P3-40 邂逅のために
またずいぶん更新の間が空いてしまいました…申し訳ない。
「――城下とこっちで話が違う?」
シャツに腕を通しかけた、半端な姿勢で椋は二人を振り返った。
現在の彼は、絶賛、今晩のパーティーに向けて支度中である。つい止めてしまった作業の手に、すかさず指摘が飛んだ。
「リョウさん、手は止めないで話だけ聞いてください」
「すみません」
とりあえず半端になっていたシャツに腕を通す。ジュペスは笑って、いいえ、と首を横に振った。
カフスボタンを留め、スラックスに足を通す椋へ、二人が語ってくれた話はこうだ。
曰く、城下でも黒猫が、あちこちで目撃されているという。
小さな、不思議な黒い猫。その姿を見たという人間は、老若男女、時間もさまざまで一定しない。
しかし「見た」という人々は、口をそろえてこう言うらしい。
「あのときはどこかに行こうとしていた」
「けれどそのどこかが思い出せない、理由もわからない」
いわく、ぼんやりと翳みがかっていく思考の中、ふいにひらめく光と、黒の色彩が目に入り。
ハッと我に返ると、目前には一匹のちいさな黒猫がいる。
猫は鳴きも動きもせず、じっと、そのひとをまっすぐに見つめているらしい。何かを確かめようとするようかのように、引き付けようとするかのように。
ゆうらりと揺れるしっぽに誘われ、思わず手を伸ばそうとすれば、その瞬間にひと啼きして、ぴょいとその場から消えてしまうのだそうだ。
消えた後には、ただいつもの、何も変わらない光景が広がっているだけ。
なんだったんだと首をひねりながら、誰もが、そうして日常に戻っていく。
「……なんだそれ」
「ああほら兄貴変な姿勢しないしない。ズレますよーほらぁ」
「うっ!?」
音が鳴りそうな勢いで首を正面に戻される。鏡越しの自分の姿は、正直、まだまだ半端である。
ぼさつく髪に櫛を通されながら問いかけた。
「なんで同じ猫だって分かるんだ?」
「目撃されているいずれの例も、黒の毛並みに白い手足と尻尾、瞳は紫で、光沢のある白い額飾りをつけていたという話だからですね」
「……へぇ」
「そういやさっき俺がお迎え行くまで兄貴、中庭のベンチでひとりでなにしてたんですか? あっははまさかその猫がリョウさんとこ来て遊んでたりとかいやーいやいや」
「……」
「……リョウさん?」
返す言葉がないまま釦を留める。
黒の毛並みに白くつした、紫色の賢そうな眼をした、不思議な白い額飾りの子猫。
印象的な強い瞳が、一瞬ですぐに思い返せる。なにしろつい先程まで椋の目の前にいたのだ。さらに言うなら昨日の朝、霧に覆い尽くされた外から椋の部屋へ飛び込んできたのだ。
小さな、ふしぎな子。何かを伝えようとするように、まっすぐ椋を見上げていた。
なぜかやたら傷をなめたり、手に額の飾りを押し付けたりされた。椋の問いかけに応じるように、自分のいまの飼い主を、赤と、青と示して見せた。
ふつうのねこじゃなかった。
妙に納得できてしまうのは、たぶん、喜ばしいことじゃない。
「リョウさん」
「……あぁ、うん。さっきまでたぶんその子、俺の前にいたよ」
語気を強めて呼んでくるジュペスに、ひとつ息を吐いて肯定を返す。
ジュペスとロウハが顔を見合わせた。苦笑して先に口を開いて来るのはロウハである。
「なぁんでそんなピンポイントで、いま一番の不思議っ子に懐かれてんですか兄貴」
「まったくです。なぜそんなものがリョウさんのところに? ……まさか、」
まさか。
表情を険しくするジュペスに、椋は笑って首を横に振った。
「俺はただぼーっとしてただけだよ。別にどこに行こうとか、呼ばれたとか、そういうのは一切なかったから大丈夫。その人たちとは違うよ、たぶん」
「しかし、それならなぜ」
「俺にもわからない。お礼しに来たのかな、とも思ったけど、たぶん、それだけじゃないんだろうとも思う」
「お礼?」
「昨日の朝、その子、血まみれで俺の部屋に飛び込んできたんだよ。結構ひどいケガで、とりあえず手当てしようとして……一番ひどいやつだけ治せたくらいのとこで、全力疾走で一目散に逃げられたんだ」
椋の言葉に、ぽかんと、そろって二人が呆けたように口をあける。
何だそれは、どういうことだそれは。
ひしひしと無言の圧を感じるが、言っている椋だってわからない。むしろ椋が言いたい。猫と話ができる魔具ってないんだろうか、魔術でもいい。先ほど考えたことをまた椋は考えた。
不可解な現象の直前に、現れるという不思議な風体の猫。
瞳のうちに、くっきりと理性が見える、額の飾りも何か、不可思議に特別なものを感じさせるちいさい黒猫。ふたりの情報を聞けばなおさら、あの子が「ふつう」の猫だなんて思えない。
