P3-45 踊り踊レ 1
やっとこの「翌日」のタイムラインが固まったので、ぼちぼち連載を再開していきます。
投稿詐欺をしてしまった…。昨日待ってくださっていた方、申し訳ありません。
わなわなと、小さな背が震えている。
かける言葉も見つけられず、彼はただ、幼い主たちのちいさく丸まる背中を見守るより他なかった。
一言どころか、たった一瞬目を合わせることすらかなわずに、少女たち――レニティアス第五・第六皇女、キールクリア、リールライラ両殿下は敗北を喫していた。
――エクストリー王都・アンブルトリアを襲った奇病の解明に携わった。
――レジュナ【傀儡】の蔓延を、その根を断つことで防いでみせた。
見守るしかない男もまた、混迷の極致にあった。
漏れ聞こえてくる、自信に満ちた――ああそう、まさに「おのれの」自慢だ。エクストリー王の言葉は、このような公の場で発されているのが、到底信じられないものばかりだった。
ほかの、誰が発しても、即座に一笑に付されるだろう。
だが言葉の主は他の誰でもなく、その異質をおのれの懐に抱え込み、このレニティアス王国に連れ込んだ張本人だった。
アノイロクス・フォセラアーヴァ・ドライツ・エクストリー国王。
周囲に目線をやってみたところで、誰もが、男と同じような顔をしていた。
……これは、なんだ。
なんなんだ、この状況は。
男はふたりの、現在の世話役筆頭だった。
もとは三席であったが、筆頭エリザが病に倒れ、次席はその究明に駆り出された。ゆえに男、トーマ・ヴェイカーは現在、王女ふたりの世話役として、もっとも高く近い位置にあった。
トーマは凡庸な男である。
と、自分では思っている。
ただ、ほんの少しばかり、他のものより目端が利いた。他人の、特に子供の世話を焼くのが好きだった。
キールクリアとリールライラ、二人が生まれたばかりの頃から知っていた。昨今のふたりの鬱屈についても、むろんよくよく知っていた。
トーマは、あれが何かを知らない。知る由がない。
噂は既に、異常なほどの枝葉を伸ばしながら拡散する一方だ。
到底信じる気になれぬような、異質にまみれて大層耳障りだ。
黒。
あまりにもおぞましく在る暗色。
「どうして」
キールクリアが呆然とつぶやいた。トーマも同じく思っていた。
ああ、本当にわからない。
まさか、まさか、我が国の誇る歴代屈指のセルドラピオンが……リクスフレイ様までもが奴の「特別扱い」に加わってしまわれるなんて!
いったい誰が、あんなものを予測しただろう。
くろいものは名を問われ、あまつさえ、体に触れられた。
海千山千の求婚者を、全てはね退けてきたはずの手が。眼帯の下の目線のひとつで、悪しき穢れを打ち払ってきたお方が。
そこにあるこころの澱みひとつで、言葉の一つもかわさずに、即座にきびすを返すはずの清き御身が。
やつは今でも答弁する。
嘘偽りを、畏れ多くも六王の御前にあってなお並べ立て続ける。いかな奸計を用いてか、その傍らにはエクストリーの氷の姫……ああ、否。美しくこの舞台に咲きほこる、麗しき銀金色に輝く、大輪の白百合の令嬢が微笑む。
トーマはなにもわからない。わかるはずもない。
彼の目の前の現実は、幼い王女たちが、出る幕もないままに叩き潰されたという、それだけだった。
「うそよ」
「自分たちとは違う特別」。
無慈悲に、無遠慮に、無作法に、粗野に。
完膚なきほどに、たったひとつ声をあげることすら許されずに、……陛下が一瞬だけこちらを見て、安堵したような光を浮かべられたのは。
ただ気のせいとは思えなかった。
いかな国王であろうとも、決して、こどもに与えてはならぬ屈辱と思った。
トーマは勤勉である。トーマは熱心である。
トーマはもとより王女たちへつよく心を寄せ、大局は詳細にはわからずとも、これが、ひどい侮辱であり残虐であることだけははっきり分かった。
