P3-23 種子は何処に 1
静かに、そこから出ていく人を、なんとも言えない表情で友人が見送っている。
扉が開くなり見えた光景に、クレイトーン・オルヴァはわずかに眉を寄せた。クレイと同じく扉の番人となっていた相手方の護衛騎士は、明らかに部屋に入る前よりさらに疲れた様子の主の様子に、驚きながらもただ黙って、その背につき従って行った。
鈍い動きでこちら側に近づいてくる護衛対象。周囲に他に誰もいないことを確認してから扉を閉め、クレイは声をかけた。
「今度は何をしたんだ、おまえは」
「クレイまでそんなこと言うか」
返ってきたのは、諦めたような苦笑だった。
予想したような強い否定はない。どうやらリョウはレニティアス滞在二日目にして「何もしていない」主張を諦めたようだ。否定できる要素が実際、なにもないのだから仕方ない。
昨日は新しい「ちがう」患者を見つけ、当たり前のように治癒魔術の大家たちを驚愕させ一目以上を置かせ、二国の王に自ら足を運ばせ、あとは、なんだ。
誰の目から見ても明確に、エクストリーの王は、己の劔の異質をはなから伏せる気がない。
――噂に違わず、ひどい彩だな
会合の場を立ち守る中、決して愉快ではない雑言をかけら、クレイは耳にした。
曰く、リョウが、状況の悪化を招いているのでは、などと。あれが治癒者とは片腹痛い、ただの黒の死神ではないかとの揶揄もあった。
聞かせようとしたのだろう、怒らせようともしていたのかもしれない。少しでも対応を誤れば、途端に連中は喜色満面にこの男を貶めるのだろう。
基本的に他者と接しない、クレイですらこの状態なのだ。
常に動くロウハなどは、今朝がたの患者失踪の犯人をこの男と囁く人間すら知っているのかもしれない。
「あーあ……」
リョウの声には覇気も悪気もない。リョウの内実を知る人間には本当に冗談もいいところな話だが、なにしろ「違う」男である。知る機会がなければ、これはただ異常と不可解の塊にしか思えまい。
黒は、未知の風を呼び、あらゆる方向へ渦を起こす。
前情報として聞いていた停滞、沈黙とは一体何だったのか。疑問しか抱けないほどだった。
「……なあクレイ」
「なんだ?」
「猫、見てないか。今朝」
「何の話だ」
ぼんやり考えていると、不意に奇妙な言を振られる。
クレイは眉を寄せた。猫とは、少なくともこの男が言う限り、あのやたら軟体な愛玩動物を指す言葉だろう。しかし、朝と猫と、いったい何の関係がある。
今朝、――少なくともクレイには、何もなかった朝。
己もこの男の手も届かないところで、突如、自分では動けず、他人が動かすのも容易でないはずの人間が消えて失せた。
「何に関係のある話だ、リョウ」
「いや。見てないなら別にいい。とりあえず、ロゥロットさんの診察行くからついてきてもらっていいか?」
「いいのか」
「おっさんが俺んとこ来たんだから、大丈夫だろ、たぶん」
返ってきたのは、妙に適当な答えだった。敢えて適当にしている風情が感じられた。
その顔を見た瞬間、するりと胸の中に空風が吹くような違和感をクレイは覚えた。何か重大な、失ってはならないものが欠落しているような。
だが具体的な「それ」を手繰ろうとした瞬間、意識にいびつな靄がかかる。あるのは妙な不快感だけで、その感覚も、次には焦点がひどく曖昧になってしまう。
こいつは「なにか」を憶えているのだろうか。クレイは思った。
こちらにはなぜか見えないものを、黒い瞳は気がつけば見ている。無魔である己と、「異世界の存在」であるゆえに魔力の一切を持たないこの男、何が違うのだろう、とも、ある意味今更のように思った。
彼の沈黙をどうとらえたのか、リョウは疲れたように肩を落とした。
「そうだよ、不安だよ。……ならないほうがおかしいだろ、こんなめっちゃくちゃなのに」
なんとも頓珍漢な言葉を、誰もが異質という小心者はぼやく。
雑で気弱な言葉に、クレイは逆に少し安心した。まだこんなことがこちらに言えているうちは、おそらくこいつは大丈夫だろうと思った。
リョウのような人間の場合、何も言わず、言えず、言わせられなくなってしまうほうが危険なのである。
負傷したジュペスを診せた、あのときがそうだった。クレイでは、遠因を作ってしまった男では、嘆きを聞くには不相応だった。そもそもあのとき、激昂をぶつけられていたとして、クレイでは何も伝えられなかった。まともに共感することすら、ままならなかった。
本当に面倒なやつだ。クレイの背景の何も見ないで彼を友と呼ぶこの男は、馬鹿馬鹿しいほど、ただ、今日もリョウ・ミナセだった。
