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未来は見果てぬ旅路の先  作者: 彩守るせろ
第三節 流転の開放/折翼の少女
164/189

P3-38 罅びてゆく 2


 カリアの付け焼刃の特訓は、何やら、わかったのかわからないのかはっきりしないままに終わった。


「……いい天気だなあ」


 昨夜と同じベンチに座り、いまは一人で椋は空を仰いでいる。

 特訓終了から夜へ向けた準備まで、半端に時間が空いてしまったのである。診察に行くにも、アンヘルレイズの術師たちに会いに行くにも。何をするにも足りない、と、クレイたちは口をそろえて言った。ジュペスなんて、時間が飛ぶから駄目です、一度火がついてしまったリョウさんを止められる確証がありません。などと大変真面目な顔で言い切り、しかつめらしい顔でクレイとロウハもうなずいていた。失礼な話である。そして悲しいかな、さっぱり反論もできない話だった。

 ついでにね、さらっと続けてきたロウハの言も思い返す。

 ――アンヘルレイズの術師たちは、すでにトレイズ・カツキ両名がこちらにいることを知っているらしい。


「なんだかなぁ」


 「いま」、ほかの術師たちの診療時間とかち合うタイミングでもう一度診察に行こうものなら、確実に着火するでしょうねぇ。そうロウハは言った。

 下手しなくてももう今日ホントにどこにも行けなくなりますよ、割と真面目にボッコボコにされてもあんまり驚きゃしませんよ。

 しかもタイミングが悪いことに現在、今回の一連に関する覚書ノートが貸し出し中だった。今、あの殴り書きの山はリベルトのところにある。考えを改めてまとめなおそうにも、これまでのいろいろを書きこんであるものが椋の手元にないのだった。

 よって椋はいま、ほんとうに半端に暇だった。

 あともう少しすれば、椋もまた飾り始めなければならないという事実が、余計に思考を鬱屈させ塞いでいた。


 ――たとえおまえが凡庸であろうと、それは、おまえの裁尺のうえでの話でしかないからな。


 手持無沙汰の中、アノイの言葉が頭をよぎる。

 思わず椋はため息を吐いた。自分で決めたことながら、今更ながら、ほんとうにうっとうしくて面倒くさい。

 最善の手だと言われても、納得はしても、やる気には到底なれなかった。小物と言われようが全くその通りである。結局こういうところがガキなんだよなあ、苦笑して、がりがりと椋は頭をかいた。

 仰ぐ空は、今日も昨日と同じくきれいに晴れている。今朝は気づけばもう「朝」だった。またあの妙な霧が出ていたのかどうかは、わからなかった。

 少なくとも、きょうは誰かが消えたりはしていない、ようだが。

 それでも――思索しようとして、ふと瞬間、椋の目の前になにかが映りこんだ。


「にぃ」


 ねこだった。

 真っ黒な毛並みに白くつしたの、小さい毛玉がそこにいた。

 見上げてくる瞳は紫色、額にはオパールのような色の不思議な飾り。昨日の朝は全力で椋から逃げていったものが、なぜか今、椋のすぐ近くで鳴き声を上げている。

 思わず椋は瞬きをした。

 しても光景は変わらない、どころか。


「おぉ!?」


 ぴょいと重力を感じない所作で、軽やかに膝に乗ってくる。さらに近くで、じいっと何か訴えようとするように見上げられる。そうしてまたひと鳴き。先っぽだけ白いしっぽが揺れる。

 しかし椋に猫語はわからない。

 そっと頭をなでてやると、心地よさそうにくるくると猫は喉を鳴らした。


「……もう、ケガは大丈夫みたいだな」


 頭から背中へ撫でる手を移動させながら、椋は猫を観察する。一番ひどい傷があった前足をさりげなく触ってみても、猫が嫌がる様子はない。

 やはり飼い猫なのだろう。相変わらず首輪もリボンもなにもないけれど。どういう心境の変化なのか、猫は昨日の嫌がりっぷりを投げ捨てる勢いで、椋にされるがままだった。

 昨日のこの子は全身傷まみれだった。椋が治療できたのは足だけだった。カリアが入ってこようとした瞬間、椋の部屋から逃げ出した。

 そんな子がほかになにもされずに、昨日の今日で、すっきり全快して毛艶もぴかぴか、というのは考えづらい。何を隠そう椋の手には、昨日のひっかき傷がまだくっきり残っている。

