P3-44 誰が踊る 3
リクスフレイ・レニティアスが彼に触れた。
ふれることが、できるものだと、「特別」であると、誰にも明確なかたちで示して見せた。
まだ何も始まってはいないのに、既に状況はあまりに異常だった。カリアは――否、カリアですら、他の参列者たちとさして変わらない衝撃を受けていた。
かの「セルドラピオン」が。
この国の名が「レニティアス」と定まるよりさらに前、歴史書に残る過去から現在に至るまで、たった三人しか存在しなかったような存在が。
この世の誰より、穢れを厭い、いかなる嘘偽りをも透かし、容易く、注意深く拒む人物が。
まるで空気に触れるように、あまりに何の躊躇もなく、リョウへ、その手を伸ばして触れた。
「ラピリシアの当主、そちらにも、妾たちへの名を呼び、直接の問答を許す。面を上げよ、立つが良い。そなたらの興味は、星屑ほどあるのでな」
「はははは困ったもんだぁなぁアノイ、まさかの伏兵の登場ってえなあ」
「その冗談はあまり面白くないがなぁデイン」
わずかに思考する間にも、目前では薄氷上のおそろしい会話が繰り広げられている。カリアは改めて肚に力を込めた。波乱はむしろ、これからが本番であった。
じっと、すぐ前の背中を見る。オルヴェスタの女皇エンの命に応じ、リョウが顔を上げた。
アノイが顎先で、立ち上がるよう彼を促した。
しかしこの状況で、そう簡単に立ち上がれるはずもない。カリアの推測の通り彼がふらつきそうになった瞬間、極力自然に見えるようにも努めつつ、迷わず彼女はリョウの腕を取った。
驚いたように振り向いた黒の瞳に、そっと微笑んでみせる。
ゆらぐ色彩へ瞬き一つで前を示せば、すぐにリョウは視線を戻した。……アノイが愉快そうに口元をつり上げたのに、二人は揃って気づかない。
「それで? 本当のところ、どうしてあなたはアノイに下らされたのかしら」
「人聞きの悪いことを言う。俺よりこの男に沿った立ち位置を、おまえたちが築けるとも思わんがな」
「アノイ、私は彼に聞いているの。ねえリョウ・ミナセ、あなたのここまでの道筋を、改めてここでたずねてみたいわ。ラピリシアの現当主、あなたとの馴れ初めもね」
ぴしゃりとアノイの言を袖にし、後半はカリアへも流し目を送る。
くすりと笑うフォズテア女王メヴィラニアの、瞳は当然全く笑っていない。ひたとまっすぐ見据えてくる、見定めようとする為政者の色があまりにおそろしい。
シュタインゼルテの王デクレステインも、顎を撫でながら続いた。
「おうおう。そんくらい髪もひとみも真ぁっ黒になるような隠れ里が、エクストリーにあるようだったかも含めてな。是非、おいらも聞かせてほしいところだぁな」
「もともと地図にも記されず、俺もそのときまで知らなかった、現実でも既に、魔物に喰われた場所だぞ。この男以外に、実在の証拠などありはしない」
「くどいぞアノイ。貴様には聞いておらぬと言っておろうが」
「ここには言葉尻の上手下手を咎めるような人間はいない。ただ、きみ自身がきみそのものを語れば、それでいい。それがいいんだ、ミナセ」
全員が面白がっている。
無下にされるアノイまでもが面白がっている。
あまりにも、あからさまに六王までもが「リョウ・ミナセ」を特別扱いする。
それは規定の筋書き通り。理想に過ぎる。滑稽な茶番とも思えそうなほど――けれど、背筋にはひたすら不隠が不吉に這いずりまわる。
ぐうと、リョウが何かを呑むようなしぐさをした。
ただ傍らにあるだけのカリアですら、これだけそら恐ろしく、じわじわ噛まれるように肝が冷えてゆくのを感じるのだ。張本人の彼は、もう、どれだけ感じているのだろう。こんな視線を一身に受けねばならない。声を、言葉を、これほどの圧迫の中で綴らねばならない。
どうしてだろう、こんな。このひとに、感じさせねばならないのだろう。
