P3-50 白のゆめ、うつつ 2
違う、しらない、声がした。
閉じたまぶたの向こうで、白いひかりがはじけるような感覚がして。
ぱちりともう一度キールクリアが瞳を開くと、目の前が、文字通りまっしろになっていた。
「!?」
いや、前だけではない、上も、下も、右も、左も。
なにもかも見える限りの全部がまっしろに塗りつぶされていた。抱いていたはずの猫どころか、キールクリア自身の腕の輪郭すらぼんやりとおぼろげだ。
涙すらも一瞬で引っ込んだ。なにこれ、なに、なに、どういうこと。
問いかけようにも、ただただほんとうにすべてがまっしろで何も見えない。
意味が分からず動揺する彼女の耳は、そのとき、またひとつ声を聞いた。
『――――だれかいるのか?』
ふとその瞬間、遠くがくろく揺らいだ。
ぱちりと、もう一度キールクリアは瞬きをした。瞬きの先で、まっしろのなかに、何かがふわりと黒くかたちをつくるのを見た。
輪郭はとてもあいまいだった。ひどくぼやけていて、人影だということくらいしかわからなかった。
怖いとは思わなかったのは、さっきまで聞いていたような険が、聞こえたその声にはなかったからだった。
「……おまえこそ、だれ?」
『あ、っやっぱり人がいたのか。というか、子ども?』
「キキはこどもじゃないわっ!!」
『え、っあ、うん。そっか、ごめんごめん』
思わずかみついたキールクリアに、すぐ相手は少し驚いたように謝った。
もそりと人影が動く。ついこちらの気が抜けてしまう感じに、とてものんびりしている。
しかしキールクリアだって馬鹿じゃない。
どうしてなのかはわからない。そもそもこれが何なのかわからない。
でもこの声は、覚えがあるものだった。
あの黒。彼女らは一歩も中に入れなかったあのパーティーの。
だれより、なにより中心にあった男の声――。
『なんだろうなここ』
「おまえもまっしろなの?」
『うん、何にも見えないな。キキの声しか聞こえない』
「勝手に呼びすてにしないで。許したおぼえはないわ」
『大変失礼しました。お姫様』
身構えようとしても、相変わらず男の声には緊張感がなかった。ちょっと怒ってみせたら、またすぐ謝られた。
声も言葉もゆったりと、どこにも棘がなくて、まるい。なんで悪魔なんて言われるのかわからない、ほんとうに、どこにでもいそうな声だ。
いつだって聞けそうなのに、現実、いまのキールクリアのまわりには、こんな声は一つもない。
だから、むしろおかしいの?
こんなまっしろの、なにがなんだかわからないところで声だけ聞こえるのに。
「……おまえは、なんなの」
最初から、ずっとキールクリアが聞きたかったことだった。
なにひとつわからない、なにもかわらない。それがヴォーネッタ・ベルパス病だった。
変化が起きない。
起きるとしても、それは「新しく患者が現れる」、「患者の容体がゆるやかに悪化する」のどちらかだけだった。
それがこの男が来た瞬間。
がらがらと、音を立てて根底から崩れ去った。
違う患者。違う解析。
なぜ、と言いたくなるような「仮説」。果てには患者がひとり、そのまわりの時間ごと消えてしまった。
問い詰めたかった。
みんな言っていた。不条理の塊、悪魔のような存在と。いったいなにを運んできたのだ、むしろ、根本は奴にこそあるのだ、という声さえいくつも聞いた。
けれど顔が見えないからか、ただただまわりがまっしろだからか、彼の声が、おだやかであるからか。
気合を入れていたあのときより、ふたりで予想して互いの手を握りしめたときより。キールクリアの声もまた、ずいぶん緩やかなものになった。
相変わらずただしろい空間の中で、彼が首をかしげた、ように見えた。
『なんなんだろうな。俺にもわからない』
「なによそれ、どうしてよ。……だって、」
さっきだって。
男は、きらきら、ぎらぎらと、光り輝く大広間の中心で、いちばんの注目を一心に当たり前のようにあびていた。
特別だって、何ともちがうって。
衣装も、ともにあったご令嬢も、六王と呼ばれる方々も、果てには、あの、リクスフレイお姉様までもが。
次々光景はキールクリアの内側に浮かぶが、どれもうまく言葉にできなかった。
そもそも何を言えばいいのかもわからない。だって、だって、そうだ、――キールクリア・レニティアスは、リョウ・ミナセという人間をなんにも知らないのだ。
こんなふうに、やたらのんびり緊張感なくしゃべるのだって、キールクリアには、今わかったことなのだ。
彼がわらう。
『俺は半端者だから。俺が俺だけでやれることなんて、ホントに少しだけなんだよ。パーティーで誰に見えてた何だって、ぜんぜん俺だけの力じゃないし、どれも、俺自身のものじゃない』
「……うそだわ」
『うそじゃないよ』
「うそよ。だって、ぜんぶが動いてるって、みんな言うわ」
『だれが?』
「だれがって、だから、」
みんなが。
だれもが、……みんなってだれだ?
