女はそれこそ「ただの」魔術師であったはずなのだが、それにしては随分治癒の云々について詳しい。
思わず椋が漏らした感想に、くすりと笑ってカリアは応じた。
「学院で誰でも、一度は触れるもの。…半分くらいの生徒は、消費魔力が多すぎるせいで、一回の治癒魔術の発動でばったり倒れちゃうのよ」
「あー。宗教以外にもやっぱり、それも大きな理由としてあるわけか」
正直なところを言えば、ヨルドの施術のみを見ている分では、これのどこが消費魔力がでかすぎる魔術なんだろうか、などという感想を実は少し椋は抱いてしまっていた。そんなに誰もが嫌がるほどに、疲労が凄まじい魔術であるようにはどうしても見えなかったのだ。飄々とした顔で患者に、躊躇いなく魔術を使っていくヨルドを見ている限り。
しかし今のカリアの言葉で、ある意味ようやく椋にも納得がいった。
彼女の言う学院というのは、魔術の才能があると認められた、八歳から十五歳までの子どもたちが集められ魔術師としての教育をされる施設を指す言葉である。なぜ八歳からなのかと言えば、この世界のおおよそ九割八分の人間が、八歳までには魔術の才能の有無が明確になるからだそうである。
この国では全部で五つあるという学院の、一学年の総数はおおよそ、この王都に存在する最大の学院レジェンディアで五百。ただでさえ魔術を使える人間は少ないというのに、そのさらに半分がたった一回の使用で倒れてしまうというのは、確かにどう考えても尋常ではないだろう。
なまじ使って大丈夫だったとしても、それくらいの魔力があるならまあ普通は、特に目立ちたがりの貴族だったりしたら派手に大魔術をぶっ放したいと思うよな、きっと。
一人納得する椋に、どこか不思議そうにカリアが首をかしげた。
「リョウ、理由って?」
「ん? ああ。何でこの世界には治癒職が二つあって、かつ一方は物凄い隆盛してもう一方は消されかかってるのかな、って思ってさ」
「………」
「カリア?」
明らかなヨルドの同意の上で椋がここにいる以上、きっと遅かれ早かれ、椋の内包する異常性は魔術師団団長たる彼女にまで伝わる。
だからこそ、もう大仰に隠すことはなく己の疑問に思ったことを椋は口に、したのだが。やはりとも言うべきか、そんな椋の思考はどこまでも、この世界の常識と照らし合わせれば異端なものでしか、ないようだ。
黙り込んでしまったカリアの名を呼べば、ぱちぱちと瞬きをして再度、金色の瞳は椋のほうを見上げてきた。
「そんなこと、…考えたことも、なかったわ」
「そうなの?」
「でも言われてみれば、そうよね」
「うん」
だって世界の創造主は、確実にそうであるべくしてこの世界を創ったんだから。
これで文句は言わせないとばかりに、絶対にしてやったりの顔で設定を書きあげたのだろう某人の顔がありありと思い浮かんでしまうのがどうにも憎々しい。それとなくふっと息をついて、ヨルドの手伝いだという少年が先ほど持ってきてくれたお茶を椋は口にした。
飲み時を逃してしまったそれは、少しぬるくて、苦かった。
「ねえ、リョウ」
「ん?」
少しの沈黙ののち、カリアが椋を呼ぶ。
そらしていた視線をもう一度彼女へ向ければ、真っ直ぐに見上げてくる真剣な金色の瞳と真っ向から交錯した。知らず心臓が跳ねる。
しかし彼女がこんな目をしている時には、下手なごまかしも嘘も褒め言葉も、何も彼女が必要とはしていないことを椋はこの一カ月強の付き合いの中で既に知っている。
ただ静かにその目線を受け止め彼女の言葉を待っていれば、ややあって囁くような小さな彼女の声が空気へ、落ちた。
「私は、…この事態を収束させることができると、思う?」
それはきっと他の誰にであっても、カリアは口に出すことはしない、何よりできないのだろう言葉だった。
先頭に立つ者は決して、揺らいではならない。己の手腕を疑ってはならない。他人の意見を聞き入れずに独断専行に走るなどは論外だが、しかし組織の上部の不安は、須らく下層にまで増大して伝播し、波及する。
だから本当は消えない不安を、絶対に彼女は今まで一度も、誰にも口にしては来なかったのだろう。
そして、だから椋は彼女に、彼が言ってやりたい、ただそれだけの自己満足な言葉を自己満足に送る。
「俺は甘いもの大好きな、俺の手作りをおいしい、おいしいって食べてくれる友人を信じてるよ」
ゆっくり、決して聞き間違いなど生じることがないように。ぽんぽんと軽く、綺麗な銀色の頭を手のひらでたたいてやりながら。
これが他の貴族であれば即刻打ち首になりそうな気もしたが、しかし今椋が目の前にする相手はカリアである。どんなに重いものを対外的には立派に背負っていても、結局のところまだ十七年しか生きてはいない、小さな少女である。
ふわりと、ひどく嬉しそうに彼女の金色の瞳の光は、ゆるんだ。
ありがとう、と。
薄い桜色の唇が、やさしくほころんでそう、つむいだ。




