P3-43 誰が踊る 2
その瞬間、自分たちが広間に入ったときとは違うざわめきが周囲に走った。
はっきり異質と分かる波に、思わず後ずさりそうになるのを椋はなんとか堪えた。それほど、区切りの向こうから現れた女性は、あきらかに、分かりやすすぎるくらい異様だった。
そのひとはセルクレイドよりもさらに後ろ、いわく、主催側であるレニティアスの王族にしか許されないエリアに張られた布の一角から姿を現した。
何より先に、その顔の半分以上を覆い隠す布に視線が奪われる。
毒々しいまでの鮮烈さで、描かれているのは、ひとつ目だ。まるで、それが本当の「目」であるかのような、異質な存在感をもって、椋を向く。
まっすぐに、射貫くように。背筋が寒くなるほどに、揺るぎなく。
「……っ、」
奥歯を噛みしめて、椋はふるえを堪えた。
ああ、うん、聞いてはいる。情報として知っている。その眼帯はそのひとの「目」を、わずかでも覆い、さえぎるためのものだという。
両耳にあたる部分からのぞく、上へ向かって捻じれたらせんを描くヘッドホンのような形状の飾りも、同様に彼女を「外界」から少しでも守るためのもの、だという話だ。
恐怖によく似た感覚のまま、椋はそのひとから視線がそらせなかった。その「目」に、隠された奥の瞳に、突き刺され縫い止められたかのようだった。
指の一本もまともに動かせない。息をすることすらひどく苦しく、ずいぶんな力がいるように感じる。
「リクスフレイ様」
「リクスフレイ様だ」
「セルドラピオン、なぜ今このような頃合いに」
そんな椋をいざ知らず、水面に広がる波紋のように、あっという間に広間じゅうに人々のささやきが広がる。
なぜ。椋が一番言いたい言葉だった。無論、言えるわけがなければ、目線をそらせるわけもなかった。
そのひとは、風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど、薄く、華奢に見えた。眼帯で隠された表情は一切、こちらからは窺えない。にもかかわらず、ばくり、ばくりと、ひどく嫌な緊張に、椋の心臓がはねる。
それぐらいとてつもなく「目線」が痛い。強烈な、何もかも見透かそうとするかのような極彩色の巨大な「眼」、そこを通して伝わる、指先がしびれそうなほど明確な「意識」。まるで二人分、いや、それ以上の視線を向けられているような重さがあった。
思わず飲みこんだ固唾が、変に喉に引っかかる。
うまく息も吸えず、痛みを覚える。がくりと、握りしめた拳が知らないうちに大きく震える。
しゃらりとそのとき近くで、小さく音がした。
涼やかで澄んだ、やわらかく、少しだけ甘い香りが届いた気がした。
「リョウ」
それはほとんど吐息だけの、とてもあわい呼び声だった。
見知った声が、常と変わらずにまっすぐに椋を呼ぶ。不穏の感覚をとおす声に、いつもと変わらない親しいひびきに、少しだけ身体から力が抜ける。
ようやくひとつ呼吸して、改めて、椋はそのひとと真っ向から相対した。
静かにこちらへ歩み来る女性は、向こう側が透けて見えそうなほどに、肌も恐ろしいほど白い。控えめながら瀟洒なドレスに、身を包んでいるその女人。
覚えておくように言われていた、失礼のないようにといわれていた相手の、ひとりだった。
「これは姉君。ちょうど今まさに、彼が来てくれたところですよ」
誰より先に調子を戻したのはセルクレイドだった。
しずしずとこちらへと歩む彼女を、ゆったりと笑んだレニティアス王が椋の目前まで導いた。さらに強い「目線」が近づき、思わず後ずさりそうになる、が、カリアの気配でなんとかとどまった。
本当に、初っ端から心身両方の意味でカリア頼りもいいところだった。カリアがいなければ、とっくにみっともなく倒れるか逃げ出すかしてしまっていた気がする椋だった。
なにしろほんとうに聞いてない。こんなの予測しろという方が無理な話だ。
意味が分からなくて、もはや笑いたくなる。おかしい、なんでだ。
事前情報が思いっきり空振りしている。そもそも唯一無二の力をもつこの女性は、セルクレイドに姉と呼ばれるひとは、その手にする「力」の特殊性ゆえ、いわゆる社交の場に顔を出すこともまれで、ましてや中心に足を向け会話をすることなどほぼない、のではなかったのか。
