P3-34 光明を求め 1
随分すっきりした頭で、見慣れない部屋でトレイズ・ヴァルターは目を覚ました。
泥のように眠る、というのは、まさについ今しがたまでの自分のことを言うのだろう。体を起こして見回すと、ソファの上で眠る少年が一人。名はリベルト・エピ、彼の魔術学院時代の後輩で、今はエクストリー王から「朝闇」の名を受けた男の、直属の部下だという。
昨日は驚かされた。朝方の衝撃と混乱と不甲斐無さすら、少しばかり忘れてしまえる程度には。
すべてが雑音の洪水になって全方向から押し寄せてくる、呼吸ができなくなる。そんな感覚すら、刹那奪われてしまう程度には。
同じようでいて、もう少年は違った。トレイズが覚えていたリベルト・エピとは、何か違う場所を歩きだそうとしていた。
違うことをわかっていながら、正しさがないことも理解しながら、それでも止まらないのだと、言った。
「……そう、させるからこそのカーゼット【朝闇】、常闇の終焉を告げるもの、か」
「ンな御大層なお偉いサマじゃねェがな」
ただ、ひとり呟いただけだったはずの言葉に、横から唐突に違う声が刺さった。
サイドテーブルに置いていた眼鏡に手を伸ばし、慌ててそのほうを振り向く。レンズを通した視線の先には、知らぬ男がドアの近くから、トレイズを見据えて立っていた。
反射的にどこのチンピラだ、と思った。どうして今まで気づかなかったのか、不思議なぐらいに派手な見た目の男だった。
起き抜けの目には痛いほどのオレンジの髪に、鋭い眼光を宿す瞳は銀とも蒼ともつかない色をしている。容赦なく睨みつけてくる人相の悪さと兇悪さ、左右どちらにもじゃらじゃらと幾つも揺れる金属製のピアスに、容赦なくあちこち焦げてしわが寄ったローブ。今トレイズがいるこの場所を含めて何もかもがちぐはぐで、まったく意味が分からない。
思わず口が滑った。
「なんだ、おまえは」
「何だたァなんだ。狼狽えてんじゃねェよめんどくせェ」
けっと、あからさまに馬鹿にするように笑って男は吐き捨てた。
非常に分かり易い挑発だった。トレイズは眉を寄せた。今、朝も早くから「ここ」にあることができる以上、この男もまた、エクストリーに、「それ」に係る人間であるはずだった。
正直、その身形や立ち居振る舞いからは信じがたいことではあるが。
トレイズはまだ、エクストリー国王がここへ連れてきた「カーゼット」の全容を知らない。
その長であり、ヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】の名を授かった男ですら、まだ遠目にちらと見たことしかない。何しろ少し偵察が得意な同期はおろか、レニティアス含めたいかなる国の隠密も「黒」へ辿りつけないらしいのだ。噂ばかりが独り歩きし、特にアンヘルレイズの術師たちの目には、すでに何もかも、異常なまでに歪んで映る。
それほどに堅固に守られた内側に今己は居り、まったくわからないものを目前にしている。
確かに相対を望むとは言った。言ったが。
思わず、ソファーでまだ眠っている少年リベルトへ目線をやってしまうトレイズだった。こんなわけのわからないものに会わせろと言った覚えはない。
答えないトレイズを何と取ったか、さらに男は、口の端を歪につり上げた。
「結局はただの上ッ面かよ。変えてェだのなんだの、言ったのも結局は言葉だけッてか?」
「……なに?」
「アイツに勝とうって気概もねェなら、最初っから最後まで、テメエらで安全に停滞に籠ッてりゃァいいだろ。別に今からだって遅かァねェ、何もカンもに尻尾巻いて、とっとと勝手に逃げやがれ」
それは隠す気のかけらもない、正面切っての侮辱だった。
ぞっとするほど血の気が下がり、同時に腹の底で沸騰した。トレイズは目の奥に力を入れる、改めて目前の男を見返す。