 比較的深い傷があるのが、何とか服に隠れる範囲でよかった。地味にものが当たると痛いが、指や手の甲の傷に関しては、よく見なければ分からない程度である。「そんなものも治せないのになぜ」。椋にもどうしようもない状況を、むやみに突っ込まれる可能性は減る。

 しかし本当にものすごく手触りがいい。

 癒される椋の手を、ねこは小首をかしげて見た。


「なんだ、どうし、……あっちょ、こら、いててててて痛い痛い!!」


 なぜか次には、猫は椋の指先の浅い傷を舐めだした。

 猫特有の、ざらざらした舌が容赦なく傷口をえぐる。思わず椋は悲鳴を上げて手をひっこめた。赤く分かりやすくなった傷口で、痛みがひりついている。懐かれたのか嫌われたのか遊ばれているのか大変に不明である。

 手をさする椋とは対照的に、解せぬとでも言いたげにさらに猫が首をかしげた。きらりと光を弾いて額の飾りが複雑にきらめく。

 いやいやそれこそ椋のほうが解せない。痛い。


「……にぃ」

「ごめん、うん、痛かった」

「にぃ」

「だから、気持ちだけで十分だから、な」

「……うにぃ」


 ぐるるる。大層不満げな声と目線、ふよふよとしっぽが訴えかけるように揺れる。まだなんとなく手を狙われているような気がして、さりげなく椋は自分の両手を背中にまわした。

 それでもまだ、紫の瞳はじいっと椋を見上げる。手を出せとでも言わんばかりである。なんで。


「放っといて自分で治すしかないんだよ、俺は」

「にーっ」

「大丈夫だよ、昨日より痛くないし、膿んだり腫れたりとかもしてないし、な」

「にぃいいいっ」

「きみが昨日してた怪我みたいに、動けなくなったりとか、そんなん全然ないから」

「……うるるる」


 我ながら変な説得をしている。猫に。

 しかし猫は、言葉を重ねてもどこまでも不満げだった。じいいっと、さらに音が出そうな勢いで見つめられる。しばしの見つめあいは、そう長い時間もかからず椋の白旗で終わった。

 小さくてかわいいものには勝てない。世の節理である。


「……痛いだけだから、舐めるなよ」


 両手を背から引き出した椋は、苦笑して猫を抱き上げた。ぱちりと瞬きをする猫は、本当に昨日の嫌がりようはどこへやら、椋にされるがままである。

 自分の目の高さまで抱え上げて、瞳の紫と、ひたいの飾りを改めて椋は眺めた。やはりとてもきれいなねこである。どこの子だろう、名前はなんというのだろう。ご主人はどこで、何をしていて、……どうして今この状況で、この離宮の中で、黒猫を飼っているのだろう。

 「黒い猫」を霧の中で見たと言ったとき、ヨルドはそれまでより、さらに頭の痛そうな顔をした。

 なぜならヴォーネッタ・ベルパス病の発症前、患者の近くで黒い猫の姿を見た例が複数あるという。猫が感染をばらまく、呪いを振り撒く――ああ、まだその可能性について、確認ができていなかった。

 おとなしい猫を撫でながら、ちいさいものを椋は見おろす。

 関連はなにもわからない。そもそもが後付けの「目撃情報」でしかない。記憶は時間が経てば経つほど薄くあいまいになる。そんな中で「他がそう」と情報を加えられれば、なんの変哲もない物影にも、誰か猫を見る人がいるかもしれない。猫がいたと、思い込む人もいるかもしれない。

