P3-60 混迷に躍れ 2
あまりに何も起こらないことに、何もかも順調であることに、
逆に、わずかの不穏を覚え始めていた頃合いだった。
「!」
ピンと、神経を引かれるような感覚にカリアは顔を上げた。
彼女がこれまで感じたことのないものだったが、何なのか疑問には思わなかった。なぜならそれを渡したのが彼女自身だからだ。カリア自身が彼へ向けて、その使い方を教え、そんな日が、来ないことを願って二人で笑ったのだ。
意識の端を引かれるがまま、虚空へ視線を滑らせる。高い位置。どこまでも落ちてゆきそうな蒼穹、の、ある一か所に、カリアが与えたその光が点滅する。
一点が、
……人影?
「……え?」
ぱっと、小さく火花が散る。
まだ上へ、上へあがろうとしていた鉱石は、その火花に押し負けるかのように、重力に任せた自由落下を開始する。
カリア自身、過剰とも思いながら、込めることを止められなかった守護の中に、ひとつ。
セラピス描魔石に魔が近づくと、ある程度自動で撥ね退けられるよう、守護防壁を展開するような仕組みを彼女は描き込んでいた。
「……?」
それが怪訝そうな顔をする。
明らかにヒトでない黒翼二対を背に負った、ヒトならざる異常の白い肌をしたそれが、
まるでカリアの視線を鬱陶しがるかのように、ゆっくりと、眼下の彼女へと赫々しい双眸をおろしていく。
見下しきったまなざしが、すべて崩すための笑みを形作り両腕を無造作に広げ掲げて見せ、
――――――なに?
その赫と視線が交錯するのと、ぞわりとカリアの全身に鳥肌が立つのと、
かすかな、本当にかすかな、甲高い破砕音が響いたのはほぼ同時のことだった。
それはここレニティアスの王が、何がしかひとつ、国民へ言葉を向け終えたタイミングと合致した。
「……!!」
カリアの耳が、わずかなはずの音に異常に痺れる。鼓膜がうまく震えなくなる中で、民衆は、さらに沸き立つ。
なぜならそれは、異常なほど美しく目に映るのだ。
きらきら、ひらひら、燦々と。
まるで祝福であるかのように、砕け散った「なにか」が式典の場へ、国王セルクレイドへ向かって光り輝いて降り注ぐ。
――――……小娘!!
――――貴様、生意気にも、俺を、視るか!!
煌く神々しさの上空で、まるで対極のいびつの咢が嗤う。
鮮血を塗りたくったような紅い口が、ぐわりと開いて「声」をカリアの全身へと容赦なく叩きつける。
それは指一本動かしてはいない。のに、その声が己へ向けられ、聞かされるだけでカリアは息が詰まった。呼吸ができない。目前が白黒に明滅する。全身に氷を詰め込まれていくかのように、頭の芯から指先まで、瞬きもできないままに温度をなくしていく。
溺れていくような息苦しさのまま、まともに喘ぐこともできないまま、それでもカリアは視線をそらさなかった。
逸らせなかったという方が正解かもしれない。
だが、それでも、彼女は自身の震えにすら気づけずにその場にただ立ち続け、それを見据え続けた。
――――ふざけるな。
――――たかが矮小の人間の存在で!!! ははははは!!!!
その、人ならざる異質の禍々しき赫。脳髄を直接揺さぶられるかのような呵々大笑――哄笑。
目下、あらゆる人間をただ睥睨し、奪い、喰らわんとするようなおぞましい「侮蔑」の視線。
その色を、存在そのものの異質を、害悪を、カリアは書物の内側でしか知らなかった。
だが今、あまりに場違いのように、おそらくそれが組んでいた、だが、おそらくカリアが砕いた「なにか」が式典の場へと光り輝いて降り注ぎ続ける。
「……ディナ、ルーシュ、【砕国】?」
それはおとぎ話の敵のカテゴリ。
最悪の。その一体で、国をも亡ぼすとされる災厄の分類名だ。もうこの百年の単位で、現実には確認されていない、それこそ、過去の逸話の中にしかあり得ないはずのもの。
けれど。
けれど、こんな。
カリアが呟けるよりも前、それはぶじゅりと揺らいだかと思うと、彼女の視界から潰れるように消えて失せた。
がくりと瞬間、両足の力が抜けた。
「……っう、」
カリアはその場に膝をつく。どっと全身から冷汗が噴き出し、ぐるりと世界が廻転するかのような足元のおぼつかなさ。襲ってくる揺らぎ、嘔気に、彼女は口元を手で覆う。
必死に感覚を呑もうとした。へたり込んでなどいられる場合ではなかった。
奇跡のような景色に昂奮する群衆は、だれも、一国の王の護衛としてはあり得ざる彼女の姿を、気にも留めなかった。
何を、みることもきくこともなかった。
ここに。この場に、リョウがいるのに。
リョウが私を引いたから、私は、あれに気が付いたのに。
全身の震えが止まらない。まともに呼吸ができない。
ひどく血の気が下がっていて、もう一度、自分の足で立ち上がることすらできない。必死で嘔気をこらえながら呼吸を整え、いま、確かに己の目で見たものを整理しようとする。
ちらりと彼女を見やってくる王の視線に、相対するための言葉がない。
わからない。わからない。そもそも、ああ、そうだ、そもそも、どうして。
どうして彼は、あれを示そうとするかのように信号を、私に向けて投げ上げたのだろう――。
本話が今年最後の更新となります。
浮いては沈んでを繰り返す相変わらずの安定のしなさっぷりですが、根気強く応援してくださっている方、最近初めて本作に触れて、楽しんでくださっている方のおかげで、楽しく書き続けることができています。本当にいつもありがとうございます。
来年のペースがどれだけになるか、正直今の時点ではまだまったく予測がつかないのですが、
なんとかこの先、「治療介入」のシーンまでは、行けたら…というのが、小さな目標です。
それでは少し早いですが、どうぞみなさまよいお年を。
そしてどうか、来年が今年よりよい年になりますように!




