P3-31 あすをねがう
ほとんど明かりが落とされた廊下をひとり、お盆片手に椋は歩いていた。
時刻は既に夜半を過ぎている。当然ほとんどの人たちは寝静まっており、廊下の両端にぽつぽつと点る小さい光以外に、あたりを照らす光もなかった。
変な時間に思いっきり寝てしまったせいか、妙な具合に目は冴えている。
無理だよ、寝てなんてられるかよ!
抗ってみても、残念極まりないことに体は正直だった。
「……あーあ」
お盆の上、ゆるやかに湯気をたてるカップに椋は目を落とす。
すぐ横の小さなグラスには、金平糖のようなかたちをしたお茶菓子が、かわいらしく小山を作っている。用意してくれた少女いわく、お茶も含めてここニティスベルクの特産らしい。
少し外の空気に当たりたかった。
中庭までなら「エクストリー」だから、わかりましたと言ってもらえた。
ひどい顔をしていると、むしろおまえが患者だとベッドに押し込まれた。
少しはましになったのだろうか。多少はすっきりしたはずの、さめたはずの思考を、視線とともに庭へ椋はめぐらせようとした。
「……リョウ?」
「うぇっ!?」
突如聞こえた呼び声に、喉でつぶれたような奇声が出た。
がちゃん! と手元で派手な音が響く。慌てて盆の上を見るが、少しカップの中身がこぼれ、星がいくつかおちた程度だった。続いて声のほうへ目をやると、まさに椋が今向かおうとしていた中庭の内側、設えられたベンチから立ち上がる少女の姿が見える。
薄暗い中でも、ひかるような金の瞳と瞬間で交錯した。今は結われていない白銀の髪が、ふわりと翼のようにひろがった。
どうしてこんなところに。軽く目を瞠って、椋は少女の名前を呼んだ。
「カリア?」
「ごめんなさい、姿が見えたから……どうしたの、リョウ、こんな時間にひとりで」
全く同じ内容を、現在の椋もぜひ言いたい。
彼女のほうへ、椋は足を進めた。決して大きくない中庭は、城の一画を、天井をきりとるようにぽっかりと空けてつくられている。カリアが座っていたベンチはちょうどその真ん中くらいのところにあって、すすめられるがまま座って仰げば、切り取られた先の黒い夜空が見えた。
空を眺める間にも、横から見上げてくる視線を感じる。
敢えては尋ねてこない無音に甘えて、椋はとどかない空高くに目を凝らした。
知っている星座など一つもない。アンブルトリアのこどもたちと、一緒に見て教えてもらった星座を探すのも一苦労だ。
この世界で、星は流れるのだろうか。
ここでも星は、生きていて、最後には燃え尽きて光を放っていくものなんだろうか。
そんな疑問も抱きながら、椋はさらに目を凝らす。
流れ星、流れきる前に三回お願い事がとなえられたら、そのねがいは叶う。おさないおとぎ話を、探してみたかった。
自分の弱気に苦笑しながら、それでもまた視線を次の場所へとずらす。
同じことを繰り返した何度目かで、ふ、と、ひどく冷たい風が吹いた。
カリアが細い肩を震わせ、ショールを引き寄せたのを視界の端に見た。
「カリア、どれくらいここにいたの?」
「……少し考え事がしたかったのよ」
「それなりなのは否定しないんだな」
「こんな時間に、こんなところでほかの人間に会うなんてふつうは思わないもの」
言いぶりに苦笑すると、椋も思っていた事柄をそのまま返される。
お互い、ひとりで夜風に当たろうとしていた、からだを冷やそうとしていた。カリアが何を考えたかったのかは、椋にはわからない。
ぽつりと、彼女が口を開いた。
「疲れ果てて、寝てるって聞いたわ」
「ついさっきまでそうだったよ」
「あなたも何か、考え事がしたかったの?」
「考え事っていうか、……あれだ。反省会」
笑っていようとしても、どうしても椋の言葉の端々には苦味が滲んだ。
それを感じ取ったのだろうカリアが、眉をひそめてまた椋を見上げてくる。ただ椋を慮るだけの視線に、大変理不尽に、ぎしりと胸の奥が軋んだ。
それでも考えなければならなかった。顧みなければならなかった。
できる限りの、「どうして」ではなく「どうしたら」を。あしたからの自分はどうすればいいのか、絶対に落ちてしまうものを、どうやって拾ってゆけばいいのか。
水瀬椋は、決して思考を止めてはならない。
まだ何でもないのに医療者でありたいと願ってしまった学生は、現実、事実を受け止めて、前に進むよりほかにない。
たとえそれが、自分の無力と不完全の証明でしかなくても。
ただ過去の、自分の怠惰への怨嗟だけになり下がりかねないような感覚でも。
「なにも、できてなかったから」
澄んだ金色のしずかなひとみに、ゆっくり引き出されるように椋は口を開いていた。
