P3-39 光明を求め 4
<水瀬椋の診療記録 3日目より抜粋>
【S】
声をかけても反応なし。
診察中に同じ傭兵団の同僚が訪室したが、こちらでも反応なし。
【O】
GCS:E1V1M5? JCS:Ⅲ-300
(目:あかない 声:なし 筋肉:全体的に何となく力が入っているような感じ、動かそうとすると抵抗がある)
動かしたときの左右差なし
表情の変化なし
対光反射+/+ 少しわかりづらい 瞳孔1.5/1.5mm 差はない。小さい。
バビンスキー反射±/± はっきりしない 膝蓋腱反射両側亢進
脈72-76/分 呼吸15/分 ゆっくり
呼吸困難なし
明らかな音はしない
皮膚ツルゴール*低下なし
皮膚の変化なし
眼窩のくぼみはない
◎メモ
昨日より少しだけ脈が速い?
目があったのは、気のせいなのか?今日も最初の一回だけ、見られていたような気がした。
反射がうまく出せない。一日目くらいにしっかり出ない。変化というより下手…でも、ある、ように、見える。
頭の中がどうなっているのか見たい。見て、何かあれば叩けるようにしたい。
ヘイたちに期待したい、が、とりあえず睡眠時間だけは確保させること。
*ツルゴールturgor:直訳は「皮膚の緊張度」。いわゆる「皮膚のハリ感」のこと。
脱水時には「皮膚をつまんで離してもすぐに形が戻らず、しわができたままになる」状態になることがあり、これを「ツルゴール低下」と呼ぶ。
「読めませんね」
「うん、いつ見せていただいても、絵か模様みたいよね」
「でも文字、なんですよね。リョウ兄の」
とあるノートをのぞき込みながら、カーゼットの若き祈道士ふたりは顔を見合わせて笑った。
これはもっとも分かりやすく、彼、リョウ・ミナセが違う場所の人間であることを示すものだ。見せてほしいとお願いしたら、無造作にはいと渡された。
彼が「カルテモドキ」と呼ぶこれは、リョウが生まれ育った場所の言葉で書かれている。
当たり前のように、リベルトもピアもまったく読めない。確実に、彼以外誰も読めない。並んでいる文字の種類だけでもずいぶん多く、二人の知るどの国の文字とも重ならない。
彼の母国の言葉な理由は、まずなにより「書きやすいから」だという。
いわくリョウは「がんばれば」エクストリーおよび近辺諸国の公用語であるレノルクス語も普通に書ける、らしい。が、やはり生まれた時から慣れ親しんできた言葉が一番いいらしい。
同時に「見られただけで大問題」になるのを避けられるから、とも言っていた。まあ後付けなんだけどな、と笑いながら。
みんなのどれとも違うなら、俺が何を、どんなふうにこの中に書いて、それ見られたって、少なくともそれだけじゃ怒られないだろ。
言われてしまうと、逆に気になってきてしまう人の性である。
いくら気にしたところで、読めるようにはなれないのが残念なところだ。
「さっき診察されてた、目であったり、手だったり、のこと、なんですかね、きっと」
「あとは、脈と、呼吸の回数と、反射、って言ってたわね」
ふたりで文字をなぞってみても、どうしても想像にしかならない。
リョウはいま「公人」として表舞台に出るための準備に向かっている。エクストリー王国の貴族筆頭であるラピリシアの当主直々に、マナーの付け焼刃特訓がそろそろ始まっているはずだ。
説明してもらっても、ぴんと来ないものの羅列。たとえば転びそうになったときにとっさに手が前に出る。猫の目のように、人も暗い所では瞳孔が大きくなり、明るい場所では小さくなる。そんな「当たり前」が、どれも、当たり前ではなくなることがあるのだという。
脳に、司る場所がそれぞれあって、すべて、事象には名前がつけられているという。
何とはなしに、リベルトは目前で眠り続ける患者、アルティラレイザー・ロゥロットに目をやった。ただ見ているだけでは、昨日ともおとといとも違わない眠りに落ちたままの人を、改めて見た。
今カーゼットは総力を挙げ、彼女を目覚めさせるための方法を手繰っている。
前代未聞の手段をもって、カーゼット以外の、トレイズやカツキの意見も、きっと今後は取り入れて。以前と同じように、リョウ・ミナセでなければ考えようともしなかっただろうやり方で。
また少し目線を動かし、サイドテーブルを見る。
そこにはリベルトたちが記した、今日の「診療記録」があった。
症状:眠ったまま目を覚まさない
外見の変化:なし
魔力等級:青
拡散:7
濃度:6
術式抵抗:2