明白であると、彼は確信していた。
だからこそ声もなく震える肩に、そっと、彼は手を差し伸べた。
「部屋へ戻りましょう、キキ様、リリ様」
「……っ!!」
トーマを振り返ったふたりの目には、大粒の涙が揺れていた。
音をたてて胸が軋る。ああ、なんということを。なんて惨いことを。なぜ、いったいなんの理由があって、なんの正当があって、こんなことを仕出かして見せるのだ。
黒は悪魔の、邪悪のしるし。
無論他国の人間も多くここに迎えるいま、誰も声高にはそのようなことを口にはしない。特に隣国オルヴェスタ、民の多くに黒に近い色彩を宿すかの国には、決して聞かれてはならない内容だ。
だが、しかし、しかし。
レニティアスの誰もが、今、そう思っている、思わずにはいられないはずなのだ。
なぜなら明らかに狂いだしている。
どう考えても、異常は加速していっている。
すべての状況は、悪化の一途をたどっている。中枢には入れぬトーマにも、その程度は容易に判る。
わかっていないのは上層だけだ。
物珍しさにとらわれ、目をくらまされた方々だけだ。
トーマは悲痛に顔をしかめる。余所者など必要なかった。部外者など論外だった。
無粋の田舎者など、鼻で笑ってやるべきだった。ああ、むげに一瞥もくれずにいるべきだった。……今やもう、だれもそんなことをする勇気がない。
どうして。
どうしてこんな……。
「――――いやぁ、すさまじい混沌の具合だなあ」
びくりと、その場の全員が震えた。
それは王女たちのたいへんな苦手、この国のもうひとりの「透世」の持ち主、ルセトセレット・エルベ・レニティアス、ルセト殿下のものだった。
トーマの、王女たちの震えなど一切意に介さず、軽薄な笑みを浮かべながらルセトはこちらへ近づいてくる。
「まったく、ほんとうに、実に愉快だ。あまりにも、誰にも読み切れない。やはり僕はおろか、かの姉上の力をもってすら、あの転位の黒は徹せないというのだからね」
楽しげにすらひびいて聞こえる、言葉がトーマたちの思考を上滑りしていく。
いや、滑るという言葉は正しくないかもしれない。なぜならルセトの言葉はあまりにざらついていた。ざらついて、細かいとげがあって、王女たちへ、確実に傷をつける。やすりで皮膚を逆なでされるような、異常で不快で、とても、無遠慮な感覚を抱かせる。
こんなに小さなこどもを相手に。
思わず咎める視線をトーマは彼へ向けたが、ルセトが受けてくれるはずもない、堪えるはずもない。ましてや、聞き入れてなどくれるはずもない。
彼は徒に笑うだけだ。
笑って、扉で隔てられた先の場所を示すだけだ。ふたりが出られぬ間、ルセトに捕らわれている間にも、時間が進み、多くの言葉が躍る宴の場を。
その中心の最たるところに、なにもかもすべて嘘で塗り、作り固めた邪の色があり続けるその場を。
「これが格の違いだよ。少なくとも、今のおまえたちにとってはね、キールクリア、リールライラ」
「……っ!!」
「そう怖い顔をするものじゃない。言ったろう、こんな展開、それこそ我らが目前で光り輝く六王の誰も、微塵も想定できていなかったろうさ。あれの、主である存在すらも」
トーマにはわからない。
この男の特別な眼が、あの場所に何を見出しているのかがわからない。
格。格とは、不躾に先人を踏みにじることであったか。困難に立ち向かい続ける先達の努力すべてを無下にし、ただ己の思考だけを優先して、万事を進めようとすることであったか。
そんなもの。
そんな、ただいたずらにすべてを混迷させ状況を悪化させるだけのものを、誰が。
「ひとまずおまえたちはね、事実として理解しておくべきだよ。今のおまえたちは、まず彼と同じ盤上に立つことを許されていない。彼はまさに、変異、変転そのものだ。招来するものの善悪を問わず、常に、なにかに変化をもたらしつづける、そんな類の異常の存在だ」
