P3-30 ゆめをねがう 4
非常に妙なことになった。
当惑しながら、リベルトは目の前でぐったりしている二人の先輩たちを見やった。
「腹が立つほど静かだな。当たり前といえばそうなんだろうが」
「そうね、本当。エクストリーだものね、ここ、今は。……ありがたいわ正直」
力なくソファに身を預ける男と女。ふたりは名を、トーレンハイズ・ヴァルターとカツキ・リリアーナという。
年はリベルトより三つ上の十八歳だ。彼らは魔術学院時代から、学年の違うリベルトも余裕で聞き及ぶほどの「治癒狂い」として名をはせていた。
卒業後はさらに治癒魔術を学ぶため、このレニティアスへわたった、らしい――そこでリベルトの情報は切れていた。切れる、程度の、関係性の相手だった。
同じ治癒職を目指すものとして、全学年合同の実習で何度か一緒に組んだことがある。座学の教示を、実践の手ほどきを受けたことがある。
実際に接したのなんて本当にその程度だった。あとは彼が一方的に、こもごも噂を小耳に挟んでいただけだ。すごい先輩たちがいるのだなあと、勝手に感心していたくらいでしかなかった。
過去の自分に言っても絶対に信じないだろう現実に、少し、リベルトは笑いたいような気分になる。
まさかそんな「凄い先輩」たちが、リベルト・エピを避難場所に指定してくる、なんて。そんな未来。今である。
つい吐いてしまったため息は、目の前の二人のものと重なった。
「なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「いえ、俺はまず、先輩たちが俺のこと覚えて下さってたってところから驚いてて」
「何言ってるの、忘れないわよ。治癒職を目指す「武のルルド家」の人間、しかも主ともども、一時の気の迷いなんかじゃなく、主にただ付き合ってるってだけでもない本気。並べた単語だけで、異色の揃い具合で頭がちかちかするわ」
「……はぁ」
「さらにはそれに加えて今は、誰に何を訊ねても真実を割れない「朝闇」の構成員だろう。簡素に過ぎて、逆にこの場では分かりやすいな。その服装は」
「もっと簡略化しようとしてましたけどね、うちの局長は。精いっぱい頑張らせてもらってこれです」
「おかしな話ね。そんなヴァルマス【劔】、あるものなの?」
「ええ。そんな人が、今の、俺の上司です」
服の裾を引っ張りながら、リベルトは目の前の二人に笑う。飾り気のほとんどない白の制服。布地や刺繍など、基本的なところには最高級のものをひっそり選ばせてもらったが、それでも華やか、豪奢という言葉からは程遠いものであることに変わりはない。ついでに外にも中にもポケットが多い。
確かに動きやすくて便利、白は汚れてしまうと目立つが、清潔感がある。
こだわる部分まで面白くて、最後のほうの攻防ではもはや笑いが絶えなかった。今更思い返しておかしくなるリベルトに、ふーっとトレイズが息を吐く。
ゆるやかに湯気を立てる紅茶に口をつけながら、淡々と切り出した。
「おおよそのところは、おそらくエクストリーで言われているだろうからあえてここは口を噤んでおいてやるが」
「え?」
「今の、こちら側からのあなたたちの印象は決していいものじゃないわ。というか正直、ものすごく悪いわね。どこの誰とも知れない、私たちとそう年も変わらなそうな男が、あからさまに別格の待遇を受けてる。これまでずっと治療を続けてきた私たちアンヘルレイズの人間にとっては、まあ、何というか、私たちの無力の証明、これまでの努力全部を踏み躙られてるっていう以外の何かしらってお話よね」
ざらりと並べられる言葉に、思わずリベルトは身を硬くした。
体感温度が一気に下がる。まっすぐに「事実」を告げてくるカツキの瞳は、彼の出方をうかがうようになんとも平板だった。
無力の証明。努力を踏み躙られる。
似たような感覚は、リベルトとて知っている。
「……あの人は、そんなことは絶対、」