笑った彼をどう思ったのか、少しむっとしたような表情をリョウは向けて来た。
「なんだよ」
「特に何もないが」
「笑ってるだろ」
「相変わらずだと思っただけだ」
まったく納得できていない風情で、リョウはさらに変な顔をした。
まだ何も見つけていない男は、しかし次には言うのだ。
「……どうせ馬鹿だよ。俺の意地だ。無理するしかないだろ、嫌だって言っちゃったんだから」
言って、困ったように笑う。その笑みが引きつっていることに、本人は気付いているのか、いないのか。
それでもリョウは、足掻く気だった。昨日からさらに状況が悪化し混迷する中においても、それでも前を向こうと自分自身を鼓舞している。
友人の一度張った意地だ。護衛として、その傍らを守るものとして、だからこそ己はその背の支えを増やしてやればいい。
つられるように、クレイもまた少し笑った。進み出す第一歩を促すように、一度は閉じられた扉を、再度ひらく。
――さて、うまくもない言葉でどれだけ伝わるかは定かではないが、
「だからこそ救えるんだろう、おまえは」
「え?」
「病だけではない、患者の未来、そのものを。……安心しろ。初めて会った時から、おまえはなにも変わってない」
少し驚いたようにリョウが目を瞠る。まっすぐな目は、そのままだ。城下の酒場で働きながら、気持ち以外の何も持たずに、それでも人々のために動いていたときとまったく同じ。
それは確かに不完全で、不安定で、もろく、弱く不確定なものだ。しかし同時に、どこまでも、未来を変えうる、変化を呼びうる力だった。リョウにしか持ちえない透明の意志、クレイが信じて、疑わないもの。
魔物の襲来に遭い、次には謎の奇病に冒された人々に寄り添い、未完成な力を振るい続けた。
腕の傷からの病に冒され、命を落としていたかもしれないジュペスを助けた。正体が晒されれば確実に処刑幽閉の身であったはずのリーの、未来の道筋を捻じ曲げた。
今回は何となるだろうか。
どれだけの何を、この男は、最後にはその手ですくうことになるのだろうか。
「なんだよそれ、いきなり」
「そのくらいでちょうどいいかと思ったからな」
「いや、丁度いいとかそういう問題じゃ、」
ないだろう、と。
言い切るより前に、何がおかしかったのかリョウが噴き出した。
ツボにはまったのか、けらけらとしばらく笑ったあと、すべて吐き出すような息をひとつついて、そして、リョウは扉の先へと一歩を踏み出す。
先に、向かい出す。
まだおぼつかない道を先導してやっていると、ふとまたリョウが口を開いた。
「なあ、クレイ。一般論で教えてほしい。おまえにとって、人をさらう方法って、どんなんがある?」
「……おまえの参考になるようなものはないと思うが」
今度はなんだ、と思う。相手が相手ゆえに、いまいちどこまで求められているのかクレイには判然としない。
騎士としてこれまでクレイが関わってきた、誘拐や未遂事件は複数ある。しかしそれらはあくまで、騎士の端くれであるクレイが携わる程度の問題。今朝の一件のように、誘拐の目的も、手段も一切がわからないようなものは知らない。
眉を寄せたクレイに、リョウは肩をすくめた。
「そりゃそうだろ。むしろ、そんなたくさんあっても俺も困る」
「調べてみるか? 昨日シュタインゼルテの者が言っていた件もある」
「ああ、神隠し、の話だよな。どうするかなあ……正直今朝とそのあとのことだけでも、もう俺相当いっぱいいっぱいなんだよなあ。これ以上、何もできる気しない」
乱雑に頭をかき、彼は天井を仰ぐ。仰いだ勢いでわずかにつんのめる。
間抜けな姿である。この部分だけ切り取ってみれば大層平和にも見えて、その実クレイの知るリョウ・ミナセは、いつであろうと途轍もない異常案件の中心に自分の身を置いている。
ある意味聞いた自分の方が馬鹿だった。クレイは思った。この男を守るという意味においても、強いて触れない意味は何もなかった。
肯いた。
「わかった」
「あ? なにが」
「調べておく」
「いやあの、クレイ、俺の話聞いてた?」
「聞いていたが、おまえがそれを最終的に使うか使わないかはまた別の話だろう」
さらりと告げる事実に、リョウは渋面を作った。
返る言葉はなかった。否定したいが、否定できる要素がないらしい。そうだろうとクレイも思う。今更である。
「何か俺、この国来て早々みんなにすごい色々無理させてるような気がするんだけど」
「何をいまさら」
「否定なしかよ」
頭を抱える友人をクレイは笑った。
今は進むよりほかになかった。