「おそらく会うことはないだろうけれど」。これっぽちも役に立たなかった予測を全力でぶん投げながら、椋は女性に向かって頭を下げた。
「……っ、エクストリー王国より参りました、アノイロクス陛下のカーゼット【劔】、ヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】リョウ・ミナセと申します。お目にかかれて光栄です、セルドラピオン、リクスフレイ・レニティアス様」
「カリアスリュート・ラピリシアです。大変ご無沙汰しております、リクスフレイ様」
自然にそっと添えるように、椋の名乗りにカリアが続く。
覚えのあるものなどほぼ皆無のこの場所で、唯一そこにいる、ある、いてくれることが椋にはわかる相手。わかるから、またひとつ何とか呼吸ができる。
前だけ向き続けなければならないから、いまの椋に彼女の姿は見えない。
その目がどんなふうに、椋を見ているのかはわからない。
それでも、背中越しにも彼女は眩しかった。どんな花も、宝石も、圧倒的にくすんで霞む。ただ椋のお守りには、あんまりにも勿体ないくらい、申し訳なくなってしまうほどに。
綺麗すぎて言葉もない、なんて、フィクションの中だけの話だと思っていた。
それが誇張でも冗談でもなかったことを、つい先ほど椋は知った。カリアの声に振り向いた瞬間、椋の意識は完全に凍りついて、まともに動かせなくなった。
美人なのは知っていた、はずだった。
そう思っていただけなのだと、頭を殴られたような気分だった。
中学生かよ。我ながら笑いたくなる。まともな褒め言葉のひとつもかけてやれなかった。少しだけ、残念そうにしたカリアの顔が、椋の意識にこびりついていた。
いやだって、驚いたんだ、とんでもなく、すごく、……たぶん、きっと、カリアが期待してた以上に。
へぼ、へたれ。甲斐性なし。
言われても仕方がないし、椋自身、まったくもってその通りだと思っている。
「……リョウ・ミナセ」
そのとき響いた呼び声に、はっと意識が目前へ戻される。
彼女の声はこれまで耳にしてきた、何とも違う不思議な音のつらなりだった。
ずっと呼ばれ続けてきた自分の名前が、聞いたことのない響きを帯びた、気がした。知らない単語をなぞるような、わからないものを辿るような、「異質」な音だった。
そわりと、背筋に奇妙な感覚がする。
彼女からの目線の感覚は、真っすぐ揺らがずに強いままだ。それは椋を否定し拒む類のものではないが、同時に、肯定的なものとも、なんとなく言いがたかった。
気づけば広間は静まり返っていた。
怖いなかで、目は伏せて視線を受け止める。来る言葉を、かけらも予測などできないままに待つ。
このひとに、自分はどう見えるのだろう。
特別すぎる「眼」をもってなんでも見透かしてしまうのだというこの女性に、水瀬椋というものは、違って、見えるのだろうか、それとも。
椋は動けない、相手は動かない。
もうしばらく沈黙は続き、そして。
「手を」
「は、」
細く、病的なまでにしろい指が目前に伸びてくる。
思わず顔を上げた椋の視界に、その手を彼へとさし伸ばすリクスフレイの姿が入った。
ざわりと瞬間、人々の衝撃が波動になる。椋は奥歯を食いしばり、淡くうなじを逆撫でされるような不快の感覚に耐えた。
声が続く。
「あなたの手に、触れても?」
「は、はい」
否やなど、口にできるわけがない。
さらに伸ばされたリクスフレイの手が、そろりと椋の手のひらに触れた。少しでも力を入れたら折れてしまいそうな細い指が、ゆっくりと形をなぞり、確かめるように椋のかたちをたどる。
小さくカリアが息を呑んだ。
セルクレイドが、面白がるように眉を上げた。
なぜ。椋にはまるで理由がわからない。椋は知らない。
リクスフレイ・レニティアスという特別の目には、大多数の人間が、ほんのわずか触れることすら、大変に躊躇するようなものとして映ることを。
ゆえに彼女へ接触することを許す他者など、圧倒的少数であるという事実を。過去、彼女が拒絶した数多の海千山千の現実を、椋は知りようもない。
リクスフレイの細い指は、ゆっくりと椋のからだをたどる。指先から手のひら、手の甲、手首、たどり、なぞる位置を少しずつあげてゆく。
そうして肘先まで触れたところで、リクスフレイは、手を止めて息を吐いた。