「言わない? そう。でもね、そういう話じゃないの。分かるでしょ? ただの、個人の感情とか矜持とか、そういう、実際の治療にはどう役に立つんだって笑えちゃうようなものの話よ」
それでも何とか返そうとするリベルトに、首を横に振ってカツキが苦笑した。
絶対に、リョウには近づけたくないどろりとしたものが透けて見えた。リベルトにも、既に直接的にも間接的にも、何度もぶつけられてきているものだった。
本当に、治療に何の意味もなさないものだ。だが、それらを踏みつけにした結果ももう、リベルトは幸か不幸か、知っている。
現実にしてしまったものとして、リベルトたちは経験してしまっている。
ひとはただ、大義名分と「正義」だけでは動けない。
だからそれは、近づけてはならないが、目をそらし逃げて「ない」としても無意味なものなのだ。彼のそば近くにあることを許された人間は、余計にきちんと見据えなければならないものだ。
もうあんな思いはごめんだった。目の前で誰かが死ぬかもしれない、一気に状態が悪くなる、悪く、させられていく、何の手出しもできないまま、絶叫だけが異常に場にこだまする。
リベルトの表情をどう思ったのか、カツキが表情を少しだけやわらかいものに変えた。
「私もトレイズも、少なくとも他のアンヘルレイズの奴よりは公平に状況を見てるつもりよ。別にね、何を言うつもりもないの。分かってるのよ。私たちは、ただ患者を死なせないように、今日というこの日をしのぐことしか、してない。できていない。発症までの経過が違う患者なんて、きっと、私たちじゃ患者が亡くなった後にだって発見できなかった」
「だが生憎、全員がそうはいかない。というより、少なくとも僕ら若手の半分以上がそうか。状況を変えているおまえたちの「黒」を、変転の死を運ぶ死神と口にして憚らない」
「……しにがみ」
「実際、状況は昨日からうそのように変わり出した。まるで、明け得ぬ永遠の夜が、朝闇へ変わり次へと時を刻ませだしたかのように。「何もしていない」はずが、停滞を破ったように」
まだ、たかが二日、されど二日。
それだけの時間の中で、一瞬たりとも停滞はない。
ほぼ一ヵ月なにも状況が動かなかったという前触れが、嘘にしか思えない。
けれど彼ら、アンヘルレイズの術師たちは、その停滞をこそずっと見て来たのだ。当事者として、目の当たりにしてきたのだ。
何も効かない。何でも治せない。患者のいのちはゆるやかに、死への下降線をたどっていく。
それは終わりが見えない戦い、のはずだった。少なくとも、聞いていた話からは、そういうものなのだとリベルトは考えていた。
現実は、もっと誰の予想も飛び越えて異質に回転を始めた。「ちがう」ものが見出された。「おちていた」患者がひとり消えた。
まるで「黒」の到来を、境にするように、停滞に罅が入った。
「死神、ですか」
思わずリベルトは苦笑する。リベルトの知るリョウ・ミナセは、むしろ死神との死闘を選んで立ち上がり歩き出したひとだった。
そもそも戦う意志がないなら、リベルトがここにいる意味もない。治したい、死なせない。言ってしまえばこどものような意思は、何より強く真っ直ぐな、不明瞭の明日への原動力である。
誰に、なにに、どこにどういえば少しでも伝わるのだろう。
敵対したいわけではないのだ。仕事を奪いたいわけでもないのだ。ここまで患者を保たせてきたアンヘルレイズの人々を、その努力を、意思を、積み重ねてきたすべてのものを、無碍にするつもりはかけらもない。
志は同じはずだ。根底の願いは、祈りは重ねられるはずだ。
せめて、少しでもあの黒の真摯が直接伝えられればいいのに。リベルトは歯がゆかった。時間も余裕も歩み寄りも、何もかもが絶対的に不足しすぎていた。
トレイズが重く息を吐く。
「違う経過の、平民の患者が発見され、まだ見逃されている症例があるかもしれないという疑いが持ちあがった。翌日、動けないはずの重症患者が、何の痕跡も残さず消えうせた」
「先輩?」
「消えた。……僕らの目の前から、消えたんだ。何のために僕らがいた。何度何を訊ねられても、同じことしか答えられるはずがない」