 猫は呪いを媒介できるのか。

 この子は今見てもわかるように、随分、頭は良さそうだけれど。


「なあ、きのうのあれ、何だったんだ?」


 気づけば口に出して椋は問いかけていた。

 あのとき、この子は動いていた。

 椋以外、既にほとんどから消えてしまった時間軸のうちがわで。はっきりと、動いて、動いて、――なにかから必死に、逃げようとしていた。

 追ってきていた白い霧と。

 傷だらけになっていたこの猫と。


「たすけて、って」


 悲痛に満ちた、叫ぶ声を聞いた。

 今また思い返しても、空耳だったとはどうしても椋には思えないのだった。


「うにぅ」


 それは返事なのか違うのか。椋の手の中で鳴き声を上げるこの子は、あのとき怪我をしていた。

 ひどく切羽詰まっていた。追われて、いた、ように見えた。

 あの、深い、深い霧は、あのときこの子を喰らおうとするようにかたちを変えた。すべてを封じ込めていくような、しんと落ちる無音の真白。霧は、瞬間でかたちを成し、猫を呑もうとしていた――そう、椋は思った。

 逃げる、必死のこの子を、無駄だと蔑み嘲るような声が聞こえた気がした。

 ぺろ、と、傷のない場所を小さく舐められる。

 膝の上に置いてやると、今度はぐいぐいと、椋の手のひらに頭、特にひたいの飾りの部分を押し付けるようにしてきた。


「おいおい今度はなんだ、どうしたいんだ」

「にににににに」

「おい、にゃんこー」

「にゅあうっ」


 わからないゆえの呼びかけには、物凄い勢いで反発された。

 自分はそんな名前ではないと主張するかのようである。だがやはり椋に猫語はわからない。さりげなく周囲を見回しても、相変わらず中庭は静かで、彼女のご主人の姿のかけらも見えない。

 しばらく椋の手と猫のひたいの攻防戦は続いた。

 押し付けられる飾りは硬く、ツボ押しでもされている感覚である。痛くはないが、とりあえずこの必死の理由が椋にはまったく不明だった。

 苦笑する。


「なあ、だから俺は治せないんだって」

「にぃ」

「治せないから、力もないから、地道に、多分誰から見ても遠回りで邪道に、……それでもあがき続ける、しか、ないんだ」


 声をひそめて落とした言葉は、自分に言い聞かせるような響きを帯びた。

 目を閉じれば、目覚めない患者の姿が思い返される。今日の診察でも見た、アルティラレイザー・ロゥロットの目を椋は思った。今日もまた、一度だけ「目があった」気がした。強制的に開かせてもらったまぶたの下、すがる光を、見た気がした。

 滋養強壮の術式目的で、一緒に来てくれていたリベルトとピアは見えなかったと言った。

 魔術での「診察」もまた終えて、「変わらない」とリベルトは言った。椋が記載したカルテの内容も同様だった。取れる所見に変わりはなく、目線が「合わなくなる」のも同じだった。

 知らずひとつ息を吐く。ぐりぐりをやめた猫が顔をあげた。ひたいの飾りが、さっきよりさらにきらきら輝いている気がした。

 ひとみには、どうして? の問いかけが見えた。

 どうして。

 椋だって、今でもわからないことだらけだ。


「一回でも、少しでも諦めたら、多分俺は、もう、そこで二度と動けなくなる」


 自分ですら「まともに」治せない。

 またいつ、同じような間違いをおかすかもしれない。

 診断が間違うことだって、診断が正しくても、治療を間違うことだってあるかもしれない。むしろ「ない」ままのほうがおかしいのだ。そもそも椋は医学生で、「正しいとされる診断と方法」を知っているにすぎないのだから。

 それでも考えない選択肢はない。

 どうしたら、もう一度彼女が目を覚ませるのか。毎日、一度だけ、最初の椋の診察の時にだけ「合う」視線の意味はなんだ。なにができる。何を考える。彼女という存在をおかすのは、どこに、どうあると考える――。


