P3-26 三点の音景 響
ロウハ・カイゼイ。
トルネリス・ヴェイ=ターグ、レニティアス王家の情報番を代々担うヴェイ=ターグの家に生まれた少女にとって、決して浅からぬ因縁のある少年であった。
互いの情報を切り売りし、数多の騙し合いを繰り広げる。家と家で見ればそう歴史は綴られるであろうし、トルネリス個人で言えば、年が近いの良いことに、ことあるごとに互いの家の「試験」の相手になる少年だった。
いつも相対するごとに、腹立たしくなる相手だった。彼は常に、ほんとうに出したとしても九割の力かどうかというところで適度な勝ち負けをつけた。
単純な勝敗で言って良いなら、トルネリスの方が勝っている。
しかし勝とうが敗けようが、彼は大して嬉しくも悔しくもなさそうに薄っぺらく笑うのだ。やっぱり凄いよなぁと、かけらも響かない賞賛とともに。
鬱陶しかった。そして同時に、思わずにいられなかった。
こいつが総力を挙げて役目に取り組み、その存在すら当然のように擲ち捧げる――そんな相手、この世界に現れることがあるのだろうか、と。
「……本当に声、縛ったのか」
感覚は既に過去形になっていた。
つい動揺が声に乗り、内心でトルネリスは舌打ちする。大して背丈は変わらないのに彼女より骨ばってがっちりした手首の主は、彼女たちにとっての生命線である喉に強固の呪を刻みこんでいた。
カイゼイの末息子がとうとう「動いた」らしい。
その一報が、おそらく誰より信じられなかったのはトルネリスだったろう。
「そそ。なんせ今の俺はヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】リョウ・ミナセ殿付きだからなもちろんトっつぁんも絶対知ってくれてる通り!」
「関わらなくていいんなら、あたしだって別に知りたくなかったよそんなの」
「なんだなんだ余裕ねぇなトっつぁん?」
「どこからどう余裕持って来いって? あたしの主は、もうずっと恐れてる」
胡散臭くて底が見えない笑みも軽すぎて総滑りする声色も言葉の調子も、馬鹿馬鹿しくなるほどトルネリスの知る通り。違うのは本当に、その喉の証くらいのものでしかない。
同じ類のものを、トルネリスがおのれに刻んだのはまだ齢六つの頃。
零か一しか見えないのだと、どこか諦めたようにつぶやいた、薄幸の美しき姫君に彼女は己をかけることを決めた。トルネリスの主は、今朝の出来事ですらただ悲しげに、大きな驚きはないままに聞いていた。
そんな中で、あれは何なのだろうとふいにトルネリスは問われた。そこだけ穴が開いたように、何も見えなくなるのだと彼女は言った。
まともな答えは、その相手のため喉を刻んだこの男、ロウハ・カイゼイしか持ちようもないのだった。
ぎっと、強く改めてトルネリスは濃緋の目でロウハを見据えた。彼はここから去ろうとしていた。ここでの仕事は「終えた」のだと、見ていてわかったから無理やり止めた。
言葉を大気へ乗せる。
「だからロウハ、手っ取り早く情報交換と行こうや。あんなもんだけであんたのコトが足りるわけなんてないだろ」
「相っ変わらずホント主大好きねぇトッつぁん。やーすげーすげー」
「もう何でもいいから、あたしが欲しいこと吟味してそれだけ端的に答えて」
「んんーんトッつぁん、いついつだって余裕のない奴は老若男女関係なく残念ながら嫌われると思うのよ俺としては?」
「むしろこの状況で余裕ぶってるあんたがなんなの」
「あっははは、驚きやら何やらは、そりゃもう毎日いくら吐き出したって吐き出しきれないくらいに主からもらってますからねえ今の俺は」
「……よくそいつも、よりによってあんたなんかを自分の情報屋にする気になったな」
「んーな寂しいこと言われちゃうと、俺の口閉じちゃいますよートッつぁん?」
「やめろ。本当に時間がないんだあたしは」
悲劇の火蓋はとうに落とされ、さらなる悲哀と絶望に向かって進み始めている。この男が主としたもの、「朝を齎す」意を込めて名付けられたらしい黒の関連の有無も判然としないまま。
相変わらずの変な呼び名には、全力で無視を決め込んだ。ただ要求する。ふぅむとばかりロウハは小首をかしげてトルネリスを見やり、胡散臭い糸目でまた笑った。
気味悪いほどに楽しげに。
「んじゃまあトッつぁんに期待して言わせてもらうと、紛うことなき異者だよこの俺の喉を俺の意思で縛らせなすったお人は。だからキュアドヒエルもガイルーティアもあの人にゃ同列、ってのももしかすると物足りないかもな。いやいやホント今回もなにすんだかまったく俺も想像つかねえわっつーか想像するだけ無駄かね」