がり、と、乱暴に彼は己の頭をかく。それこそが、彼らがいまリベルトの目の前にいる理由だった。
ふたりはセテア・トラフが消えたそのとき、アンヘルレイズで当直をしていたのだ。
「そうだ、何もなかった。一時間前の回診では、本当に何の変わりもなく彼女はベッドにいたんだ。そしてそこから一時間の間、絶対に「ライタ」には人の出入りも、僕らが扱う以外の魔術の行使もひとつもなかったんだ」
ふたりの目の下には、色濃い隈がある。対照的に炯々と瞳は光を放ち、様々な意味で、昨日からここまでまともに休息などとれていないのだろうと知れる。
当然か、ふたりの前で患者が消えた。
当然としてはならないことが、現実として起こってしまった。
きっともう彼らにとってみれば何度も話させられた内容であっても、リベルトにとっては非常に重要な、当事者からの当時の情報である。耳と瞳を澄ます彼に、もはや、半ば譫言のようにトレイズが続けた。
「どうして、僕らはなにもできない。そして、どうして今日だけで、その無力を、何もまともな情報が提供できないことを、何度も何度も何度も、別の人間に同じように説明を続けなきゃならない」
なにもなかった。
なにも、なくなった。
当時そこにいた彼らだけでなく、過去を追う力を持つはずの魔術師たちですら、その場には、その時間には「無」しか確認することができないという。すっぽりと、完全にすべてから抜け落ちている。ただ、消えてしまった――それもなぜか「第一」ではなく「第三」が。
患者であるという以外に、彼女が消える理由はなにもなかった。
仮にそれがこのヴォーネッタ・ベルパス病という病の「最終段階」だとしても、やはり彼女である理由は何も誰も見つけられない。最初期の症例であればあるほど、病状は悪化している。彼女よりさらに悪い状況にある患者が、まだあの場にはほかにいる。
なのに消えたのは彼女だった。
直近一週間には、誰も見舞いに来ていなかったのだというひとだった。
「……」
リベルトには、想像しかできない。かける言葉が見つからない。
その事実をもう、この人たちはどれだけの人に、何度繰り返してここに来たのだろう。彼らはきっと、アンヘルレイズでも優秀であることだろう。同期たちを率先してまとめ、引っ張っていく立場にいるのだろう。
過去から想像に易いことだ。だからこそ今ふたりは、エクストリーではなく、レニティアスのアンヘルレイズにいるのだから。
一方でリベルトは、カーゼットを選んだ。
朝を呼ぶために存在するやさしい闇、未来を告げるためにある深い黎明。そう名付けられた彼を追っている。その一助になれることを、今は「まず」願っている。
だから。リベルトは沈む二人に思った。ここで一緒に没するだけではだめなのだ。何ができる。何を動かせる。たとえば、何がなにとつなげられる、リベルト・エピ。
はなしてくれるだろうか、と、ふとリベルトは思った。
思ったときに、ゆるりとカツキが顔を上げて静かに彼を呼んだ。
「ねえ、エピ君」
「なんですか?」
「怖くないの?」
「なにがですか」
「信じること」
何が、とは、具体的には言葉にされなかった。
指すものなどひとつしかない、とでも言いたげな空白だけがあった。
目の前で二人分揺れるどこか不安定な光は、時折リョウが滲ませながら、なんとか誰からも隠そうとしているものに似ていた。まったく隠せていないことを、むしろ伝えてくれればいいのにと、……そう、こちらが思っているという事実から、まず、ちゃんと伝えるべきなのかもしれない。
今はまだ時間も余裕も力も、何も足りない。けれど、だからこそ。
静かにリベルトは笑って見せた。
「怖くないと言えば嘘だし、不安がないって言うのもホントじゃないです」
「え?」
「でも、なんというか、まず誰よりビビって怖がってるのが、あの人で。だから今の俺にできるのって、信じるくらいしかないんですよ。信じて、そのうえで、自分で見て、聞いて、考えること。信じても、妄信はしないで、自分で考え続けること」
