P3-49 白のゆめ、うつつ 1
それはかなしい失意のままに、キールクリアもまた、眠りにつこうとした頃合いだった。
にわかに扉の外が、騒がしくなったのを感じた。同時にざわざわと揺らぎ続けていた胸のなかが、また奇妙にぐらりとした。
傍らのリールライラは、もうぐっすりと眠っている。
少しだけなんとなく怖くなって、肩を揺らしてみたけれど、いつものとおり、まったく起きる気配はかけらもない。
「ニィ」
「!」
こねこが鳴いた。
ぱっと声の方を向くと、紫色のひとみとキールクリアの視線が交錯した。
じいっと猫は、ニィナと彼女たちが名付けた黒猫はキールクリアを見上げる。僅かに開いたドアの先、灯りが漏れているその向こう。
行かないのか、見ないのか、聞かないのか。
深い紫色は、そう、キールクリアへ訊ねてくるようだった。
そもそもどうして、二人が寝ようとしているのにドアが開いているのだろう。
切れ切れに聞こえる声のなかには、荒ぶった声音も混じっている。
どく、心臓の音を妙に強く感じながら、起きてくれないリールライラの手を放して、ゆっくりと、キールクリアはベッドから足を下した。
「……だから、……で、」
「どうして今、しかも、……なんて、」
なんとなく、出ていくのがはばかられた。
細く開いたままのドアからそっと、キールクリアは外を覗く。
王女たちがつま先すら入れなかったパーティーは、きっと今もまだ続いている。
それなのに、キールクリアとリールライラ、ふたりが戻って来たときよりずいぶんたくさんの人間がばたばたと動いていた。
次々に言葉を交わす皆の名前も顔も。おおよそキールクリアは知っていたが、皆、一様に、明らかに表情がこわばって固く凍り付いていた。
どうして?
顔を見合わせようにも、いつもいつも、いっしょのはずの片割れはベッドの上のままだ。
「早く、調べなければ。手が入ってしまわぬうちに」
「やはり外の人間など、招くべきではなかったのだ。まさかアンヘルレイズの、治癒職のものにまで病が及ぶなど」
「ふたりとも、セテア・トラフの担当だっただろう」
「そうよ、クレスも、ステイムも。失踪のその日まで、彼女を看続けていたわ」
ドアに触れる、指が震えた。
リリ、囁こうにも、相手はそばにおらず、少しの距離の遠くで眠っている。眠ったままでいる。
キールクリアは年齢より聡明だった。
ゆえにそれら断片からでも、多くの人間が色をなくして、あちらこちらへ動き回る状況の原因を理解した。
ふたりの魔術師がいなくなった。
第三症例セテア・トラフ。昨日謎の失踪を遂げた彼女の主担当であった、クレス・バークライとステイム・シミラーが倒れた。
しかも、倒れた二人ともが。
ヴォーネッタ・ベルパス病と診断された――。
――ひとまずおまえたちはね、事実として理解しておくべきだよ。
声の調子だけがあまりにかるい、まるで呪いのような言葉がキールクリアの脳裏によみがえる。
ぎゅっと、ドアのふちを震えの止まらない指先で少女は握りしめた。胸がずきんと痛む、きっとこんな情報だって、あの黒にはすぐ行くのだろう。
キールクリアに、おとないの声はないのに。
知らせようとする人の姿は、こうしてみていても一人もないのに。
もう眠っていると、そう思われている子ども。
本当に眠ってしまっていたら、事実を知るのだってあしたのことだっただろう。そして知ったところで、キールクリアひとりでは、アンヘルレイズのたくさんの術師たちと同じくらいの力しか出せない。
ひとりでは。
リールライラは目を覚まさない。
――今のおまえたちは、まず彼と同じ盤上に立つことを許されていない。
ただ、笑い、わらうだけの言葉が彼女の心に傷をつける。子どもの出る幕じゃない。言外に、そう告げられているようだった。
絶対に、気持ちはだれにも負けないのに。
治癒の力だって、知識だって、二人を合わせれば、おじさまにも、おばさまにも、きっと、すぐに届いて見せるのに――。
「ニィ」
脚に柔らかい感触が触れる。はっとキールクリアが見下ろす先で、いつの間にか足元まで来ていたニィナが、小さく鳴き声をあげていた。
澄んだ紫いろが、先ほどと同じまっすぐな色彩で少女を見つめてくる。思わずしゃがみこむ、小さな黒い毛並みを抱き上げる。キールクリアの何を見てか、小さな体は特に何の抵抗もなく、彼女の腕の中に収まった。
揺らがないひかりがくるしくて、ぎゅっと体を抱きしめた。
「ニギュッ」
幼い子どもの力任せに、猫の声が若干つぶれる。ぱっとまた見下ろしたキールクリアと紫の目が合う、不平を訴えるようにぐるぐると喉を鳴らしているが、それでもなぜか、彼女の腕から逃げるそぶりはなかった。
ぽろりと瞬間何かが落ちた。
呼吸がしゃくりあげになって、目の前がやたらぼんやりする。なにからなにまでなんにもわからなくて、必死に声を殺そうとすれば、ぼろぼろぼろぼろ、次々に少女の目から涙がこぼれていった。
「や、だよお」
あのころに戻りたい。
エリザがいて、リリが元気で、過去の珍しい記録を二人で必死にあさって解読しようとして、埃まみれで迷子になって皆に怒られていた、あのときまで戻りたい。
今のキールクリアには、そんな平和の何もなかった。
楽しかったのを、ただ頑張るだけで、面白くてたまらなかったのを思い返すだけで涙が止まらない。
エリザは眠りから覚めないまま、少しずつ、けれど確実にやせ細っている。
リールライラはねむたがって、最近は、一日の三分の一以上を眠ったまま過ごしている。
ヴォーネッタ・ベルパス病が始まってから。
あの黒がレニティアスに、グラティアードへ足を踏み入れてからは、もっと。
「やだ……やだよお、こんなのやだあっ」
キールクリアは考えたくなかった。
優しかったみんなの表情が険しくなっていくのも、とげとげしい声が言葉が増える一方なのも、悪意が、ぜんぜんどこからも消えてくれないのも。人を疑うのも、ひとを悪しざまに忌みきらうのも、そうやって考えなければならないのも。
この腕の中の、やわらかい小さいものを疑われることも。
今だって起きない片一方に、払っても払っても、いやな影がちらついて離れないのも――。
――それなら話せばいい。語ればいい、少しでも。
「……え?」
ぎゅっと固く目をつむった瞬間、知らないだれかの声がした。
長くなってしまったので、一度ここで切ります。
明日もつづきの更新予定。