きれいな色に見栄を張りたくとも、うすっぺらな虚勢を示すように、容易に声が震える。あかるい調子で終わらせたくても、ちっともうまくいかない。
思わず椋は拳を握った。
小刻みな震えを見ないふりをして、少しでもラインを保とうとことばを続ける。
「考えられて、なかったから。……偉そうなこと、他人には言っといて、それ以前のことも、ぜんぜん、俺は全くできてなかった」
「うん」
「言われるまで、まったく気づかなかった。言ってもらえなかったら、絶対、今だって気づいてなかった」
病気だけしか見ていなかった。見ようとしていなかった。
椋は、どうしようもなく臨床を知らなかった。
何より背筋を冷やしたのは、あのときピアの言葉がなければ、今も椋は確実になにもしていないだろうことだった。
断言できてしまう現実がおそろしかった。知らないのに、やったこともないのにわかるわけがない。ふとした瞬間に浮かびそうになる逃げは、片っ端から握りつぶした。
誰も椋を咎めないのが、さらにつらかった。ひどいことをしたのに、あのまま気づかず放置すれば、本当に、患者の命にかかわるようなことだったのに。咎めるどころか、椋の目線に、不完全に少しでも寄り添って、フォローして、掬い上げてくれようとする。
今のカリアだって、そうだ。誰もかれも、やさしさが過ぎて、勝手にぎちりと心が軋る。
拳を開けば、手のひらには爪跡がくっきりと残っていた。椋は震える手を見下ろし、吐き出すように、ただ、続けた。
「俺、ほかにどれだけ、もう、今まで落としてきたんだろう。これまでも、これからも、だいじなこと、どれだけ見落としていくんだろう。……俺は、」
吐き出す息が、一際ひどく震えた。
瞳を開いていられずに、椋は、逃れるようにぎゅっと目を閉じた。
「……いつか、殺すんじゃないかって、」
それはとても「いまさら」の。
捨て去るのならば、立とうと思った、動きだすことを願ったあのときであったはずの。
それでも、ずっと心のどこかで、椋が考えていたことだった。
恐れていることだった。目を背けようと、必死になってきていたことだった。
向き合わないなんて、できないことだった。
椋は、半端で、どうしようもないものだ。この世界に彼がある限り、いくら、どれだけ足掻いたところで、彼自身の望む「完全」にはなれはしない。
あることが「正しいと知っている」。
椋の記憶にしかない「正解」は、失われていく一方だ。できるだけ書きだしておくよう心掛けてはいるが、バッグに詰めたメモの山だって、どれだけ、ちゃんと正しいのか椋には分からない。正しさを確認し、曖昧を明瞭に直し、間違っておぼえてしまったものを、覚え直すこともできない。
ひとの記憶の常として、おぼえたものは、きえていく。何が消えたのかも、きっとそれが必要になったときに初めて椋は気づくのだろう。知識のアップデートは、新しいものごとは、どれだけ強く願っても手に入らない。
だが、失ったものこそがほんとうに必要だったら?
正しいと思っていたものが、ほんとうは正反対であったら?
椋はひとりしかいない。
同じような存在は、少なくともカリアやアノイの知る限りの過去にも例がない。
知識を、情報を他人と合わせ、答えを見つけることはできない。椋の正しさの証明は、この世界にいる誰にもできない。
どこまでも今更の、現実だ。怖がるのなら今ではなく、立ち上がろうとしたあのときだった。
なぜならもう、とっくに椋は進みだしてしまった。今更立ち止まり、すべてから背を向ける選択肢などない。選びたいとも思えない。
進み、貫いてゆく以外、椋にできることはない。
そんなの分かり切っているのに、いまさら、表在化した恐怖に椋の心は竦んでいた。不真面目だった過去への恨み節を、無意味にまた、いくらでも重ねてしまいそうだった。
それですら逃避でしかないのに。
情けない――どうしようもない思考の堂々巡りを止めたのは、そっと包むように伸ばされた違う手のひらだった。
「……か、」
「貶めないで」
呼ぼうとした名前は途中で止まった。がく、と震えた椋の手に、支えるように華奢な手のひらが添えられる。
思わず顔を上げた先には、哀れみでも憐憫でもなく、ただ、まっすぐ正面から椋を見つめる瞳があった。
やさしい声が言う。
「そんなに、引き絞るみたいに、あなた自身を苦しめないで。どんなに後悔が尽きなくても、すぐに立ち上がるなんてできなくても、それでも、貶めないで。貶め、すぎないで。あなたを……みなせ、りょうを」
光の強さに、呼吸が一瞬止まった。
決しておちることのない、金の焔の星がそこにあった。