「……触れられる、声が、おとが響く」
信じがたいようなひびきをもった言葉に、今度こそ、椋の全身にぞっと戦慄が走った。
それは、はっきりした「否定」だった。椋を、彼という存在そのものを、「ありえない」と告げる声だった。
気分が悪い。目前がひどい白黒に点滅する。相変わらず、かけらも、リクスフレイからは悪意を感じない、だからこそ、どうしようもないぐらいに、ひどく、気持ちが悪い。
おかしいものがそこにあると、示してみせる音だった。
水瀬椋個人の何より前に、椋「そのもの」が異常であると、示そうとするかのような声であり言葉だった。異常で、異質で、……本来、あってはならないものであるかのような。
ひどい不快感で視界がゆがむ。思わず椋が手を払いのけようとした一瞬前、まるで見計らったようなタイミングで、すうと、彼女の手は椋から離れていった。
「ありがとう。カーゼット……少しだけ、わかったわ」
「それは重畳。我が劔、貴方のお眼鏡にかなったようで何よりだ」
ざわりとまたひとつ波が起きた。
知る声に椋は振り返る。振り返って、目に入った、おそろしい光景にぎょっとした。
目がつぶれそうな、光の集団だった。
ひとりでに割れる人垣から、彼らは椋たちのいる方へ、圧倒的な存在感をかけらも隠そうともせず現れる。星が、ぎらつく光の塊が、満を持してとでもいうように、まとまって姿をここへあらわす。
豪華絢爛、壮麗、燦爛。そんな言葉程度では、到底、その人々のうち、ひとりを形容するにも足りないだろう。
それはそれぞれが「中心」だった。理屈ではない「引力」を当然のように備えた人々の姿だった。
ひとの上に、頂点に立ち、多くのものを当然として傅かせる。威風堂々の、――それぞれの国でただひとつの、複雑にきらめく王冠をいただくものたちの、集いだ。
気づけば椋は、その場に膝をついていた。
結果的に、彼の「王」、アノイに向かって礼をとったようなかたちにはなっていた。
エクストリー国王アノイロクス・フォセラアーヴァ・ドライツ・エクストリーは、大層面白げにその双眸を細めた。
「今日は良い夜になりそうだな、セルクレイド」
「そうだな、と、まずは言っておこうか。歓迎しよう、皆々方。限られた時間の中ではあるが、どうか楽しんでいってほしい」
「ふん、随分とぞんざいな扱いをしてくれるものだな。……だが」
ぐい、とそこで、下げていた顔を無理やりに引き上げられた。
椋の顎にかけられたのは、豪奢な金銀が複雑に絡み、しゃらりと動くたび音を鳴らして光る扇の先。上げさせられた視界の中で、深い、大きな紫紺の瞳が、鮮やかな紅を引いた唇が大きく弧を描く。
「ほほう、なるほど、なるほどのう。ぬしが今代の、エクストリーのヴァルマス【劔】か」
「ふふ。初めから、とても興味深いものを見せてもらったわ。初めまして、アノイのヴァルマス【劔】、リョウ・ミナセ」
「おお、本当に染めてんじゃあなく、そのまま根っこまで黒いんだな。エン、おまいさんのとこのぅと同じか、もっと黒いくらいじゃあねえか?」
扇は椋に向けられたまま、面を伏せることは許されない。いつの間にか、すぐ近くにいたはずのリクスフレイは姿を消している。
そんなところに気が行くのは、少しでも目前の現実から逃避したいからだ。妙に冷静な一部分がそう判断する。俺はそもそも、この状態でいつ立ち上がっていいんだろう、視線はどのあたりで泳いでいるべきなんだろうか。そんなところからもう椋はわからない。
それでも下げることを許されない、視線の先に五人の王様の姿がある。
なんとなく中国のものに似た風情の着物や、布の重ね方がアジアンテイストな気がする服装やら、なんとなく見覚えがあるようなないような衣服や装飾品がある。が、きっとまともに突っ込める日なんて永遠に来ない。いや来なくていいからとりあえず一刻も早く逃げ出したい。今すぐここから立ち去りたい。
絶対に無理なことを心底から椋は願った。
もちろんかなうわけもなく、目前の王はもう一人増える。
「まったく、始まりから随分と騒がせてくれるものだ」
その、王たちの集いのほうへ、レニティアス国王セルクレイドもまた肩を並べた。
すでにすり減りつつある椋の精神が、さらに削られる展開が始まろうとしていた。




