P14 観察と考察と苦悩2
長年疑問に思っていた、ことへの答えとなり得る可能性は唐突に目前に示される。
どんなお偉い学者でもなく、どこか気の抜けた顔つきをした変わった髪と瞳の色をした青年に、あまりにもさりげない言葉と声によって。
―――本当にあんた、タダ者じゃないね。
告げた言葉に黙り込んだ、黒髪の青年をアルセラは見やる。
髪と揃いの色をした彼の目は、今はほぼ限界まで見開かれてアルセラを凝視していた。彼の瞳に宿るのは、盲目的な信頼でもなければ依存でも値踏みの視線でもない。ただ己が欲する事実を追い求める、確かな理性と知性の深い光だった。
あのヨルドが気に入って無理やり屋敷へ連れてきたのだと聞いた時から、まず彼が普通だとはアルセラとて考えてはいなかった。
神霊術ではアイネミア病は治せないときっぱり言い切られたあたりから、彼の思考に当然のように存在している、尋常ではないものの存在にも薄々気づいていた。それはきっとヨルドにしても、ほとんど同じ事だったろう。
引っ張りこもうと連れて来たはずが、下手すりゃむしろ、俺たちの方が呑み込まれちまうかもしれんな。
いつものようにさらりとした口調で昨夜、彼が帰宅した後ヨルドが言った言葉が本心であることをアルセラは知っている。その程度のことも分からないほど、夫である彼とアルセラとのつきあいは短くも薄くもないのだ。
しかしさすがに、この午前中ほんの少しアルセラの治癒を見学していただけで。
予想外にもほどがあるような言葉を投げつけられるとは、アルセラはまったく考えてはいなかったのだ。
「…どうして術式紋に、三つ種類があると思ったんだい?」
どうしてもつきたくなってしまうため息とともに吐き出した言葉は、いつもの彼女のそれよりやや低く大気を震わせた。
彼女の声にか言葉にか、わずかに不安げに揺れる黒瞳が、わずかに眉を寄せて問うてくる。
「俺、…何か間違ったこと、言ってますか?」
「違うよ。あんたがあたしの、長年疑問に思ってきたこと以上の事を言ってるんだ」
「へ…?」
術の差異、および共通性。
それは昨日、彼がアルセラ達へと問いかけたことの内容にも通じる言葉だ。きっとこの午前中ずっと、施術の見学をしながら青年が考え続けていたのだろうことだ。
まったく訳が分からないらしい彼に、どうにも苦笑にしかならない淡い笑みを向けながらアルセラは続ける。
「リョウ、一流の祈道士っていうのはね。あんたが持っているその基本術式に加えてもうひとつ、祝福の術式を組み込むんだ。祝福の術式によって、相手にもっとも必要とされる神からの祝福を、魔力というかたちで相手へ渡してやることができて、初めて一流を名乗れるのさ」
「えっ?」
「あたしはね、術式のことはよく分からない。でもね、祈道士としてそれこそ、本当に色々な人や病気や怪我に神霊術を使っていくうち、段々不思議に思うようになった。…どうして同じような患者に同じ術を使った結果として、現れる術式紋だけが違うんだろう、ってね」
「………」
そこまで滔々と言葉を続け、しかし沈黙の内側で明らかに混乱している彼の様子に一度アルセラは言葉を切った。
ゆっくりと心の中で十を数えてから、目前の青年をひたと見据えてもう一度口を、ひらく。
「リョウ。あんたはどう考える?」
「………」
今は推論でも構わない。大胆すぎて発表したところで誰もまず認めないような仮説でも何でもいい。他の誰でもなくこのおかしな青年、リョウの意見が今、アルセラは是が非でも聞いてみたかった。
もしも彼が施術の見学を通して発見した通り、神霊術の基本術式が何らかの理由より、その作用を三分割されたものであるなら。
なぜ同じ祈道士というくくりの中であっても、アルセラが診ているアイネミア病患者は重症化が遅い一方、実はこの国に四人しかいない各国における最上位「神使」たるヨゼの診た患者は、急激な回復および悪化を繰り返しているのか。その答えも出るかも、しれない。
顎に手を当て、しばし考えるような仕草をした後、ゆっくりと彼は探り探りに口を開いた。
「推論、でしか、ないけど」
「構わない。言ってみな」
「アルセラさんの言う祝福の術式っていうのは、その術式に込められた分の魔力を、みっつの分類のうち、患者により必要とされるところに追加するものとして作用してる、…のでは、ないかと」
「………」
やや曖昧に自信なさげな彼の言葉は、しかしアルセラに衝撃を与えるには十分な威力を持っていた。頭を瞬間、何かで軽く一発殴られたような気がした。
ちかちかと奇妙に点滅する目前に、思わず苦笑して己の額をアルセラは押さえる。理由が分からないのだろう怪訝な顔をする青年に、苦笑を返すことしかできずにアルセラはため息を吐いた。
「参ったねえ…」
「…アルセラさん?」
神霊術特有の術式のひとつである祝福の術式は、体得が非常に難しいと言われている。
なぜなら祝福の術式は、それ単独では発動させることができないうえに、何らかの術と重複させて発動させたとしてもその効能のありかが非常に分かりづらいからだ。従って厳密な教義における「一流」の祈道士は、現在減少の一途を辿っていると言われる。
今の教会でまともに祝福の術式を使える祈道士は、おそらく国中探したとしても百はいないのではないだろうか。…かくいうアルセラとて、かつてはその術式の難解さと効能の実感のしづらさにそれを挫折しかけた一人なのである。
しかしそんな彼女が今も昔も祝福の術式を教義通りに使い続けているのは、治癒の基本術式にただ大きな魔力を込めるより、二つの術を重ねて発動させた方が治療の効果は確かに上昇する、という己の経験則ゆえだった。
長年の彼女の疑念の一つにあっさりと答えとなりうる推論を与えてしまった彼へと、ほんとうに苦笑するしかないままにもう一度、アルセラは己の視線を向けた。
彼は神霊術の基本が、三つに分割されると言った。
さらりとそれを言い切ったということは、…つまり。
「それじゃもうひとつ、仮説を聞かせてもらおうか、坊や。…そっちも考えてるんだろう?」
「………」
苦笑に沈黙、ややあって苦笑が返ってくる。その表情こそが、アルセラの言葉の正しさを何より明確に表していた。
あんまりいじめないで下さいよ、苦笑した青年はそう言った。
肩をすくめる彼の思考は、やはりどうしてもアルセラには、読めない。
「俺、そんなに打たれ強い人間じゃないんですから。確かに協力するとは言いましたけど、…正直、すげー怖いですよ今のアルセラさん」
「は。こんな事態に繕うような、顔は持っていないからね。…どうなんだい、リョウ?」
「……確かにこうかもしれないと、思っていることはあります」
「ふむ?」
「でもまだ、それについては全然確証が持てないんですよ、俺は」
だからアルセラさん、ひとつ無茶を言ってもいいですか?
そう訊ねてくる彼の言葉に、もう今更何の無茶もないと、笑ってアルセラは肯定を返して見せた。