カリアはまっすぐに椋を見上げ、どこか舌足らずに彼の名前を敢えて「そう」呼ぶ。声と瞳の強さに反して、遠慮がちにかけられた細い指はつめたく、わずかに震えていた。
「確かにあなたは、きょう、間違った。間違ってたことに、見落としていたことに、あなたの周りの人間が気づかせた」
緩い夜風がふいと吹き、癖のない彼女の銀髪を揺らす。
さらさら、静かな音の中で、そっとカリアが微笑んだ。
「リョウ、だから、ひとりじゃないんでしょう? どんな力が、差異があっても、ひとりでできることには限りがある。私も、あなたも、完璧じゃない。完全になんて、絶対なれない。誰も殺さない、誰も傷つけない、ぜんぶの一番の正解なんて、きっと、どうやったって一生手に入れられない」
だから。
ひとつ区切るように息を吐いて、ほとんど身じろぎもできない椋にカリアはさらに続ける。
「だから意地っ張りでも、意固地でも良いのよ。虚勢だって、どれだけ張っても良い」
どこか、カリア自身のことのようにも聞こえる言葉だった。
この子もそうやって、今まで生きてきたのだろうか、と。何となく、そのとき椋は思った。
「そうやって重ねて、未来になるなら、最後に願いが叶うなら、きっと、それが一番だから」
なぜかそのとき、一面の焔の幻影を見た。
後ろ姿だけ一人ぽつんと映る、華奢な人影がふるえている――泣くように、叫ぶように、自らをさいなむように。到底ひとりの身には負えない、後悔に雁字搦めにされているかのように。
その背が今のカリアより、ずっと小さく見えることにぞっとした。今更のように、目の前の少女がこれまで抜けてきた艱難、辛苦を思った。ただ他人を慰め、奮い立たせるだけというには、カリアの言葉にはあまりに重かった。あまりに大きな、実感が込められていた。
痺れたようになる椋の、動かない手をもう少しだけ強くカリアが握ってくる。比べるまでもなく椋より小さいその手は、やはり少し震えて、冷たかった。
伝わってほしい、届くだろうか。ひびかせることは、できるだろうか。
ねがいと惑いを示すように、徐々に、彼女の面は俯き気味になっていった。抜けるほど白いその頬に、さらりと光のようにひとふさ、白銀が流れ落ちる。
椋は光景に目を細めた。
動かないと、思った手が伸びた。顔を隠すように落ちた彼女の髪をそっと横にはらう。はっと顔をあげたカリアと、また、真っ向から視線が交錯する。
きれいだと思った。
今が夜でよかったとも、思った。
「……どっちが年上か分かんないな、これじゃ」
きっと、相当に情けない顔をしているだろう。ちゃんと笑えているかもわからない。
思いながら、椋はぼやく。しっかり決めて格好つけられるところだけ見せられれば良いのに、どうしたってうまくはいかない。失敗して、怖がって、落ち込んで。そのうえこんな風に慰められてしまっては、もう年上の矜持も何もあったもんじゃない。
ぱちりと瞬きをしたカリアが首をかしげた。
「怖いと思わなくなることは、年を重ねるのとは違うと思うけど……そもそもひとの生死にかかわった回数であれば、きっと私のほうがずっと、あなたより上よ」
「いや、そういう意味じゃなくて、……いや、そういうこと、なの、か?」
「何よそれ」
わからなくなって首をひねると、くす、とカリアが椋に笑った。
またひとつ、やわらかい夜風が吹く。
すべてが嘘かと思うほど、穏やかで静かな風だった。冷たさは変わらないはずなのに、体の芯まで冷やされていくような感覚は、もう、椋からは消えていた。
「……なんだかなあ」
本当に何をしているのだろう。
みっともなく年下の女の子に甘ったれて、否定のひとつもなくただ許されている。
「カリア」
「なに、……っ!?」
だから、ごめん、あともう少しだけ。
ほそく華奢な彼女の肩に、椋はそっと己の額を預けた。夜気にさらされる肩先はショール越しにも冷たい。触れたときにびくりと肩が跳ねたが、拒絶されるような、振り落とされるような様子はない。
ひとつ、椋は息を吐いた。
ごめんな、妙な音を立てて軋る鼓動を気づかれないよう祈りながら目を閉じる。
「ごめん。……ちょっとだけ、こうさせて」
小さく息を呑む音を聞いた。
ややあって、うん、と、どこか幼くうなずく声も聞こえた。
ふいに流れた星も、むかい放たれた光も。
かけらも知ることのないまま、彼らはしばらく、ただそこにいた。
ドロップボックス( https://ncode.syosetu.com/n7432cc/ )に、この話のカリア視点(正確にはこの話の第一稿)を一緒に投稿させていただいております。
よろしければあわせてお楽しみください。




