P3-59 混迷に躍れ 1
己の抱く感覚に、理屈も、根拠も何もない。
それでも、
会場には、万全の警備が敷かれている。
当然だ。もちろん一般人を呼び込む以上「なにか」が起きる可能性はどうしてもゼロにはならないが、それでも現在、この国、この世界で行うことができる最善の手が尽くされている、はずだ。
もちろんその「最善」はとても専門的なもので、それこそ、完全なる部外者で門外漢の椋には迂遠が過ぎる。
たとえば話を聞けたとして、詳しいことを知れたとして。
カリアやアノイならまだともかく、椋が介入できるようなものなど、きっと、かけらもない。
あたりまえだ。
当たり前に、何も、予定されたもの以外はなにも起こることなく。
「ニィ?」
「お兄ちゃん?」
それでも、ひどく気持ちが悪い。
ぞわぞわと、這い寄ってくるような悪寒を、自分でどうにもできない。
不気味で、不快な感覚が、一分一秒ごとに椋の内側で膨張しグルグルと廻っていく。
訝るまなざしを向けられても感覚は和らぐどころか増幅する一方で、握った両手の拳の強さも分からない。
ここにいたくない、嫌だ、いやだ、怖い。
何が起こるかもわからないのに、ただ、おぞましく体が冷たい。
口を少しでも開けば叫びだしてしまいそうで、椋は唇を嚙みしめた。
ただ心配そうな視線に、首を振ることくらいしかできない。笑えすらしない。
光がぱっとそのとき舞台に散って、彼女たちの視線がそちらへ向いてくれたのは、椋にとってはおそらく幸いだった。
気づけば両手を組み合わせ、椋は祈るようにじりじりと焦がれていた。
己の抱くすべてが杞憂であり、妄想でしかないことを。
静かでなにも変わらない、一瞬後の未来を願っていた。
「陛下!」
「陛下だ!! セルクレイド陛下!!」
「万歳! セルクレイド陛下万歳!! レニティアス万歳!!」
椋などもちろん何ともせず、式典は進む。人は増えていく。声も増えてゆく。
姿を現したレニティアスの王は、国民に応え、声に応じ、穏やかな笑顔で、手を振ってみせる。
拍手、歓声、ファンファーレ、放たれる祝砲、煌めく光。
美しい景色、の、はずだった。
誰もがその治世の長くあることを、平穏と国の隆盛とを、
胸に刻むことができる瞬間で、ある、はずだった。
――――無駄なことを。
上から、あざける声がした。
すべてを見下し嘲笑する、おぞましく、知らない声だった。
はるか上空から、しかし確かに聞こえた声。
呼吸が詰まる、咄嗟に、椋はその方向を振り仰ぐ。
ただ抜けるような青空が広がって、いるはずのそこに――
明らかにおかしな、影がひとつあった。
影。
綺麗に晴れているはずの空を、まるで歪に切り取るように、おかしいものが、そこにいた。
ガチリと、かみ合わない奥歯がいびつな音を立てた。
血の気が下がる。遠目にも分かった。ゾッとするほど白い肌。その血は青と言われれば信じてしまうほど冷たい、温度のない白色をしている。
爛々と、目下すべてを睥睨する目は赤く、赫く、まるで血を凝らせたようにどろりと歪んで見えた。
その双眸に、顔貌には、あきらかな、何もかもへの侮蔑があふれていた。
椋がただ目を見開くしかできない先で、それはぺろりと舌なめずりをして、背にした翼をゆらめかせる。
ああ、そう、その影の背中には、コウモリのそれによく似た翼が二対、澄み渡る蒼穹を引き裂こうとするがごとく、真っ黒に、いびつに揺れていた。
相当の上空にいるはずなのに、なぜかひどく、はっきりと椋の眼には見えた。
その犬歯の異質な鋭さ。舌なめずりをする表情がヒトと隔絶していること。どこからどう見ても、それが、
この場において、決して歓迎されないもので、あること。
だれだ、
……なん、だ?
「っ!」
凍り付きそうになる中で、ふいに、小さな金属の音を椋の耳がひろいあげた。
はっとその場所、動悸のやまない胸元を握りしめると、指先に冷たい鉱石の感覚がする。シャツの下、そこには、椋が、カリアから与えられたひとつの守護があった。
金と、銀の色彩が浮かぶ。
きっとアノイの護衛として、今、この場にも赴いているはずの。
“そんなことが、あって欲しくはないのだけれど”
レニティアス行きの道中で、彼女から伝えられた言葉が脳内によみがえる。
“もし、何かあって貴方がひとりになってしまったとき――”
そのときは、分かったと頷いた。そんなこと、まあ、起きないだろうし、起きてほしくもないなと、顔を見合わせて笑いあいもした。
それこそ今まで、椋も忘れていた。忘れていたのだと、気づいた。そもそもそんなもの使う日が来るんだろうか、来ないだろうと、思っていた。
カリアに、届く。打ち上げる。
この石を特殊なものにする、ラピリシアの血統に絶対的に響く、救難信号を、いま。
「に、」
心配する声に、言葉を返す暇もない。
鎖を片手で握りしめ、ぷつりと、椋は己の首元からペンダントを外した。ぐっと、改めてもう一方の手の中で、ひんやりした鉱石の感覚を握りしめる。
深呼吸をひとつ。
親指で、ぐっと一つの突起を押し込む。
カチリと小さな手ごたえを確認し、石を親指と人差し指でつまみ上げる。
そして次には、思いっきり振りかぶって、高く、高く天へと力いっぱいに投げ上げた。
高すぎて当たるはずもない、その、異常存在にぶつけようとするが如く。
美しい鉱石は、まるで放たれた矢のごとく虚空へとはね上がり――