どうしてそんなものが必要とされるのだ。
あのままゆくことができていたなら、この子どもたちが優しく願えていたなら、それならきっと、すべて、いずれは好転していたであろうに。患者が増え、衰弱し、異常が蓄積してなにもかも疲弊する、こんな、なにもかもおかしい状態には至らなかっただろうに。
トーマの感覚は、どこまでもルセトとは共有されない。
「一方でおまえたちは? 今の、この未曾有の事態において、なにか、わずかにひとつでも、おまえたちが変えられたことがあったかい?」
ぼろりと、ひとりの眼から涙が零れ落ちた。
もうひとりは、かたきのように特別の瞳の主を睨みつけていた。
悪しき変化ですら大歓迎。
なにもかも異常な現在においては、凪こそが最大の「罪」である。
わらうルセトはそう主張する。少女たちをすべて否定する。身内であるはずのものを、本来、守らねばならぬ立場にあるはずの相手を、あまりに簡単に否を突きつけ、卑下し、平然と傷つけて見せる。
トーマには、到底わかりようのない感覚だった。
正直わかろうとしたくもない感覚だった。
なぜ? トーマに浮かぶのは疑問符ばかりである。なにひとつ状況を良くしていない彼と、少しでも何かと、願いあがくキールクリア、リールライラ。どちらがよいか、より、状況に、人に沿ったものであるか、比較することも馬鹿馬鹿しい圧倒的な格差があるではないか。
しかし現実は、ひとのこころなどあまりに簡単に捨て置いて進む。
広間の中心には、いまもまだ異常の過ぎる黒が据えられている。
「なぜです」
理不尽だ。
思わず、その視線から王女たちをかばうように彼は前に出た。声に出した。トーマに、くきりとルセトは首をかしげて見せた。
「なぜ、とは?」
「なぜ、誇り高きレニティアスの王族であられるあなたが、どこの、何とも知れぬ相手の肩を持とうとするのです。異常の勃発の最初期から、苦闘を続けるものたちすべてを無下にし、簡単に踏みにじってどことも知れぬさらなる異常へ向かおうとする、そのような暴虐を、なぜ、あえて、われらの国のうちで、いま、許さねばならないのです」
「そういうなら、君たちがまず、状況を、あの病をわずかでも少しでも変えてみせなければいけないんじゃないか?」
「苦しむ患者をさらに貶めよと? 状況は、悪化の一途をたどっているではありませんか。あの……あの、あの異質、あの黒が、」
「ふむ。それはあまりにも本質からかけ離れた言葉だね、トーマ・ヴェイカー」
まともな言葉を、批判を紡ぐ暇も与えられない。
透かしの瞳は至極当然のようにトーマを否定し、唇が軽薄な三日月の弧を描く。
「わからない君たちに特別に教えてあげよう、彼はね、根源を揺らしているのさ。絶対に揺らぐはずもないと、もうすべて安心したと、僕らすべてが信じ切っていたような部分を揺さぶっている。それも一度じゃない、二度、三度、いや、もっと、もっとだ!」
あまりに楽しげに歌うように。
まるで、ろくでもない歌劇の一場面を見せられているかのような不快感。
何がおかしい。何を笑えることがある。
何もかもがおかしい。一切の笑いなど消えて失せるほど。
ルセトの透世が重用されず、信頼もされない最たる理由がこれだ。
苦々しくトーマは思う。再確認する。彼、ルセトは人の、ひとびとの、国の利害など、いつだってなにも知らぬというのだ。
自分ができるのは、ただ見るだけというのだ。
王族でありながら、責任を負いながら。ただその特殊の目に映る世界だけを貴び、面白がり、そうして、誰にも伝わらないようないびつなかたちのかけらだけを投げよこす。
トーマは無力だった。
ただ、相容れぬものなのだと、まだ中心を終わらない黒への認識を新たにするだけだった。