『それはほんとうに、俺が動かしてるもの?』
「……」
『証拠はないだろ?』
「そうじゃない証拠だってないわ」
『それを言い出したら、それこそきみも、他の「みんな」だって同じだろ』
「ちがうわっ、キキは、リリだって!」
『じゃあ俺だって違うよ。俺たち全員も』
「……っ」
あまりに声がおだやかで静かで。
なのに、絶対に動かせない感覚があって、それ以上キールクリアは言い返せなかった。
彼はあくまで、彼女と同じことを言っているだけ、だ。だからこそ、声の調子がかけらも変わらないからこそ、もう、何も言えなくなった。
そう、「ない」んだ、なんにもないんだ。
キールクリアにも、そしてこの男にも、いまは。
まだ、いい、悪いなんてことすらはっきり言えないくらいに、なんにも。
「みんなが言うのよ、やつさえ来なければって」
『……うん』
「なにもわからないで、ただ、みんな、なにもかも嫌になっていくの。いやなのに、変わらない。同じことしかできない。ただ、みんな、悪くなるの、違うって、必死で、いうだけ」
『……そっか』
ひどいことを言っているのに、相手の彼は、変わらなかった。
たとえば子どもだと、侮っているならわかる。王女だと、へりくだり、おもねるならまだわかる。
少なくとも、キールクリアは、わかる、と思っている。――彼女がわかるようなものが、何一つ彼の声からはきこえないのだ。
何にも聞いた話と合わない。
キールクリアは、うつむいた。
「それでもみんな、治す、って。エリザ、だって、……治す、なおして、みせる、って、」
最後まで言葉が口に出来なかった。
あおざめた顔を思い出すだけで、声も体も震えだす。
日々少しずつ、けれど確かに、血の気を失っていくやさしいひとの姿を見るのがつらい。
いくら頑張っても、何をしても、しようとしてみても、何一つ、状態の改善は得られない。病は絶対に減速せず、停止は、もはや夢のような話で、ましてや、ましてや、治す、完全に治癒させる、病魔を完全に根絶させる、など――。
握りしめたこぶしががたがたと震える。
声も、目の前もわずかにゆがんだ。
「こんなの、……やだ……」
なにもできないのに、何ひとつ、なせてもいないのに。
ただ、いやだと首を振って、目をつぶって耳をふさいで、なにもかも放り出して忘れてしまいたいと思うときがある。
そうして、せめて夢を見たい。過去の夢、ほんの少し前まで確かにあったのに、今では、もう残滓としてしかキールクリアの中に残っていない、新しく得ることができない、幸福の時間のゆめ。
ゆめだって、言わなければならない過去の時間。
ちゃんと未来に戻してみせると、どうしても今の彼女には言えない。
それがなにより、キールクリアにはつらくて仕方がなかった。
なんにもいいことがない、悪いことしか聞かない、聞けない。誰もが精いっぱい努めているのに、必死に、解決の糸口を探しているのに。それでも誰の策も効をなさず、患者たちは、エリザは、ただゆるやかに悪化の一途をたどる。
しかも現実は、さらに悪いほうへと加速をかけだした。
かれが来た時を、まるでひとつのさかいとするかのように――
『俺だって、嫌だよ』
どこまでも、やっぱり静かで、やさしい声が鳴った。
はっとキールクリアは顔をあげた。
上げたところで相変わらず周り一面は真っ白で何も見えなかった。でも、それでも。
なぜか、遠い黒い影がわらったような気がした。
『いやだって思うから、何もしないなんてできないから、だから、足りないだらけだけど、それでも、必死で足掻くんだ』
「……なら、どうしてキキたちをじゃまするの」
『邪魔したいなんて思ってないよ。むしろできることなら、一緒にやりたいんだ』
「えっ!?」
『ただ、何というか、最初のボタンを、完全に掛け違えちゃった、というか……これが本心だって、俺だって気持ちは同じで、ただ助けたいだけだって、何の含みも、たくらみもない、って。そうだって、話して、話し合って、お互いに、お互いをわかるための時間がない――それに、』