失踪した患者、失われた、奪われた時間。
惑わされる人々、そのさなかに現れるという猫、その猫を追っていた霧、今でも覚えている椋、もう一度やってきた猫が示した、飼い主だという「赤と青」。
手元にあるものを並べてみても、一つもうまく繋がらない。疑問だけがふくらむ椋に、そろりとロウハが聞いて来る。
「一応確認でお聞きしますけど兄貴、その時間って」
「ああ、うん。セテア・トラフがいなくなったのと、ほぼ同時刻、だと思う」
椋の肯定に、ジュペスが大変頭の痛そうな顔をした。
額に手を当ててひと呼吸置いてから、心なしか疲れたような声で質問を続けてくる。
「……それで、そのときリョウさんが治療をされた猫が、先ほどまで、リョウさんにお礼に来ていた、と?」
「それだけだったらいいんだけどな。やたら懐っこかったし、あと、飼い主のことを聞いたら、額の飾りの色を、赤と青に変えて見せてさ」
「え?」
「俺も同じように思って、どういう意味だって、聞こうとした瞬間にロウハが来て逃げてった」
「わぁお……うわーもーホントなんというか流石兄貴というかそう言うしかないというかうん、とりあえずそこに関しては俺の間が悪くて申し訳ありませんというか……」
ロウハも苦笑している。そんな褒め方をされても特に何も出ない。
椋もまたひとつ息をついて、困ったように眉を下げている二人を改めて呼んだ。
「なあ、ジュペス、ロウハ」
「はい」
「へいっ?」
「そもそも猫って、呪いを媒介できるのか? 呪いじゃなくてもいい、病気を伝染させる原因として、常識として、考えられる生き物なのかな」
「……一応お聞きしますが、リョウさん、は」
「動物の種類にもよるけど、そういう病気がいくつもあるのは知ってる」
「……んんんんんん」
さらに二人が難しい顔になった。
猫が、動物が、病気の原因となるもの。まず誰もが最初に思いつける名前は、狂犬病、だろうか。字は狂「犬」病と書くが、実は哺乳類であればほぼ全種類で感染の可能性がある病気で、一度発症してしまうと、助かる確率は極めて低い。
ほかにも、マラリア、黄熱病、などなど、挙げ始めればキリがない。
伝染、感染の経路としては、蚊などによる媒介、感染した動物の糞便からの間接的な感染、また感染した動物に直接噛まれたり、引っかかれたりすることによる――
「……リョウさん?」
手袋をはめようとした手が、そのとき思わず止まった。
椋の視線の先、そこには浅い傷が複数散っている。あの猫が昨日引っかいて、そして先ほど、ざらざらと舐めていったものだ。
傷を眺める。ヴォーネッタ・ベルパス病は「呪い」だ。椋のなじみの「感染症」ではない。
そして椋は、今ジュペスたちにも言った通りに無魔で、少なくとも今日まで確認されている「発症条件」を満たさない。
そもそも猫の目撃情報があるのは「患者がヴォーネッタ・ベルパス病を発症する前日もしくは当日」だ。少なくとも今のところは。数人の情報でしかないが。
患者に傷があるか、どうかは。
ただ噛まれたり引っかかれたり、それだけで「呪いの感染」が成立するのか、は。
「どうなんだ? ロウハ。何か、それらしいことだけでもいい、聞いたことないか?」
手袋をきっちりはめ切って、ぐっと椋は顔を上げた。ロウハは大変に珍しく、眉間に深い縦皺を刻んでいる。
それでも応答を促す。
「ロウハ」
「うーん、ええーと、うーん、……そうですねぇ、正直俺もちょっと自信がないですっていうか例がねぇうん。かなり少ないんですよそもそも絶対的に」
「ないわけじゃないんだな?」
「まあ、んんーと、ええと、はい……うーんいやでもこれ全然ヴォーネッタ・ベルパス病とは症状から見つけやすさから何からまったく違ってて参考にならない気がすんですけどね確かもう五十年以上前の話だしなぁうーん。ていうかそもそも呪いは埋め込みに魔術の行使が必要不可欠ですからね、並みの魔術師風情じゃあっという間に呪い返しで自分が削れて終わりって感じで古今東西とにかくいろいろ事例に事欠かないってのはまあ悪いことなんでしょうけど。んで猫に限らずですけど使い魔って特に呪術みたいな意味不明にグチャグチャ込み入った魔術なんて編めませんからねぇ。それをまたこのランスバルテの狂華術式なんて複雑怪奇に規格外なシロモノ、一切の痕跡も残さずにしかも使い魔使って埋め込むなんて芸当、まず不可能だと思いますよ」
椋もまた眉間に皺を刻みつつ、ロウハの長広舌を噛み砕く。怒涛に並べられていく言葉の中には、大きな答えが三つあった。
まずひとつ、動物を媒介した呪いの例は「ある」。症状は違えど実在する。
二つ目、呪いの発動のためには魔術を使用する必要がある。
