P15 観察と考察と苦悩3
知識も経験も何も足りない、何も知らない、何もできない。
写真に収まる症例と、現実の患者は当然違う。何もかもが違いすぎて、どうすればいいのかわからない。
そんなないない尽くしの中で、それでもわずかな「なにか」を求め。
必死にひたすら、見て、視て、診た。
「うぁ~~~…」
最近拾ってこの家に居ついた、真っ黒で奇妙な男が床に寝そべって唸っている。
カチンガシャンと音がするのは、小さいという言葉とはまず無縁な彼の身体が、ヘイがあちこちに置いていた部品やら何やらを縦横無尽に踏みつけ吹っ飛ばしていくからだ。ちょっとやそっとで壊れるような代物はさすがに床には置いていないが、当然ながら自分の発明品を足蹴にされて、気分の良い発明家などどこの世にもいるはずがない。
きっと眉をつりあげて、ぐだぐだと床になついている居候を鋭くヘイはにらみつけた。こうも周りがうるさくては、まともに手元に集中できない。
「オイコラ、リョウ! ダレんなら部屋のスミでダレてろ、んなとこで寝っ転がられてッと邪魔だ」
「いや、だって、…疲れた…」
「知るか真っ黒。邪ァ魔だ、邪魔!」
蹴飛ばす勢いで言葉を飛ばしても、相変わらずにリョウは床にだらしなく伸びたままだ。心底疲弊していますと、その背にはでかでかと書いてあった。
たった一日で何をしたのやらと、どうせ誰の予想もつかないことをやったのだろうと考えつつヘイはだらしない背に声をかける。
「…で? ちゃんと何か、掴んできたんだろうな」
「んー? あー…」
声をかければ返ってくる、リョウの声は非常に鬱陶しく曖昧だ。ごろごろとただ床に転がるその背は本当に蹴っ飛ばしてやろうかとも思ったが、どうせ蹴ったところで何の効果もなさそうなので止めておくことにする。
家へ帰ってくるなりぽいとこちらへリョウが放った、一枚の紙切れをヘイは拾い上げる。今日のリョウが家へ持って帰ってきたのは、この紙切れ一枚。神霊術の基本術式紋になぜか、二本の黒い線があとから、全体として円を描くそれを三分割するようにして書き加えられているものだ。
絶対に手書きであろうその線を指でなぞりつつ寝転がったままの黒い芋虫に目線できちんとした答えを促せば、本気で疲れ切っているらしい顔で作った、ひどく不格好な笑みがへんにゃりと返ってきた。
「そう、だな。…あいつがこの世界の治癒魔術を、外科と内科にしたかったらしいことはとりあえず、分かったよ」
「…は?」
「しかし、あれな。全然確定診断とかできない俺、…ホント、使えないわ」
すんげー情けないわ悔しいわ、過去の自分がいやだわでなんかなぁ、もうな。
不格好な笑みの中、くっきりと現在のリョウに存在しているのは自己嫌悪だ。彼を拾った当初、特によくヘイが目にした色である。
あいつって誰だ何のことだ、そもそもゲカトナイカってのはまたお前の自分勝手な自分だけの言葉か。まったく理解ができない。
決して憎からず思っている、居候の自己嫌悪を見るのも意味不明の嵐に苛まれるのもどちらも非常にヘイにとっては鬱陶しい。いらっと腹の奥がわずかに沸き立つ気配を感じつつ、ヘイは彼の名を呼んだ。
「リョウ」
「なあ、ヘイ。もしその術式紋のみほん使って魔具作るつもりなら、その術式紋三分割して、三つそれぞれ別に作ってくれないか」
「はァ?」
しかし彼が何を言うより、先にへろへろしたリョウの声が唐突かつとんでもない内容を紡いだ。
リョウが当たり前のように、少なくともヘイにとっては意味不明以外の何でもないようなことを口走るのは今に始まった話ではない。が、しかし今しがた確かにヘイの耳が音として言葉として受け取った内容は、なまじ内容それ自体が彼への魔具制作の依頼であるが故に、余計にまったくもって意味が不明だった。
術式紋を、三分割しろ? まさかこの黒のヘンな線は、その分割のための目安線ってか?