特別であることを、奇異であることを、
かけらも、本人は願ってもいないことばかりを。
「……では、僭越ながらお耳汚し程度に、お聞きいただければ」
リョウは息を吸う。
震えを押し込めて、声を発する。
「我が王アノイロクス陛下の仰せの通り、私の里は、すでにこの世界のどこにもありません。都からは遠く離れた随分な僻地で、土地柄か、血筋かはわかりませんが、里には私のような、魔力の強くないものや無魔がほとんどでした。ゆえにあの場所では、魔術に頼らずに傷病を癒すための方法が研究され、学びとして、過去から連綿と積み重ねられ発展していっていました。私もまた、その学びを継ぐものの一員として、勉学に励んでいた身でした」
そうして彼は紡ぐ。あまりにも嘘めいた「公式設定」を。
すう、と、あからさまに周囲の温度が下がっていくのを感じた。場違いにも少しだけ笑いたくなって、誤魔化すようにそっとカリアは、細い息を吐き出した。
青年の傍らを許される少女は、むろん「真実」を知っている。
リョウはそもそも、この世界にもとからあるものではない。彼の言うところの「里」もまた、「この世界には」存在しない。重ねて言えば、彼は「癒士」を名乗りながら、事実、完全な無魔である。
魔術を、その身に受けることがない人である。
――たとえばひとたび、からだに傷を、病を得てしまえば、彼は、
「頼みは神の威光でも、魔術の深淵でもなく、おのれらが積んだ知識だと?」
「はい。畏れながら」
ただそれだけを、頼みにする以外、ないのか。
あまりに簡単にリョウは頷く。誰であろうと、カリアにとっても、あまりにひどい、惨い現実に特に顔色のひとつも変えない。
リョウ・ミナセという「魔術のない」ひとにとって。
傷が、病が治せないことは、必ずしも、絶望とイコールにならないから。
「一夜にして、里は魔物に滅ぼされたということであったな。いかような魔物であったのじゃ?」
「申し訳ありません。あの晩の記憶はひどく曖昧で、ほとんど覚えていないのです」
ある日、何の前触れもなく、彼はこの世界にやってきた。
来たっていうより落っこちた、いつの間にか迷い込んでた、の方が正しい気がする。そんなふうに、苦笑しながら言っていたことがあった。
世界の常識を常識と、きっと、ずっとのみこみきれぬ人。
この世界における「絶対性」が、根本から欠如した異分子。そんなものがあることすら、だれも考えないような存在。
あまりにも荒唐無稽だ。リョウ・ミナセという人間を実際に知らなければ、すぐそばですべて見てきていなければ、到底、信じる気にはなれない話だ。
実際、周囲の空気が冷めていく一方だった。わかりやすさに、もうひとつカリアは笑いたくなった。やはり奴は、ただの大ぼら吹きではないのか――ささやかれる胡乱の戯言など、耳を貸す価値もない。放っておけばいい。
そう、信じないほうがあまりに容易い。
まともに信じて見せる人間など、おそらくこの場所には一人も居はしない。
猜疑に澱む空気の中、すう、と三日月のごとくエンが瞳を眇めた。
「覚えておらぬ、とは?」
「気づいたときには、既に里はなく、私は王の庇護下にありました。外界と断絶した、鄙びた田舎の粗忽者であった私は、人里の理に慣れるべく、しばらく城下町で暮らすよう命じられました。そして今は、こうして縁あって、皆様方の御前を許されております」
「おいおい、いっちばん聞きたいところが全部あいまいじゃあねえか」
「申し訳ございません」
これはほとんど嘘。
道に倒れていた彼を拾ったのは、城下の者たちが笑って「天から槍でも降るかと思った」と口をそろえた、やさぐれ、うらぶれた流れ者の魔具師だ。混乱し愕然とする常識はずれの彼を、魔具師はただ一言「働け」と言って、あの酒場にほとんどまともな説明もなしに勝手に放り投げたのだという。
