P3-37 罅びてゆく 1
ぐらり、と。
すぐそば、近くのからだが揺らいだ。
「リリッ」
「だ、いじょうぶ」
キールクリアは、思わず鋭く声をあげた。
対するリールライラはぐっと眉間に力をいれ、なんとかその場に踏みとどまる。腕にも力が入ったのか、にぁ、と抗議するような鳴き声がついであがった。
ちいさな王女二人が今いるのは、彼女らこどもの部屋である。テーブルには分厚い書物が何冊も積まれ、おさなくかわいらしい文字がおどるノートには、たいへんに真剣な考察があれこれと書きつづられている。
それは、次の本を探そうと、立ち上がろうとした頃合いだった。
さいきんのリールライラがおかしい。ふたりとも感じていて、けれど、誰からも全力で伏せて、目を背けようとしている事柄だった。
「あ、っ」
「ごめんねニィナ、痛かったの、ニィナっ」
するりと軟体動物のように、抱かれていた黒猫がリールライラの腕から抜け出す。すでにケガのかけらも見えない仕草で床へ降り立つと、じっと紫の瞳で、猫は少女たちを見上げた。
二人がなにを言うより前に、そして唐突に小猫は、開いていた窓の隙間から外へ身を躍らせる。
「ニィナ!?」
呼ぶ声も伸ばす手も、とどめるにはすでに遅い。あっという間にいなくなってしまった小さな存在に、ふたりは肩を落として互いに顔を見合わせた。
猫は元来、きままないきものだ。ふいにいなくなっては気づいたら帰ってくる。
ご飯を食べに、休むために、眠るために、……あとは。
「またいっちゃった」
「うん、……また、もどってくるの、夜かな」
ふたりの小さな患者さまは、不思議な紫の、ふかい知的なひとみをしている。
さっきのようにじっと見上げられると、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまう。質問されているような気分がするのだ、それでいいの、ほんとうに、このままでいいの。何もおかしいことはしていないはずなのに、どうしてか毎回、ふたりともが同じように感じてしまうのだ。
ふわふわしてあたたかいいきものが、やさしいことも同時に知っていた。
夜、ふたりが眠る前にはぜったいに戻ってくるのは、まるで、ふたりを見守ろうとしているみたいなのだった。
「どこいってるんだろ」
「わかんない。ついせきの魔術も、魔具もいつもうまくいかないもの」
「でもちがうよね、ニィナ」
「ちがうよ、そんなわけないもの」
ヴォーネッタ・ベルパス病発症直前に、黒い猫の姿が目撃されている。
ただの噂話である。そもそも黒猫など、ありふれている。ふたりのニィナは、きっとそんな勝手な噂話からいじめられたのだ。そうでなければ、あんなケガをして庭の片隅なんかに倒れているわけがない。
そもそもキールクリアもリールライラも、あの日から特になにも変わったりなんてしていない。
変わらない。いつもと同じだ。――同じ、だいじょうぶ、絶対に、そうでなくてはならないのだ。
「いこう、リリ」
「うん、どれがいいかな、キキ」
お互いにつなぎあう手のひらが、少し震えていることには気づかないふりをする。
患者がいなくなったのに、理由がなにもわからない。どうしてどうやっていなくなったのか、あの血のあとはなんだったのか。調査官はおろか、いつもひょうひょうとしてつかめないオルトリエ・ヘールヴェイまで、とても難しい、くやしそうな顔をして首を横に振ったという。
どうして。キールクリアもリールライラも、彼女らの伯父もだれもかれもかけらも答えが持てない。
なんで。どんなに今あるなにを頑張ってみたって、じりじりじわじわ、少しずつ患者たちの容体はわるくなっていく。
「まけちゃだめ」
「よわくなっちゃ、だめ」
指の力を強くする。いっしょにいる、いっしょに、ずっと同じ景色をみてきた。たくさん、治してきた、勉強をしてきた、そうやって、次に進んできた。だから今回だって。いまだって大丈夫、ぜったい、ぜったい、さいごには治してみせる。
幼い願いは確かに純粋だった。
それはきっと、誰とも重ねられる類の情熱であるはずだった。
「こんにちは、キールクリア様、リールライラ様」
「もうあの本たちも読んでしまわれたのですか? なんとお早い」
「昼の治癒ももう終えられたのですか?」
「昨日のアールレイの結果はこちらに」
「改めて経過をまとめなおしたものが、そちらになりますよ」
「――お聞きになられましたか。本日の宴に、異国の黒が参加するらしいと」
そろりと、ゆがむ言葉が挟み込まれてくる。
ふたりがたどり着いたのは、アンヘルレイズの図書室である。治癒魔術に関するものだけで図書室ができるのは、世界中をみても、ほぼここだけであろうと言われる蔵書数を誇る。
「奇病」ヴォーネッタ・ベルパス病のため、そこには常にましてアンヘルレイズの術師たちが多くいた。老若男女もさまざまに、さいしょの頃から、ふたりとともに、診療を続けてきたひとたちばかりである。
誰もがふたりと同じく病を治すべく、患者を目覚めさせるべく、日々、つとめている。
新旧さまざまの書物をめくり、患者の状態を確かめ、状況を確認しあい、情報を重ね、かさね、つらね、――それなのに、ある一方では。
……それは、なんなの?
まだ一度も姿を見たことのない「それ」は、すべてを傾かせている。
くるわせていると、言ってもよかった。だってこれまで「何もなかった」のに。堰を切ったように、破られたように、あるいは、呼ばれるように、喚ぶように。
だからこそ、膨らんでゆく一方の疑念を少女たちが口に出すことはしない。
それを、「わからないもの」を、みんな「わるいもの」と言う。ふたりのだいすきな、尊敬する、将来の夢で、目標である伯父上までだまして丸め込んで、いたずらにアンヘルレイズを踏み荒らさせているという。
荒れているのは、ほんとうだ。特別あつかいもほんとうだ。
間違っている、と。一人が言えば、すぐさまそこにいる全員がそうだと言う。こんなに、ここまで頑張ってきたのに。積み重なった「治せない」、けれど、だからこそ次は、次は、つぎは。
つぎ、つぎとして、できること。
「……リリ」
「お願いしてみよう、キキ」
「だいじょうぶ?」
「やらなきゃ」
他のものたちがまだ黒の云々に夢中になっている中、双子はお互いの瞳を見つめ合わせて決めた。
今日、それが公式の場に出てくるというのなら。
二人はまだ幼く、社交界デビューには早い。が、王族であるというその立場を理由に、最初だけ顔見世をすることはできる。今のうちから人脈を少しでも作っていく手段のひとつとして、どちらかといえば、平時であれば勧められることでもある。
懸念は、リールライラの体調が万全でないことだった。
だが、キールクリアの短い問いに、リールライラは首を振って真剣な表情をする。であればキールクリアとて、がんばってそこに行けるように、長い言葉は切れてしまいがちなリールライラの分までも言の葉を尽くすだけのことだ。
いままでどんなときも、調子を崩すときですら一緒だった。
なのに、今回だけどうしてか違っている。調子が悪いのはリリだけで、魔術の集中が途切れがちなのも、お昼寝が必要なのも、ごはんがいつもより欲しかったり全然ほしくなかったりするのも、リリだけ。
それはふたりにとって、あってはならないことだ。
ひとりだけなのも、治せないのも、なにもできないのも、違うのも。ふたりで先に進むのだ。ふたりで、一緒に未来をみて、一緒に、患者を助けるのだ。
だからふたりで見なければ。
それが本当に、だれが言う通りのひどい、ただ全部を悪くするだけの悪者であるのかどうか――。