それはリベルトの願いであり、再三、リョウから頼まれ続けていることでもある。
漠然とした不安を表出する前に、まあいいかと思ってしまう理由でもある。
リョウは、この世界からみれば間違いだらけの人だ。彼が言う「正しさ」には、悲しいほどに「根拠」がない。
持っているという情報は、この世界にいる限りは決して更新されない。むしろ何とかとどめようとしても、するすると抜け落ちていくという。
まちがえるかもしれない、正しくないかもしれない。
彼と出会う前にはかけらも抱いていなかった疑念が、今のリベルトのうちにはたくさんある。
実際にいくつも、もう景色を見ている。
リベルトは笑顔のまま続けた。
「それに俺は、いまヴォーネッタ・ベルパス病の患者さんを救えません。少なくとも、いまの俺がただここにいるだけじゃ、先輩たちよりもっと、ずっと無力です。本当になにも、全く何にもできない。ただ状況を見ているだけの、傍観者みたいな存在にしかなりえない」
「……エピ、」
「それが嫌だから、俺は今、カーゼットの一員としてここにいます。あのまま、誰とも同じ軌道のままにいる俺は、きっと、いつかまた別の誰かを救えない。救えない、どころか、もしかしたら助けようとして、逆に殺してしまうかもしれない」
「……」
「そんなの、俺自身が絶対に許せないんです。許したくないって、そう、思いました」
勢いだけの、意思だけの。
これは、それだけの言葉でしかない。リベルト自身も承知している。
だが、驚いたように、何かひどく眩しいものでも見るように目前のふたりは目を開いて、ついで細める。
「だから」動いたのだろうか、と不意に思った。
それが今は、まだ決して「良い」とは言えない方向にばかりの転換であるとしても。彼はあきらめないから。諦めないために、何ができるか、自分たちは考え続け動き続けていかなければならないのだから。
しばらく沈黙が場には落ち、ややあって、疲れたようにトレイズが嘆息した。
顔を上げる。
「……エピ」
「はい」
「僕たちが、おまえをそうまで思わせるものに相見えることはできるか?」
「先輩たちが望んでくれさえすれば、おそらくは」
疲弊し切った瞳の中にそのとき、リベルトは一抹の焔のかけらを見た。
リョウが断るという選択肢は、最初からリベルトの中になかった。
このふたりは約一ヵ月、治癒職として患者と接し続けてきているのだ。しかも今朝の患者失踪の、現場に居合わせていた人物だ。
少しだけリベルトの胸が弾んだ。何が起こせるだろう、何を変えられるだろう――くらく落ちていく一方にも思える状況の中で、それでも、誰にも足掻かない選択肢は存在しない。
が。
「でもまず先輩たち、休んでください。今、ベッドと食事用意しますから」
「え、ちょっと待って。どうしてそうなるの。この状況で休むなんて、」
「そもそもうちの局長も、さっき他の局員に強制休養を言い渡されたらしくて。だから、とりあえず、あの人と先輩たちが話ができるようにするための時間を、俺にください」
「……なんだそれは」
トレイズとカツキは顔を見合わせ、ほとんど同時に噴き出した。その表情は、他にどこにもない逃げ場所をここに求めて来た時よりずっと柔らかい。
しかしこれで、リベルトには重大な仕事が一つ増えてしまった。リョウを起こすわけにはいかない、そしてヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】リョウ・ミナセに彼ら二人を会わせるなら、少なくともかのお三方の許可をもぎ取らなければならない。
とはいえ、どうやったら「ただの」いち局員でしかないリベルトがお三方にお目通りできるだろう。
むむむと顎に手を当て考え込み出す彼に、もうひとつトレイズが笑い、頷いた。
「わかった。厚意に甘えさせてもらう」
まだどこにも道はないとき。
それでも、あきらめたくないのだと足掻き続ける光たちが集まり出そうとしていた。