きっとそんな時間は、そんな余裕は。
これから先も、きっとキールクリアたちにやってくることはない。
続けようとしたんだろう言葉は、しかし実際に、キールクリアに向かってくることはなかった。
代わりに聞こえたのは、お互いよりずっとかすかな声だった。
ぼやけて、かたちがあいまいな、それでも、彼の名前を呼んでいるのだとキールクリアにもわかる声だった。
ひとつ瞬きをすると、ゆらりと、ただ白かったはずの空間が揺らいだ。
遠く、小さく、
猫の、鳴く声が聞こえたような気がした。
あれ? つぶやくような彼の声も、また淡くなった。
膜一枚をへだてたような、距離を感じるものになった。
ひたすらの真っしろの中、唯一見えていた黒い影が、ゆらゆらして、ぐらぐらして、もう、どの方向にあるのかキールクリアの瞳にはわからない。
空間が終わる。
この、よくわからない、どうして、今こうやってつながったのかもわからない。
ほんとうなのか、それともただの夢なのか、夢だとするなら、ちょっと思いのままにならない部分が多すぎる。
でも、いくつも聞いてみたかったことがあった、問いかけて、問い詰めてみたかった。
どうしてと糾弾し咎め、責め立て、そうやって「外」に追いやろうとしていた。
たぶん、そのはずだった相手との時間が、――終わりを告げようとしてる。
「……リョウ・ミナセ!!」
だからキールクリアは叫んだ。
名乗ろうとしなかった、彼女を呼ぼうともしなかった男の、奇妙な響きの名前を声に乗せた。
不穏で、不吉な異常の響きだと、キールクリアの周囲にある、多くの人々が言っていた。
けれど実際に音にすれば、拍子抜けするほどふつうで、まったくなんでもなかった。
キールクリアとも、リールライラとも同じだ。ただ、そのひとをそのひとと定めづけるための、しるしの言葉。形をつくり、かたどるための音のつらなり。
もう一度だけ、渦の中ではっきりと黒が見える。
瞳のようなそれに向かって、キールクリアは、さらに声を張り上げた。
「わかりに来なさい! かたりに来なさい! キキとリリのところまで、おまえが!!」
そうして我がままを言った。
いかにも王女らしい、聞かん気の強い子どもらしい、きっと、そんな風に思われるだろうひどい無茶を叫んだ。
でも、だって彼自身が言ったのだ。
できるなら一緒にやりたいと。
気持ちは同じだと、ただ助けたいだけだと、何の含みも、たくらみも、彼は持ってはいないのだと。
今この不可解な空間だけでは、その言葉が嘘かまことか、キールクリアにはどうしたって分からない。
いやきっと、少なくともキールクリアの周りの人たちは嘘だというだろう。そもそもこの空間自体が、キールクリアをだましこむための偽りだというだろう。
今までだって彼に関して、みんなわかりやすい悪口しか言わなかった。
悪口として聞こえる情報しか、キールクリアたちに伝えてこなかった、伝えようともしなかったのだから。
ねえ、だから。だからこそ彼の言う通りに。
今度こそ直接、相対して、面と向かって、本気だというならその気持ちをちゃんと全部に見せて。
『……わかった』
彼が笑った。
なんだかそれが、不思議にキールクリアにはとても嬉しかった。
「ほんとうね? 約束よ?」
『わかった。努力する』
「努力だけじゃだめなの。果たしなさい、王女のめいれいよっ」
小さい胸を張って命令してみせれば、とうとう耐えられなくなったのか、思いっきり彼が噴き出した。
笑い声が自分と彼と、二つ分重なったと思った瞬間。
ぱたんと、閉じる音がして、瞬きをした先には、完全に閉じられた自分たちの部屋のドアがあった。
「ニィ」
ニィナが小さく鳴く。
オパールによく似た額飾りが、きらきらと、いきいきと、光を放っていて――。