三つ、「使い魔」とはいえ動物に、複雑な魔術を使わせることは「普通」できない。
それでもなぜか、きらりと椋の脳裏にはあの紫の目とオパール色の飾りが光る。なにか、なぜか、まだどうも納得がいかない気がする。
ううむと椋は喉奥で唸った。
「……そうか」
「けれど術者が、不特定多数の「時間」そのものを削り切るような規格外の力量を持つ魔術師だとすれば、話はまた少し違ってきます。使い魔は、ただ魔力増幅器や探知機、道先案内としての役割を果たしさえすればいい……いやでも、そうさせるために必要な手間と金銭、労力を考えると、いたずらに場を混乱させる以外、特に利点はない、のか」
異質の仮定に、さらに仮定をジュペスが重ねてきた。
予想外の言葉に椋は驚く。しかし椋の視線にも気づかず、何かさらに考え込もうとするように、顎先に手を当ててジュペスは思案する。
その瞳はどこか、少し遠い場所を見通そうとしているようにも見えた。
空の青が、妙に遠く思えた。
椋より前に、常との差異に目をすがめたロウハが彼を呼んだ。
「ジュったん?」
「……あ、いや。すみません。相変わらず、リョウさんが僕らの想定の埒外におられるので」
「え、悪いの俺なの?」
「ははは、いや悪かないですけど確実にとんでもねぇ大嵐呼びまくってますよ兄貴はもうすでに。よーしハイ、これで一通り出来上がりっと!」
「痛っ!」
バシンと強く肩を叩かれ、思わず椋は一度目を閉じた。そして開くと鏡の中から、なんとも微妙な顔で見返してくる自分と目が合う。
これで最後にしたいため息を、椋は深々と吐いた。
最高級のものだけ使ったらしい生地は、見た目の重厚感のわりには軽い。が、それ以上に大変に椋の気分が重い。そもそも「服に着られている」感覚が半端なかった。
シャツの襟を整えてくれながら、妙に楽しげにジュペスが笑う。
「よくお似合いだと思いますよ、リョウさん」
「笑いながら言われても説得力ないんだぞジュペス」
「やー? でもホント、予想してたよりぜんぜんサマになってますよ兄貴」
それは褒めてくれているのか。微妙な言葉とともに、ジュペスとは逆側に立つロウハが肩をすくめる。
急なことだったにもかかわらず、椋の着替えを手伝ってくれた二人の手つきには迷いがなかった。普段は適当にしている髪にブラシが通され、気づけば前髪が撫でつけられて後ろに流されていた。
鏡の内には、慣れない余所行きに緊張する自分の顔。前髪がないせいで普段より余計にくっきり見える。
相変わらず楽しそうな二人に指示されるまま、セットの終わった椋は立ち上がった。
さらりとタイの位置を直される。首周りの多少の苦しさはどうしようもない。気を抜くなよとでも言うように、ギラリと胸元のブローチが強い輝きを放った。おそらくこれひとつだけでも、椋が元々持っていたスーツが束で買える。
群青よりさらに深い色の衣装は、事実、椋のためだけにつくられたものだ。
さまざまな用途に合わせて使い分ける必要があるらしく、これに加えてあと五つくらい、用意がある、らしい。現在の椋が身につけているのは「第五」、晩餐会用の、夜の正装だ。
彼、ヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】の護衛として入口まで同行するのはクレイである。
すぐ隣でこちらも支度を整え、椋を迎えに入ってきた彼は少しばかり目を瞠った。
「意外に様になっているな。ピアとリベルトが一時期、騒いでいたことはあったか」
「俺はむずがゆくてしょうがないよ。なあだいじょうぶかこれ。ものすごく落ち着かないんだけど」
「諦めろ。そのうち嫌でも慣れるだろう」
「おい何か今めちゃくちゃ不吉な言葉聞いた」
「気にするな。出るなら早くしろと言っただけだ」
ものすごく適当な流し方である。思わず笑ってしまう椋に、クレイは肩をすくめて応じた。
扉を開けてくれる二人を振り返る。
「あのさジュペス、ロウハ、」
「お任せください言われずともっ」
「どこまでこの一晩で詰められるかはわかりませんが、あちらも含めて、できる限り見ておきます」
「……ごめんな無茶振りばっかりで」
「何をいまさら」
何を言う前に快諾された。
ヴォーネッタ・ベルパス病に関しても、城下のことに関しても、あとは、できればあの猫に関しても、さらに詳しい話を。加えて、放っておけば確実に暴走して最低限の人間的な生活も放りだす魔具師たちのセーブ役。
ほんとうにひどい無茶振りだが、二人はただ肩をすくめて笑っただけだった。
見送られながら、外への一歩を椋は踏み出す。
ほとんど想像するくらいしかできない、未知の戦場への、第一歩だった。