維持回数:2回
アルティラレイザー・ロゥロットは、魔力等級「青」の魔術師だ。
魔力の測定術式で算出した、魔力の拡散程度――つまり最大魔力量に対する現在の保持魔力量は約7割、濃度、生命力と一般には言い換えて説明する項目は、健康なときと比較して約6割。術式抵抗、濃度と反比例して増大する、魔術の「かけづらさ」は、5段階中の2。この数値が高ければ高いほど、相手には術がかかりづらく、治療しづらく、また術の効果もより短時間で切れてしまうということになる。
維持回数は、ふつうの「診察記録」であれば登場しない項目だ。「一回の施術では完治しない病」である、ヴォーネッタ・ベルパス病にのみ使われているもので、患者の状態維持に必要な、滋養強壮の術式の施行回数を示す。初期の症例になればなるほど、重症になればなるほど、施行回数は、多くなる。
そもそもリベルトもピアも、滋養強壮の術式の施行回数なんて考えたことがなかった。
軽い一回だけで風邪程度なら吹き飛ばすことができる術式を、患者のからだを保つために、何度もかけるという発想自体がなかった。
「あ、っ」
そこまで考えたところで、ふわりと天蓋が開かれる。顔を覗かせた片眼鏡をかけた青年と次には目が合い、声が三人分重なった。
軽く会釈をする。
「こんにちは」
「すみません、いらっしゃると思わず。アルがお世話になっています」
彼は、アルティラレイザー・ロゥロットの所属する庸兵団のひとりだ。
顔をあげた彼はふわりと周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「……ここは静かですね」
外界とは一切隔絶されたように。すべてが嘘であるかのように。
こうして会話をする自分たち以外、何も動いていないようにさえ思えてしまうような――ああ、そうだ、けれど。
「ええ。でも、戦いの場所です」
「戦い?」
「ロゥロットさんをこんな風にした呪いと、ロゥロットさん自身と、何とかして助けたい俺たちの」
忘れてはならないことを言葉にして、リベルトは彼の問いに頷く。静かな治療室の内側で、彼女がただ眠っているだけ、で、あるはずはない。
また目の前の、彼女へと目を向ける。眠りの中で、アルティラレイザー・ロゥロットが見ているものは何だろう。その夢は、おぞましいものだろうか、それとも「たのしい」ものなのだろうか。かつて村ひとつを滅ぼした邪悪の通りの、ひどいもの? あるいは存在しない「のぞみ」に満ちた、虚飾の楽園を描くような?
無論、どちらであろうとも、リベルトたちのすべきことは変わらない。
治すために進む。わずかでも、些細でも見つけてみせる。なんの関係もなさそうなものでも、あるとき、視点を切り替えてみれば、突然繋がることだってあるかもしれない。
まだ具体的に、何ともめったに言えないのが未熟者の残念なところだ。
考えていると、ふと、小さく青年が笑った。
「……同じ目をしているんですね」
「え?」
「分からないことに、怖気づいていない人の目だ」
思わずリベルトは、傍らのピアと顔を見合わせた。
怖気づいていない。否、怖くない、わけはない。分からない、理屈が通じないのはおそろしいことだ。それはリベルトたち、カーゼットの面々も、これまでずっとヴォーネッタ・ベルパス病の患者たちを見てきたアンヘルレイズの人々も同じだ。
むしろきっと、リョウはある意味ではリベルトたちよりずっと怖がっている。
ただひとつ、今の時点で違いがあるとするなら、
「怖がらない方が、疑わない方がずっとおそろしいことですから」
リベルトは、ピアは知っている。事実として、現実として。
それは悔いるべき過去である。同時に、彼らがカーゼットに所属することになったきっかけである。何もできなかった、どころか、何が起きているのかすら分からなかった、今思い返しても苦さしかない時間の記憶だ。
それは最初にリョウが教えてくれたことだった。彼が、いつもその身をもって、意思の有無は少し別にしても示し続けてくれていることだった。
リベルトの返答に、目前の青年はそれ以上何も言わなかった。
代わりにこんなことを口にする。
「少し今、お時間をいただくことはできますか?」
「あ、はい。なんでしょうか?」
ちらりと青年は患者を見やり、わずかに痛いような表情をしてまたこちらを向く。
「……現時点の、ではありますが。あなた方からいただいた依頼の、ご報告をさせていただければと思いまして」