そんな彼の「はじまり」からは、おおよそ、一月ほどあとのことだったらしい。
カリアがこの、奇妙な黒の青年に出会ったのは。
「私が彼と最初に相見えたのは、彼が城下で働いていたときでした。まさか城下の酒場の店員が、そのような特殊な事情を抱えていようとは、私も含め、当時の誰もが思いもしませんでした」
「あら、そうだったの?」
「はい、メヴィラニア様。すべては陛下の御心のまま、臣下の我々にも内密に進められていた計画でございました」
「アノイの秘密主義にも困ったものよのぉ。そうまで変遷しておいて、なにも変わらぬと云うのだからな」
微塵も納得していない色のメヴィとエンに、カリアは曖昧な笑みで応じる。少しでも話を自らのほうへ。意識しつつ、カリアはあの日のことを改めて思い返す。
あの日。
もう、どこにも居たくなかった、消えてしまいたかった日。
行くあてもなく、逃げる方法もわからず、そもそも逃げだす自分の弱さ自体が許せなかった。けれどどうしても、落ちていくだけの思考を少しでも止めたくて、放棄したくて屋敷から飛び出した。
クラリオンを選んだのは、なんとなくあのきらきらした看板に惹かれた、それだけ。
ドアベルを鳴らして踏み込んだ先、内側に満ちていた楽しげな喧騒は、あきらかにカリアとは違う世界のものだった。粗削りで、やかましくて、温度があって、ごちゃごちゃしていて、だからこそ、際限なくひとりで沈んでいけた。
そうあることを、それだけを、あのとき、カリアは望んでいた。
望んでいたのに、彼が、やぶった。
――新作なんです。もしよかったら、試飲してくれませんか。
笑顔で、優しい声で。
そのときのことを思い出して、カリアは今更納得した。
そうか、リョウだから。あのとき私が使っていたのは、認識阻害の魔術だけだったから。
だからあのとき、リョウは私に気づいたのだ。
カリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシアの何もひとつも知らないで、ただそのお人好しゆえに声をかけてきたのだ。
ただ気が良いだけの無魔に、仮にもラピリシア当主を名乗る人間を見破れるはずがない。その術を、透かせるはずがない。
いくら揺らいでいたとて、カリアはラピリシアの誇りを持つ者。ただの無魔に破られるほどの体たらくは、いかなる状況だろうと、そう、……「ありえない」。
そんなことにも今更気づく、自分自身にカリアは呆れた。
呆れたが、同時に、仕方がないとも思った。
だって、あたりまえのようにこのひとは、ただ「カリア」に手を差し伸べた。彼女の暗澹たる「望み」を、そのお人好しでくしゃくしゃにして、笑って、ぽいとどこかへやってしまった。
自然に近くにいてくれた。なにも知らないで。なにも、互いに知り合わないで。
だって願ってしまっていた。
近くにいたいと、そう、思った。
「……なるほど」
すいとエンが目を細める。彼女を戴くオルヴェスタでは、永く年を経た狐がひとを化かすという。きっとその狐は、こんな表情をするのだろう、と思った。
なぜかそのとき、少しだけリョウがカリアを見た。
そっと、よりちかく寄り添うと、なんだか一瞬、リョウが微妙な表情をした気がした。
「まったくおまえたちが納得しないようだから、これを、俺が連れてきた理由の話をここで披露するとしようか」
わざとらしく肩をすくめたアノイが、また次の話へと水を向ける。周囲の目線が、またぎらりとあからさまに鋭さを増したのを感じた。
引き続き、虚実の交錯する、現実のほうがよほど、偽りより虚構らしい話がはじまる。
誰もが解せなかった病の謎に、誰に命じられるでもなく、
ただ、自分の意思で踏み込み、考え事象に疑問して、そうして異常の中心へと、ひとり、進んだ青年の――。