思わずもう一度術式紋そして手書きの黒線を目線と指でなぞったヘイに、さらにとばかりにリョウは続けてくる。
「上は全身の代謝の亢進、真ん中は血流およびリンパ流の容量・循環的正常化、下は免疫機能の促進」
「…おいこら、リョウ」
完全に言葉が通じない。異世界語とはまさにこのことだ、そうとしか思えないような台詞をリョウがすらすら口にしている。
既に何度目かも分からないヘイの咎めの声にも、過剰の疲労に意識が飛びかけているらしいリョウは応じない。
どころか。
「だーとは、思うんだけど。…ああもう、俺ホントどこであいつにそんなの見せたんだろ。というか見られたのか…? その可能性もあるな、大いに、あるよな」
「オイ」
それどころかさらに言葉の意味不明度がだだ増した。というかそもそも本当にあいつって誰だ。
手にしていた制作途中の魔具(ただし現時点で既に失敗の可能性が非常に高い)を、その頭へ投げつけてやろうかと結構本気でヘイが思ったとき。
その不穏の気配を察知したかどうなのか、ふと瞳にいつも通りの色を戻してリョウはこちらを向いた。真剣に。
「ヘイ、マジで頼む。上と、真ん中と、下だ」
「………」
このクソ分かりづらい黒いでかい居候の、今までの言葉を翻訳してやるなら。
本日リョウが家まで持ち帰ってきたこの神霊術の基本術式というのは、それぞれ別々の効果を持つ術式が上、中、下の三部分に分割・組み合わせられたもので。
ついでにおそらく誰も知らないはずのそんな事実を、どこからか持って帰って来たというより勝手に掘り出してきたと。そういうことでいいのか。まぁ悪くはねェだろうとヘイは思う。
基本的に感情の沸点が非常に低いヘイに、ここまで意味不明な言葉の翻訳を当然のようにさせる人間などまずこの居候だけだろう。ヘタなバカの言葉などにはそもそも、耳を貸してやる義理も時間もない。
リョウの言葉をヘイが聞くのは、知識も意識も人格も性格も何もかもがちぐはぐなこの男が結局、信じられないほどにヘイにとっては面白いからだ。
ああもう死にてェ、めんどくせぇ。毎日のように呪詛のようにヘイが呟き笑っていた言葉を、あんまりにもあっさりとどこぞへ放り捨てたこの黒の青年は。
自分勝手に横暴に、ヘイの奥底にまだ残っていた色々なものを猛烈に掻き立て焚きつけ、こっちが驚くしかなくなるまでの炎に仕立て上げて一緒に歩こうぜ、先に進もうぜと誘ってくるからだ。
「……ったァく。人にお願いするってのにその態度かよ、リョウ」
だから口ではいくら文句を連ねようと、結局のところヘイは彼を許してしまう。
どこまでも少なくともこの世界の常識と照らし合わせて考えればおかしいこの青年は、下らないケンカで切り捨てるにはあまりに、ヘイにとって面白い要素を当然のように内包していすぎる。
ニヒルに笑って見せるヘイに、へろっと本当に情けなくガキのようにリョウが笑み返してきた。
「悪い、ヘイ」
「謝れっつってンじゃねェよ」
「ん、…でも、本気で今日はすまん、マジ、疲、れ…」
こてん、と。
言葉も最後まで言わないままに、辛うじて意思の力で持ちあげていたのだろう首が床へと落下した。ごつっと頭蓋骨と床が立てる鈍い音とともに、彼の声は眠りに引きずり込まれた寝息へと取って代わる。
二十歳もとうに過ぎた男のはずが、どうにもガキのようなその姿にはっと思わずヘイは笑ってしまった。
勝手に床を散らかし床で寝たのはリョウのほうだ。そのまま放っておこうかとも思ったが、しかしそれが原因でこいつに風邪なんぞ引かれても気分が悪い。
部屋の隅に放り捨てていた毛布を、風の魔術を軽く発動して動かす。
床に転がったまま微動だにしない黒芋虫の丁度、腹の上あたりでばそっとそして、それをヘイは落としてやった。にへりと口の端が笑った気がしたのが、微妙に気に食わない。
気に食わない、が、…それ以上に就寝直前に投げつけられた依頼に、その突飛さについついヘイは笑った。
「はっはは。術式紋を切り刻め、だとよォ」
しかしそれなら納得はできる。刻んだ術式それ自体にはどこにも不備はないはずなのに、なぜ神霊術は今までかけらも発動したことがなかったのか。
