P3-25 三点の音景 影
談話室のざわめきは、若者特有のそれと呼ぶにはどこか異質だった。
位や年次の上下を問わず、アンヘルレイズの術師たちに広く開放された談話室。内輪にはひらかれ、同時に部外者は立ち入りが禁止されているはずのその片隅に、今、ロウハ・カイゼイは己が身を置いていた。
服装も何もかも異なる彼に、しかし向けられる視線はひとつもない。ロウハは今正しく「壁の花」。ちょっとばかり特殊な隠蔽・認識阻害の魔術を使い、他者には「そこにあって違和感のないものがある」だけに見せているのだ。
少し前のロウハには使えなかった、高位の準・禁術のひとつである。「カイゼイ」が「主」を定めるにあたり、破らねばならなかった壁のひとつだった。 あの修業は地味に死ぬかと思った。
すべてに耳を傾けることはやめないまま、しみじみロウハは己のいじらしい努力を思い返す。何度魔力枯渇で倒れたか、何度見つかって殺されかけたか知れない。
ちらりと、口の端だけで彼は笑った。ジュペスあたりは確実にそんなもの一蹴するだろう、むしろその程度も使えないであの人に取り入るつもりだったのか、なんて言われても、まったくロウハは驚かない。
不思議な人が、不可思議に実在するものである。
その不可解は残念ながら、ここのような「まともに知っている」人間が皆無の場においては疑心暗鬼の温床にしかならないわけだが。
「……どうしてだよ、ほんとうに!」
ほら、また誰かが怒りに任せて吐き捨てる。
ロウハは目線を向けた。若い義憤にあふれた顔の、青年はおそらくリョウより年下。だがいっぱしの治癒職として、アンヘルレイズの術師として、ヴォーネッタ・ベルパス病に接してきた時間は彼と比べるべくもない。
まわりもまた、まったく同じ色の焔を目に燃やして同調する。
「「ライタ」の患者の診察が許された? 私たちはライタどころか、シュテリーへの立ち入りさえまだ制限されているのに……!」
「何より今の患者に必要なのは安静、それはわかるよ。実際、僕らができることはどうせ昨日と同じ、ああ、そうだ。でも、だからって、これまでずっと治療を続けてきてる内部の人間をないがしろにしていい理由にはならないだろ」
「私たちだって、治したいのに。それにもしかしたら、今日の術式改変はうまくいったかもしれなかった!」
「俺らには試す時間すらもらえないで、あっちには潤沢に与えられる。いくら事態が変わってるといっても、こんなの、あんまりだろ……!」
空気が、澱んで倦んでいる。
彼らから発される言葉は、どう聞いても好意とは程遠いものばかりだった。これまで、病の発覚から約一ヵ月、費やされてきた彼らの懸命、熱意は「異端の黒」の出現で確実に捻じれ始めていた。
出現と同時に、その良し悪しはさておき、ロウハの主は完全に膠着していたはずの事態を動かした。
それゆえ長たちは有無など言わせず、彼を最奥まで引きずり込んだ。
かれらは上であるゆえに、リョウがどんなものか知っている。どこまでも「不完全」と己を卑下する彼の、正直そんなばかなとロウハにしてみれば思うような心配まで含めて、ある程度までは理解している。理解しようとする、意思がある。
しかし今、鬱憤を爆発させている彼らは知らないのだ。なにしろ知る権利がない。知れる機会もない。おそらく彼らが自主的につぶしている好機も、探せば山のようにある。
しかしまあ目だって眩むだろう。同時にロウハは同情する。
他の国の「劔」なんて、まぁぽっといきなり現れた上にとんでもなくうさんくさい肩書、背景がまったく見えないのに異様に高く寄せられる信頼。もともとアンヘルレイズの術師たちが「治癒職として選ばれたものだけが名を連ねることを許されている」という事実が、ゆえに誰もが抱く個々人の矜持が、確実にまた事態を複雑怪奇にしている。
統べるものと従うものの、絶対的な時間と対話不足の顕在化。
彼らのような、比較的「下」の術師たちにまで来る情報はどうしても少なかった。少ない上に、伝聞と偏見で、本人が聞いたら首をかしげそうな勢いで曲芸レベルの歪曲が繰り広げられていた。
きょうここで集められたものを指折り数えてみるだけで、妙な笑いしか出てこなくなってしまうロウハである。
たとえば彼らのあの信頼は、魅了の魔術を積み上げているが故だ、とか。
エクストリーにいたときから、彼らに取り入ることに余念がなかったのだ、とか。光の下でも黒い髪と目は、どこぞからの追放者であるしるし、烙印だとか。こうしている間にも、なにもできないこちら側をあざ笑って、さらに事態を引っ掻き回すべく動くことに余念がない、とか。
そもそもヴォーネッタ・ベルパス病は、ある程度以上の魔力を保持する貴族のみが罹患する病であって、
――彼が見つけてきたというあの症例は、アンヘルレイズに入るため、彼が呪って「創り出した」のだ、とか。
「なあ、おまえたちも何とか言えよ、トレイズ、カツキ!」
「……何を言ってみろってのよ」
ひとりで考えていると、ふいに場の意識が違う方向を向いた。
そこはまた、今しがたロウハが耳を傾けていたのとは違う意味でぐるぐる空気が堂々巡りしている一角だった。
ひとにかこまれた中心には、ぐったりと疲弊した様子の二人の男女がいる。