言葉が大気にすべる。
ひと呼吸かけて、それをトルネリスは噛み砕いた。既に昨日、かの金と銀の焔の使い手も用いた「異者」という言葉。今回「も」。――大陸屈指の治癒職をもってして、同列には或いは不足であると、さらりとロウハは嘯いた。
どこからが誇張だ、そんな下らない問いは口にしない。その不可解こそが最大の武器である主から、進んで紗を引き剥がす愚者などが情報番であって堪るか。
この男が主とする男は、一見するだけでは、どこにでもありそうな青年である。
多少珍しい色を身に宿しているだけの、大した膂力も謀略の頭脳もなさそうな、反吐の出るほど甘い場所に居たのだろうと思わせる、無防備の男である。
無言で続きを促せば、少しだけロウハの表情が苦笑めいた。
「あのねトッつぁん俺ね、別に家に何言われてあの人についたわけじゃねぇし俺を縛ったのもただの俺個人の興味と意志だぜ一応ちゃんと断っとくけどね。いろいろ変すぎるからなぁあの人トッつぁんももう知ってるだろ? 思考回路が根底から違うってのがやっぱ一番正確だと思うけどさーさすが違うとこから来たお人って感じ?」
「ロウハ」
「あととりあえず言っとくと、あの人今日いなくなった患者の顔どころか名前すら知らなかったからな。そんな状態で、さて、どうやって人一人を跡形もなく誰の目も欺いて消し去れる?」
笑みの種類がにやりと変わる。疑うんじゃないと、何を問うより前に先手が打たれる。
昨日一日の変化を見ただろう、彼しか起こしえない変化を目の当たりにしただろう。今まで波風の一つも立たせるのに大層時間がかかって、しかもその代償に不当に残り時間が浪費された、それと比較した、昨日一日の躍動はどうだ?
言外に込められた多くの言葉に、やたらな「主」への信頼の重さにトルネリスはげんなりと嘆息した。なにひとつとして事態が好転していないことについてはこの男、思いきり全力で棚上げしている。
ゆるく頭を振った。
「……そこに関しては、あたしも別に大して疑っちゃいない。そもそもあんなまっくろにまっしろ、目立って仕方ないじゃないか」
「だから兄貴が直接動いたんじゃなきゃまた話は別? いやないないない、あのヒト人殺しとか絶対今までの人生で一回もかけらも考えたことなさそうだし、そもそも分業って作業がまったくできないうえにまともに暗殺なんてできる奴カーゼットにいないからね。まあもともと人救うためだけに作られてる組織なんだからそれであたりまえってか当たり前の世界がすばらしくまともに決まってんだけどさ。あと兄貴、あの第一報がぶっ飛んでくるまであの部屋んなかから一歩も外には出てねぇぜ。夜な夜なかわるがわる警護してた俺とジュったんとクレイトーン様が証人だ」
「主観が入りすぎだ」
「で? そんなお人を容疑者だなんだ騒ぎ立てたいのは誰なのさ?」
今度はトルネリスの番、とでも言いたげにまたロウハが笑う。
一言一言が相変わらず情報過多だ。ほんとうに、よくこんなやかましいものをわざわざあの黒い青年も選んだものだ、トルネリスは思う。まあ「それくらい」変わっていなければ、何にも本気にならなかったこの男が主として定めようとはしないのかもしれない。
変転の先は何だ。
問うための代価を、ひとつ嘆息してトルネリスは差し出した。
「……一番に風が淀んでいるのは、キールクリア姫様とリールライラ姫様、そしてその周囲だ」
「あれあれちょっとトッつぁん予想外にあっさり」
「先行投資だ。高くつけるぞ。……あたしがわかる範囲では、明らかな暗躍者なんてもんは居ない。病の発覚前と後で、明確に動きが変わった奴もいない。一番あんたの黒に厳しい目を向けてるのは副院長のドレグリーア殿だろうが、あからさまに騒ぎ立ててるのは、今もあんたが目にしたような、ああいう若い連中が主だ」
「……ふぅん」
「あと、今朝の件に関してはエルテルミネ【迷崩し】のヘールヴェイ様が匙を投げた」
「えっ」
するすると、明かすことのできる分の情報の紐をほどく。並べ立ててみたところで最低なことに変わりない情報を告げる声は、わが物ながらひどく平板になった。
わずかばかり、ロウハが目を開いた。
そう、「無」を見ざるを得なかったのは、当事者の彼らだけではない。消えたのは三人目の患者、消えた、消された手順は、このレニティアスにおいて随一の手腕を誇る魔術師の手をもってしても完全に「空白」とされた。
