P3-55 渦を巻く混迷へ 1
にぃにぃ。
遠いのか近いのかわからない、小さい鳴き声がぼんやり聞こえる。
にぃ。
どこか、椋を呼んでいるような気もする。
「……ぇ?」
ぼんやりと目を開いた先には、椋の知らない天井の木目があった。
一度、二度と瞬きしても、知らないものは知らないものだった。にぃ、近くで声がしてはっとそちらを向くと、むらさきの瞳のくろいねこが、じいっと椋を見下ろしている。
窓から差し込む陽光に、きらりと額の飾りが光った。
「……ねこ、おまえ、」
ぐるる。
手を伸ばそうとしたら、大変不服そうな唸り声とともにぱしんと指先を叩かれた。
爪を引っ込めてくれているのは、少しのやさしさなのかもしれない。痛くない。むしろふわふわしている。きれいなねこの毛並み。
ではなく。
「どこだここ? というか、え、朝……?」
口に出しているうちに、頭がじわじわ覚醒してくる。
あり得ない場所に行った、とんでもない人たちを相手にした。
ろくでもないような予言をされて、自分の部屋へ戻ろうとしていた、その、最中に突然変な場所に入ってしまって。
そこであり得ない会話をした、とんでもないものを見た。
異様に白い部屋の記憶。確かにそこにいたという覚えはあるが、特に最後のほうの記憶が、やたらに曖昧だった。
最悪な話だったような気はするのに。
俺も、関係ない話ではなかった気がするのに――
思い返そうとしてみても、頭の空白はまさにあの、塗りつぶしきった白い部屋のごとく、ただただ、まっしろだ。
ふうとひとつ息を吐き、枕元、ねこのいるところをできるだけ揺らさないように気をつけつつ椋は起き上がった。見下ろすと大変身軽だった。なぜかブランケットの下の椋の服は、あの豪華な衣装、ではなく、シンプルな青色のシャツと黒ズボンだ。
チャリ、と小さく金属音がして、胸に手を当てると、カリアがくれたペンダント、冷たい、多面体の感触を指に触れる。
他のどんな飾りももう残っていないのに、これだけは残った、……持ってきてくれたのか?
「ニィ」
思って改めてねこを見ると、なぜか少し自慢げに鳴く。
ねこ。呼ぼうとすると、やっぱり大変に不服そうにぱたぱたとしっぽを振る。
「ええと……じゃあなんて呼べば、」
ねこと呼ぶなと仰せである。
ねこ、ねこの名前。じっと椋を見上げる、きれいな紫色の目と不思議なオパールのような額飾り。
ふっと、そのとき過去の光景が椋の頭をよぎった。飼い主の友人にだけ懐いていた猫。
このこと同じような、黒いやわらかい毛並み、椋に悪意はないのに、なかなか触らせてくれなかった。
ううむ、
「クゥ」
「うにぅっ!?」
「おまえ本当に賢いな。……いいんだ」
その名前を口にした途端、びっくりしたようにぴーん! としっぽがまっすぐ立った。反応があまりに迅速で、どう見ても椋の言っていることを完全に理解している。
そしてなぜか、たいへん嬉しそうに見える。見上げて来る紫の目がきらきらしている。どうやらこの名前でいいらしい。
そっと驚かせないように手を伸ばし、椋はそのちいさなくろい頭を撫でた。
「ともだちが飼ってた猫が、おまえとおんなじ、黒に白くつしたの猫でさ。その子の目は、それこそ「空」の青、だってあいつは言い張ってたけど」
ふわふわもふもふ。
あたたかい感触が、確かにそこに、いのちがあることを教えてくれる。
「クゥ、おまえ一体なんなんだ? なんで俺のところに来て、なんで、お姫様たちに飼われてて、なんで今、俺とここにいるんだ」
手の下でクゥ……そう呼ぶことにした/呼ぶのを許された、黒いこねこが首をかしげる。
椋の撫でる手が心地いいのか、撫でても撫でてもされるがままだった。手を放そうとすると、もっともっととねだるように、ぐりぐり頭を手のひらに押し付けてくる。
答える気がなさそうな毛玉に、椋は笑ってしまった。
明らかにこのこはおかしかった。けれど、同時にどこまでも、椋に対する悪意やら害意やら、そういうものが感じられなくてふわふわでもふもふさらさらぬくぬくしている。
そもそも同じ言葉をしゃべらない猫に、イエス/ノーで返せない質問を投げかける椋も悪い。
促されるままに毛並みをひとしきり堪能したあと、こちらも満足したらしいクゥが、ふいっと手のひらから外れる。
ニィ、とテーブルを指して鳴く、そこには、大皿に載ったパンと水。
「……食べろって?」
「ニィ」
「クゥは?」
「ニィニィ」
クゥはいらないらしい。さっさとおまえが食べろとでも言いたげに、シャツの裾をくわえて引っ張ろうとする。
ぐう、と間抜けな音がして、ようやくそこで椋は己の空腹に気付いた。確かにあんまりいろいろあって、昨日の昼以降何も食べていなかったのを思い出す。
思い出すと途端に動きが落ちる。なんとかのそのそ起き上がってテーブルにつくと、いったい何がどういう魔法なのか、パンはまだほんのり暖かかったし、水差しの氷もそんなに溶けていなかった。
ありがたく朝食? にありつきながら、すぐかたわらで椋をじっと見つめる猫に問いかける。
「……お姫様たちは、放っといてもいいのか?」
「にぅ」
「ああ、はいはい。わかった、食べるから」
仮にも飼い主のことなのに、そんなことより食べろ、である。
正直そんなこと、ではないだろうとも思うが、なんとなく、今このねこには逆らわない方がいいような気もした。質問していいのはそのあと、らしい。仕方がない。
目の前の食べ物を、口に入れて咀嚼して呑み込む。
しばらくそれを繰り返し、皿の上を空にする。
「はー……」
人心地ついた。そしてなんだか、大変よく寝たあとのように、頭がすっきりしている。本当にめちゃくちゃよく寝た気がする。
シャワーでも浴びられれば最高だろうが、まあ、そんなところまで贅沢を言う気もない。
「ニッ」
短く鳴いたクゥが、ひとつだけあるドアを指した。
「食べたら、出かける?」
「ニィ!」
「いや、でも俺、早くみんなのところに戻らないと、」
「ニィニイイイイイイ!!!!」
「うわっちょ、わわわわわ、わかった! わかったから! わかったからこら、ねこぱんちすんな! しっぽもぺちぺちすんなクゥ!」
みなまで言わせてももらえず、理由もわからず攻撃される。
本当に不思議なほど賢いこのねこは、そうやって抗弁(?)するときにも椋に爪を立てない。ねこというより、年長さんかそれくらいの子どもを相手にしているような感覚だ。
どこだかわからないこの場所から、すんなりカーゼットのみんなの元へ戻ることは許してもらえないらしい。
仕方なく椋は立ち上がり、クゥに促されるがままドアノブに手をかけた。
大変よくわからないことになった、次の日もまた別の意味で全然訳が分からない。
このときの椋は、まだそんな風にぼんやり考えていた。
椋は最後に名乗られた名前を覚えてません。




