P3-56 渦を巻く混迷へ 2
ドアを開けて外へ出ると、そこは石畳の路地だった。
左右を見れば、窓をひらき、カーテンが風に揺れる家たちや、扉をあけて道端で世間話に興じる人々の姿、開店し始めている店たちの軒先が目に入る。少し前まで椋もよく行き来していた、アンブルトリアの下町の景色とどこか似ている気がした。
町の賑やかな、明るい雰囲気。
妙にしみじみした感覚を抱きつつ路地づたいに視線を上げていくと、自分がいたはずの場所がずいぶん遠くに見えた。
「ええ……」
「ニィイ?」
ほんとうに、いったい、なにが、どうなっているのか。
そもそもあんな場所に突然飛んでしまって、そこから目が覚めたらまた全く違う場所にいる。何もかもが、椋の理解の範疇を超えている。
思わず足を止めて状況にドン引きしている椋のズボンのすそを、クゥがつんつんと引っ張った。見下ろせば、なんで止まるの、とでも言いたげな瞳とぶつかる。
いや、なんでと言われても。
「どういうことだよ、これ」
「ニィ」
完全に空間がゆがんでいる、と、いうのは、もうあの白い部屋にぶっ飛んだ時点で今更なのか。
説明してくれる気はないらしい猫は、気のない鳴き声ひとつをあげると、てちてち歩き出す。歩いて、椋がついてこないと、また、問うように振り返って見て来る。
仕方がないので、椋も一歩を踏み出した。己に降りかかる不可思議珍妙の終わりが見えない。
目が覚めたら知らない家の中で違う服を着ていて、不思議案内人みたいな猫に道案内されながら知らない下町を歩くって、もう、なんだこれ。
「こっち?」
「ニィ」
「あっクゥちょっと待って」
「うにぅ」
てちてち迷いなく歩いてゆく、小さな黒に続いていく。
とはいえ、物珍しさに、椋の視線はつい左右をふらふらとさまよった。エクストリーの隣の国、日本とも、エクストリーともまた、なんだか違う国の城下町。家の並び、店の並び。当然のように、すべて目新しい。
さすが隣の国とあって、なにもかも、そこまで極端に違うわけではない。
が、売っているものが違っていたり、店ひとつまるごと、知らないものが詰まっていることもある。それこそクゥに先導されていなかったら、椋はあちこちで立ち止まりまくっていたことだろう。
それくらい、これまで見ていなかったものがたくさんあった。
ただこんなものだけ楽しんでいられたらいいのに、と、
どこかで、ふと椋は思った。
「にぅー……」
ちゃらり。なぜかポケットに入っていたレニティアスの貨幣で、クゥが欲しそうにしていたアイスを買う。
薄い水色なのに、口に入れると柑橘系の味がした。……なんとなく、昨日カリアからもらったあのカクテルを思い出す椋だった。
猫にアイスって良くないんじゃないかとも思ったが、ニィニィニィと足元で欲しがって大変になきわめくので。
仕方なく適当なベンチに座ってふたりで分け合って食べていると、さすが城下町、たくさんの、人の声が言葉が鳴っている、
「楽しみだね、あともう一時間後には、中央広場で式典が始まるんだろう?」
「まだほとんど幕がかかっているのに、舞台がすごく豪華なの、よくわかったものね!」
「さあさあ! 式典が始まる前に記念のハンカチはどうだ?」
「今日までだよ、限定の味、缶と一緒に買っていかないかい!」
いま。
今、とても。
椋自身の認識とは、違う、言葉が何度も聞こえた。
「……え?」
ぼた、と、アイスをすくったままだったスプーンが膝の上に落ちる。
ぴくりと両耳を動かして、アイスを舐めていたクゥが椋を見上げた。だがその紫の目に、すぐには、椋は応じられなかった。
アイスの冷たさが気持ち悪い。慌てて拾い上げて、亜空間バッグを開こうとして、今の自分にはそれがないことに気づく。
当たり前だ、そもそも、
あのパーティーに出るために恰好を変えさせられた時点で、ヘイ作のそれを、椋は自分の部屋に置いてきていたのだ。
「ニィ」
不満げに猫が鳴く。
椋はうまく応じられない、今、今日この日がいったいなんだって、
「あー! おにーちゃんアイスこぼしてるー!!」
「おいこらこら、……んん? どうしたんだ兄ちゃん、ホントにそんなニワトリが雷喰らったような顔して?」
凍り付いていたら話しかけられた。ニワトリに雷。ハトに豆鉄砲みたいな感じだろうか。
確かに現状はそんなものかもしれない。
椋の目の前には、7-8歳くらいに見える、おめかしした女の子とその両親の姿がある。じっとこっちを見ている六つの瞳に、明らかにひきつった顔と声で、何とか椋は言葉を返そうとした。
「あ、えと……いや、あの、なんか、その、俺、」
「うん?」
「すごいとんでもなく寝過ごしたみたい、で」
猛烈にどもった。正直、椋自身が一番何が何やらよくわからない。
わからないだけが積み重なっていく中、残念ながら現状は、そう、椋の日時認識が正しい保証がどこにもない。
そして、道行く人々が全員間違っていると考えるより、自分がずれているという方がよほど自然なのだ。
なんだ、なんでだ俺。
本当に意味が分からない。
部屋に帰ろうとしていきなり白い部屋に飛ばされて色々見て聞いて、その途中で多分意識が飛んで。
それで改めて起きてみればまた全然知らない場所にクゥと一緒にいて、そのまま、
……まる一日、スキップしてしまっている?
なんで、どうして、なんで。
椋の挙動不審がおもしろく映ったのか、きゃらきゃらと女の子が笑う。
言葉通りの寝坊とでも思ってくれたのか。
「あははは、まだ大丈夫だよお兄ちゃんっ、だってほらっ、記念式典はこれからだよっ! ね、行くなら一緒に行こ! いいよねパパ、ママ!」
「もちろん。これも何かの縁だ、きみさえよければ」
「あ、あぁ、正直道もよくわかってなかったんで、ありがとうございま、」
なんだかぐいぐい来られる。
とはいえ何となく「式典」は見に行かなければならないような気がして、椋はその親子の誘いにありがたく乗ろうとした。
が。
「……クゥ?」
「うにぅ」
いつの間にか、クゥが椋でなく目の前の親子を見ている。
しかもなんというか、じいっと、だ。睨みつけるとまではいかないが、なんとなく椋に向かってくる目の色と何かが違う。
「ねこちゃん!」
「きれいな猫だねえ。あんたのかい?」
「あ、ええ、はい。一応」
こどもが手を伸ばしてこようとする。それを嫌がるように、ぴょんと飛び退って、椋の肩の上までたたたたと登る。
離宮では何やら不穏の噂の飛び交う「黒い猫」に嫌な顔をされないことに少しほっとしつつ、椋の肩先で、なぜか彼らから視線をそらすように丸くなってしまうクゥが、気になった。
「クゥ」
「……」
この、なにもかも明らかに普通じゃない黒いねこは。
今、何を見て、何に対して、何を思ったのだろう。
逃げられてしまったことに少しだけむくれる女の子を、母親がなだめている。
なにもかも平穏、のはずなのに、彼らと一緒に進んでいく道行きは、何も、不思議なこともないのに。
それでも、それでも椋は。
そわりと不快な感覚が心の奥底に走るのを、どうしても止めることができなかった。