情報を呑み込んだロウハが一瞬だけ、吐き気を堪えるような顔をする。
だが次には笑う。腹立たしいことに。
「期待値デカすぎだよなぁうちの局長サマ」
「応えられるのか? こんな理不尽と無の巣窟みたいなものに」
「そうしなきゃ患者が死ぬってんならまぁそりゃね。諦めたら死にそうなお人だし? 自分が」
「……何なんだ」
「それは正直俺も知りたいんだよなぁ我らがヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】リョウ・ミナセ殿」
「だから縛ったのか」
「かもね」
この会合もそろそろ潮時か。
くだらない些末の応酬になってきたところで、不意にまた向こうから問われた。
「トッつぁんの主様元気?」
「ひとつくらい明るい話を寄越せ。最近は本当に、まったく笑ってくださらなくなってしまった」
「うはははは、俺とかそれこそちらっとでも目に入るより前にトッつぁんに殺されそう」
「そうだな。心配せずともひと思いにやってやる。跡形もなくな」
「やめてやめて俺まだぜんぜん自分の仕事果たせてないから絶対やめてトッつぁん後生だから」
やや本気で後ずさるロウハの様子に、少しだけ子供っぽい留飲を下げる。単純な戦闘能力は昔からトルネリスの方が上なのだ。今も、ただ殺すだけならそう難しくはないだろうと思う。
この男は、それこそトルネリスが決して主の目前に出してはならない相手の筆頭だった。人間としての汚れ方がとんでもなく捻じれている。ただでさえ常に苦しげに伏しがちのひとみが、さらなる汚濁に嫌厭で曇るだろうことは想像に易い。
敢えてロウハが、今尋ねてきた理由だって分かっている。トルネリスの主は、唯一無二のセルドラピオン、あらゆる魔を破り世を透す、かのリクスフレイ・レニティアスであるのだ。
今朝の患者の失踪も、おそらく誰より明瞭に「感じ取って」いた人物。
けれどそれを伝える術を、絶望的なまでに彼女の主は持ち併せていないのだ。
「そうだなー。なんとかかんとか、ラピリシア閣下とちょっとでも話されたら一番楽しいんじゃないかねそちらの主様なら今だと」
考えていたところに、以前であれば最も「明るい」からも「事態からの一時的な離脱」にも遠そうだった人物の名が出された。
これもまた過去形になる。ああ、そうだ、彼女は苦笑した。確かにトルネリスもまた驚いたのだ、その衝撃は最近で唯一、あたたかい感覚を彼女にもたらした。
暗澹たるものが多すぎて、そんな報告すらできなかったのだ。
トルネリスの表情に悪くないものを感じ取ったらしく、ロウハはにっと笑って続けてきた。
「俺としちゃもうあと一押しってトコじゃねえかと思うんだよなあっていうかあの状況で無自覚ってのがまたすげぇのよな。外野は文句なしに面白いんだけどまぁぶっちゃけ一番分かんねぇのはうちの局長サマかもなぁ。どうすんだかどうもしないんだか」
トルネリスの主に、単純な表面の美醜などかけらの役にも立たない。
だが、かの目にも、あのうつくしい金と銀はひかりと「見」えるのではないかと思った。今回この国へ訪れてからの彼女は、ほんとうに、同性であるトルネリスですら、見惚れてしまいそうになる瞬間があるのだ。
あの変化は、何と表現すればいいのだろう。そう、例えるならその内側に、やわらかくしなやかな温度が宿って、輝くために動きだした、躍動を始めた、かのような。
騒動を大して知らぬ輩は、矢も楯もたまらず求婚に走るのだろう。その背が負うものも鑑みれば、むしろ今まで婚姻どころか婚約さえ、かけらも話を聞かぬのが不思議だったくらいの人物なのだ。
明日の夜など、刹那でも彼女の手を取る権利を得るべく、若者が列をなすのではなかろうか。
考えたらおかしくなってきてしまって、トルネリスは苦笑した。
「トッつぁん?」
「くそ、あたしの頭も相当ヤキが回ってる」
「えっちょなにそれちょっとトッつぁん!」
「あとそのふざけた呼び方本当にやめろ」
「そりゃ少なくとも今しばらくは無理じゃないかねトッつぁん」
くだらない明るい話を最後に、パチンとトルネリスは指を鳴らす。空間の遮蔽を解き、相変わらず人がばらばらとしているだけの談話室の、壁の花へと戻る。
時を廻すのも、ひかりを齎すのも他国の人間だという。
何とも情けない現実は、一切何も動かなかった過去よりはまだ良いと言っていいものなのかどうか。