「やれることが正しいって、そういう保証も、なにも、ないけど」


 もし間違えたときは。

 その人にとってのベストが、知っているなかには存在しなかったら。

 考えるだけでぞっとする。足がすくみそうになる。それでも願ってしまったから、怖くても、願いが遠のかないから、だから椋は、ここにいる。

 自分勝手で、とても自分本意で無責任な願いだ。

 それでも椋にとって、自分を自分と保つための、最大、最重要の意地なのだ。


「きみは? またどっか行くのかな。そろそろ飼い主さんのところに戻るか」


 紫のひとみに問いかける。

 小首をかしげる仕草が妙に人間めいている。何か思索するようにひとつ瞬きをすると、ふいにぐい、と猫は椋の袖口を引っ張った。

 何だと、声を上げるより前に、その額の飾りの色が点滅するように変化した。

 オパールのような乳白色から、瞬間だけ、赤、そして、青の光が宿る。


「……赤と、青?」

「にぃ」

「きみのご主人が?」

「にっ」

「……赤も青も、どっちも?」

「にぃ」


 思わず椋は眉を寄せた。完全に「会話」が成立したようで、その内容がまったくわけがわからない。

 赤と青。まっさきに思い浮かぶのは、椋が、絶対に近づいてはいけないと言い含められている相手である。たぶん、皆が総力を挙げて「近づけてはならない相手」としてくれている存在の色である。

 その一帯はロウハ曰く、この離宮のなかでもっとも情報が歪んで渦巻いている場所だという。

 椋の、ひいては現在のアンヘルレイズの、フェイオスのやり方に、不満、不平等感を抱くものたちの行き先となっているのだという。


 レニティアス王国第五王女キールクリア、第六王女リールライラ。

 色彩以外の何から何まで、まるでそっくりな、双子の幼き治癒魔術師。

 

「……嘘、吐く理由なんて、ないもんなあ、きみに」


 催促されるがまま頭を撫でる。くるくると喉を鳴らす子猫に邪気はかけらもない。そして椋の言葉を否定しようとする気配も、まったくない。

 そもそも飾りの色って変えられるのか、そこからして椋には驚きである。

 もはや何もかも、偶然という一言では片づけられなくなってきていた。とりあえずこの猫、絶対に普通の――少なくとも椋が考える限りの「ふつう」の――猫ではない。

 百歩譲って、額の飾りまではいいとしよう。その「飼い主」たちが、意思疎通を願ってつけたものだとしよう。

 それでも、昨日「誰もが時間を奪われた」霧の中で何かに追われていた。

 ピンポイントで、椋のところへ逃げてきた。

 実は第五・第六王女様たちがかくまっているらしい。

 しかしそこからするする抜け出して、なぜかまた椋のところへ来ている。自分の主人のことを伝えてくる。しかも、椋の問いに答える形で。

 どれひとつ取ってもおかしかった。動物と話せる魔術ってないんだろうか。割と真剣に椋は考える。だってこの子は、きっと覚えている。何に追われていたのかも、もしかしたら知っているかもしれない。

 椋と、カリアと、あとはアノイと。

 もうそれくらいしか覚えていられなくなった「空白」の中で、消えた第三症例、セテア・トラフのことだって見かけているかもしれない。

 にぎゅっと不平満載の声があがり、指先に妙な力が入っていたらしいことに椋は気づく。

 はっと見下ろす先、不穏な気配でも感じ取ったか、しゅばっと音のしそうな勢いで猫が椋から飛び退った。


「ご、ごめんごめん、つい、」

「――――兄貴ーぃ? そろそろお時間ですよっと」


 突如乱入してきた声に、ぴくりと黒の猫耳が動く。声がしたほうへ椋が目線を向けた瞬間、はねるようにその場から黒が飛んだ。

 あっと咄嗟に手を伸ばすが、俊敏な小さなものに後手で届くわけもない。当たり前のようにすり抜けて、ひたいに黒をきらめかせたかと思うと、もう次には忽然と猫は姿を消していた。

 少しでも引き留める時間もなかった。

 行き場を失くした半端の手に、近づいてきたロウハが面白そうな顔で首を傾げた。


「なに猫にあそばれたような顔してるんですか、兄貴」



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