誰が、勝つ気がない、尻尾を巻いて逃げる、だと。
吐き出した声は地を這った。
「貴様に、僕らの何が分かる」
「さァ? せいぜい、テメエらが何しようとしてンのかってのがまったく見えねェってことくらいじゃねェの」
どこまでも、わかりやすく逆上を誘う言葉。眉間にもトレイズは力を入れた。やすい挑発である。侮蔑である。大層わかりやすく、ゆえに、理由が逆に判然としない。
トレイズの無言をいいことに、さらに男は続けてきた。
「実際、テメエらは何をしたわけだ? アレをどう喚いて罵って貶しめようがテメエの勝手だがよ。何を見た。何を探った。何を刺して何を抉って、結果、何の無意味を見た?」
「……無、意味、だと?」
「実際、何もできなかったんだろうが、あァ? 止めるどころか目撃すらさせてもらえねェ、ヒヨッ子ポンコツ術師サマよ」
「……っ」
けらりと、ひどく軽薄に嘲笑される。
間違いなく、男は「カーゼット」の関係者だ。得ている情報を隠す気もない。無意味。目撃すら許されない。ひどい、言葉で、あしざまに形容した事実である。
トレイズたちはおろか、相応の地位実績を持つ癒士たちですら、いまは患者の診察を許されない。一方、この男の上司は、進むことを良しとされ、見ることを許された。
嫌な男だと思った。僕が何をした。
ぐらりと、腹の底が一段と強く煮え立った。
「……確かにそれは、一部における真実だろう。分かっている。認めたくないが、現実だ」
トレイズは顔を上げる。目前の男を、再度睨む。
男はまるで仮面のように、かけらも表情を変えずにただそこにいる。
「だが生憎、僕にも矜持というものがある。……見も知らぬ、名乗りすらしない相手に侮辱されて黙っていられるほど、僕は決して安くはないぞ!」
日ごと悪くなる患者たちに、確かにトレイズは無力だった。
だがこのひと月、患者たちの命を守ってきたのもまた彼らアンヘルレイズの人間だった。
請われたからと突然現れ、ただ徒に場をかき回し現状を混乱させるものたち、朝闇を名乗る者ら。なにもしていないそれらに、何をいま、咎められるいわれもないのだ。彼らは外野から、この無力と絶望と不変と増悪、あてのない暗中模索の感覚も知らずにただ喚いているに過ぎない。
感情のままにさらに睨みつけると、不意に男がニヤリと兇悪に笑んだ。
「なら、何だ。一本俺にゴコウセツでも垂れてみやがるか?」
「貴様のような輩に語ることなど」
「ヘイス・レイター。カーゼット所属の魔具師だ」
そしてあまりにあっさりと名乗る。男が口にした半分は想定通りだったが、もう半分が俄かにはトレイズには理解しかねた。
「……魔具師?」
「だァから疑うんじゃねェよ、ったくめんどくせェな。テメエらの目の敵はそういうモンだ。知っとけ」
「さすがにそれでは、あまりに言葉足らずだろう」
疑問符の山を崩すより前に、さくりと第三者の声が場に割り込んだ。声質は少年のそれに似て、けれど、ひびきには異様なほどの落ち着きがあった。
慌てて振り向いたトレイズとは対照的に、ヘイス・レイターと名乗った男はただ胡乱に面倒そうな声を出した。
「なァに野次馬増やしてやがる」
「心外だな。最も効率的な選択だと思ったうえでの行動だよ」
すっぽりと頭からつま先まで、枯葉色の長いローブで覆った人影が肩をすくめた。その人物のすぐ後ろに、見知った顔を見つけてトレイズは眼鏡の奥の目を瞠る。
「……君も目を覚ましたのか、カツキ」
「ええ。お互いだいぶマシな顔になったわね、トレイズ」
もっとも効率的な選択。彼女の姿でその言葉をトレイズは理解した。同時にこのフード男もまた、カーゼットの関係者であろうことも。
ヒトを癒すことと、魔具。
つながるはずがなかったものが、今まさに交錯を始めようとしていた。