ひどく胡乱な瞳で、声を上げた女性はこちら側の声たちを見た。
「何度でも聞くけどさ、ほんとうに何も、思い当たるようなことって二人ともないの? めちゃくちゃどうでもいいような、いつもだったら気にしないような些細なことでもいいんだよ」
「ちょっとでも魔術への反応が鈍かったとか、逆に他と比べて過敏だったとか」
「魔力量はどうだったんだ? 前日までと比較して何か差はなかったのか」
「直近で見舞いが来たのはいつで、どんな関係性がある人物だった?」
「周囲の状況と、ほかの患者との差は?」
「探索の術式は? 魔力偏在の走査は? すべてきっちりやっていたんだろう、どうなんだ」
すべての発言が、必ず何か「違う」ことを、信じてかけらも疑っていない。
どの言葉も、二人を抉る結果になっていることに、誰も気づいていない。歪みよどんでいくその目を、「真実」を少しでも先んじて――リョウ・ミナセより早く迫り手に入れようとする若者たちは、はき違えた熱意で相手を傷めつけていることに気づかない。
ロウハは聞いて知っている。
トレイズ、そう呼ばれた神経の細かそうな細面に、四角い分厚い眼鏡の男。カツキ、琥珀色の巻き毛に桃色の目の、はっきりとした目鼻立ちの女。ふたりは「当事者」である。患者が消えたとき、当直の任をあてられていたという術師である。
ロウハの認識が正しいなら、彼らは、ついさっきまでは別の場所にいたはずだ。今の今まで一睡もできないまま、調査、取り調べ、聴取、検索、それら一通りの名がつけられるものの参加を強いられていたはずだ。
疲れ切った表情で談話室の扉を開いたふたりを、当然、仲間たちは様々な感情を持ち合わせて取り囲んだ。
囲み、ひとつでも何か聞きだせないかと、わからないかと、可能性に目を眩ませて、話に壮絶に嵐を起こして、ただ膨らませて今に至る。
大して面白くも思えないまま、平板にロウハは状況を見渡していく。
そういや兄貴はちゃんとメシ食ったかな。二人分の疲弊を観察しながらふと思った。
――なにもない。わからない。
すべての応答は、ただその二言だけに収束する。
かわいそうになぁ、淡々とロウハは哀れんだ。いい加減誰か気づいてやればいいのに、繰り返し、繰り返しの繰り返しに、着々と二人の顔から感情が消えていく。
ここに勤めることができる、アンヘルレイズの術師と認められてここに存在している。
そんなものたちが、みすみす目前で患者を奪われておきながら「無」しか得ていない。現実は容赦なくふたりの矜持を無残に折り砕き、身体は一刻も早い休息を願っているだろう。
たった一日違っていれば、ちがう誰かが同様に陥っていたはずの現実。さて、なぜそれを見ているのがロウハだけなのか。
差し出口などとんでもないが。しれっとただロウハは調査を継続する。いつ彼らが耐えられなくなるか、その時間の予測すら頭の端で始める。
多くの音が、言葉が談話室には溢れ続けていた。そのうちには、リョウを指しての流言飛語も、しみじみするほど際限なく交差する。
異常はいくつもあった。
情報があまりに、不気味なほど早かった。
患者の診察をした彼は、続いて病室「ライタ」に立ち入ったフェイオスとの会話ののち、エクストリーのために設えられた城の一角へと戻っていったらしい。
実際に交わされた言葉までは、彼らには詳らかにはされない。しかし、どうせまた「何か」言ったのだ。ロウハは確信している。彼は今日も、この場の誰にも雲の上の御仁であろうフェイオスやヘイル夫妻と意見を交わし、確実にまた「何か」を始めようとしている。
さてはて、大本はどこなのかね。
流石に、この場に居るだけでは判明しない問いにロウハはわずか首をかしげた。
「だから、――――」
「なのに、……どうして、」
重要な情報ではあるから意識しているが、本人には聞かせたくない言葉の見事な羅列である。ジュペスやクレイなどは下手をすれば「大本」に刃を突きつけかねないほどの誹謗が、鳴っている。
しみじみロウハは実感せざるを得ない。
無知は、罪だ。正確な情報こそが力であり、前途への標だ。
たとえそれが、一時的には暗澹たる未来への扉としか誰に見えなかったとしても。
「だから――おい、トレイズ?」
「少し休む」
「私もごめんなさい。少し、整理したいものがあるから」
「ちょっと、カツキ、」
そんな声が聞こえたのは、ロウハがおおよその目途をつけたくらいの頃合いだった。
止めようとする複数に構わず、中心の二人が談話室を後にする。嵐の去ったあとのように、内側には奇妙な沈黙が落ちた。
しかしややあって、誰もがまた動きを再開し、
ロウハとしてもそろそろまた別のところへと、踵を返しかけた瞬間、ぐっと後ろから手首を掴まれた。
「――――素通りする気か、ロウハ・カイゼイ」
声が聞こえる瞬間には、存在を他から遮断する透明の紗幕が張られる。声が、談話室が遠ざかる。古なじみの、以前に見たよりもさらに洗練されて本当に瞬き一つの間となったそれに、ふいとロウハは口の端をつり上げた。
とびっきりの笑みを乗せて、声の方向へ身体を向ける。
「素通りなんてとんでもない。待ってたんだぜ、トッつぁん」