魔具に込められる術式は、基本的にはひとつの魔具につきひとつだけである。二つ以上の術式を同時に操り組み合わせて使用するという高等技法は、思考能力を持たぬ「モノ」にはあまりに負荷が大きく、魔力の消費も恐ろしいことになるためだ。
だが今回もまた今回だ、たった一日でドンだけの人間のド肝を完全にぶっ潰して来たんだか、この黒いのは。
くつくつと、どうにも笑いを止めることができずに喉奥でヘイは笑い続けた。
「ンッとに、おまえがいると日々全然飽きなくていいわなァ、リョウ」
それこそ拾った当初から、彼が普通でないことなど分かり切っていた。
黒い髪と、揃いの瞳。結構に高い部類に入るはずの、ヘイとそうたいして変わらない高身長。
それだけならば別にいい。この国ではごくごくめずらしい部類になるが、黒髪黒目の人種が主な国も存在することを、知識としてヘイは知っていた。
青年をおかしいと断定させるのは、それらに引き続く彼の外見であり、中身そのものであった。
成人男性は髪を伸ばす風習が確かあったはずのその国出身にしては、余りに短い、なおかつ決してざんばらにではなく綺麗に切りそろえられた髪。基本的に身体の線が出されるつくりをした、あの国の衣装ともこの国のものとも、まったくなにもかもが異なる服装。
しかも彼は当然のように、一言目から、あの国ではまず習うことはないはずのここ近辺の共用語を口にした。
こいつは絶対にただ者ではないと、その瞬間に、ヘイは感じた。
「俺のカンてェのはさすがだなァ、なぁ、オイ?」
完全に熟睡している、答えるはずもない居候にヘイは声をかける。
只者ではないと思った。色々がおかし過ぎると思った。…だからこそ、ヘイはこの黒の青年を己の家へと引っ張っていったのだ。
誰との交流も極力避け、どうでもいいくだらない物ばかりを作り申し訳程度に売ってぎりぎりに日々を暮らす生活をもう、決して少なくない年数彼は続けていたというのに、である。リョウと名乗った彼が来てから、ヘイの生活はがらりと、劇的に変化した。
もう完全に失ったものと、そう思いこんでいた発明への意欲を貪欲さを、この世界を何もしらない聡明な青年はかき立てた。
ヘイにとってはごく当然な些細なことにも衝撃を受けつつ、何とかそれを事実として受け入れようとする前向きな柔軟さは単純に面白かった。
無知であり、かつきちんと筋道立てた思考が可能であるからこその、思わぬ盲点をついて来る彼の質問につきあってやるのは楽しかった。あれはできるか、こっちはどうだ。尋ねられれば、求められれば燃えあがらずにはいられないのが、研究者発明者というものである。
まったく同一であるものの、再現を求められることのない世界で。
この黒の不持の青年は、効果の画一と使用者を問わぬ確実な再現性とをヘイに、求めた。
「ヘイルの二人に存在を知られちゃ、もう絶対に戻れねェだろうな。リョウよ」
このエクストリー王国でヘイル夫妻と言えば、基本的に世間というものに興味がないヘイですら知っている変わり者貴族だ。夫妻いずれも抜群の腕を持つ治癒魔術の専門家で、しかも二人は、基本的に折り合いは悪いどころか最悪なはずの祈道士と治癒術師なのだ。
誰も知らないことをよく知る、とりわけ人間に対する治癒という領域に関する知識がおかしいこの黒いのが。
そんな人間に捕まれば、果たして今後の展開は天国かそれとも、地獄か。
「まあ、あれだな。今更何考えても何にもならねぇ。拾っちまった以上、面白ェと思っちまった以上は仕方ねェ」
完全に暢気に寝こけている顔は、とてもではないがそんな様々な異常を身の内におさめた男であるようには見えない。
自分は特別じゃないと言いながら、それでも自分のためではなく他人のため、誰もが解決できずにいる病を目のあたりにして彼は最終的に、動いた。
「…テメエの夢の「異者」ってヤツに、つきあってやろうじゃねぇか、なあ、リョウ?」
なんでもリョウの話によれば、その異者というものは一切の魔術なしに他人の病気や怪我を治すのだそうである。
それこそどんな夢物語だと、当時のヘイは心底笑ったものだが、…しかし案外、この手の協力すらあれば本気でこいつはそんな存在にこの世界で或いは昇り詰めるのかも、しれない。




