P3-21 迷いのうちを探して
「うぁーん、なんであれでも駄目なのようッ」
場に突っ伏して大仰に大声で嘆くその人に、カリアはため息を呑み込んだ。
どうして私はここにいるんだろう。考えても詮無いことを思う。アノイの護衛をガイザードと交代し、休憩に入ろうとしたところで、目の前の彼女につかまったのだった。
嘆く女の名は、オルトリエ・ヘールヴェイという。ここグラティアードの魔術師団の長であり、エルテルミネ【迷崩し】の異名を持つ、国防の要のひとつともいわれる存在だ。
彼女は今朝がたの、患者失踪事件の責任者ともなっている。即座に決定が下されるほどに、事態はまさに「異常」だった。
そして嬉しくないことに、異常はさらに、重なった。
「あの、オリエ、」
彼女はただ嘆きたいだけなのだろう。しかしカリアは、そんな相手に自分がどうしたらいいのかが分からない。
カリアより三つ年上のこの女性は、彼女の母方のはとこにあたる。不愛想でおもしろくもないだろうカリアに、昔からなにかと気をかけてくれていたひとだった。
眉を下げつつ、彼女を見る。癖の強い長いあかがね色の髪は無造作にその波打ちを披露し、分厚い眼鏡の奥の濃緑の目は、失意に淀んで湿っていた。どれだけ悔しいのか、いや違う、それはつまり、非常事態である証明なのだ――立ち向かう以外に選択肢を持たない青年の姿がふと浮かんで、カリアは目を細める。
彼女が、オリエが捉えられない。
誰もが恐怖を覚えざるを得ない事態だ。丸まる彼女の背に、カリアは手を当てた。
「焦っても、ただ魔力を無駄にするだけよ、オリエ」
「あぁぅわ~、カリアちゃんの癒し、久しぶりだねぇ~……相変わらずというか、ホント、きっれぇえになったねぇ……」
「何の話よ」
「おねえぇさんの目は誤魔化せないよぉ~……?」
妙に底を這うように、目だけ上げて彼女は笑いたいような調子で言う。
迷路を崩せなかった彼女のひとみは、まるで別の迷を見つけたかのような奇妙な輝きに満ちていた。
「カリアちゃん」
「……何、よ」
名を呼ばれおもむろに顔を近づけられ、ついのけぞるようにカリアは後ろに下がる。まだ癒しは終わってはおらず、手は彼女の背中に当てたままだ。
そんなカリアにやたらおかしそうにオリエは目を細め、そして首をかしげて言った。
「ねね。正直な話、どぉなぁの?」
「だから、何の、」
「ごぉまか~さない。あの、黒のヴァルマス【劔】くん。いったい、ど~ぉいう御関係なの?」
ぱちり。
何の脈絡もなく切り出された名前に、思わずカリアは瞬きをした。
「リョウが、何なの?」
「いやいや、それを聞いてるのはおねぇさんだよ~ぉ。昨日だって、夜、一緒にいたんでしょぉう?」
「……どうやって見てたの」
「それは重要機密だね~ぇ」
眉を寄せる。訊ねれど、当然か彼女ははぐらかして、まともな答えはくれない。ああ、彼女と同じように、きっとほかにも「網」を潜り抜けて、わずかでも情報を得ようとする人間は多くいるのだろう。
けれど、だからこそカリアには不可解だった。どうして彼女はリョウ自身でなく、カリアと彼の関係性なんて尋ねてくるのだ。
彼は、彼女の友人だ。いちばんちかい位置にいてくれる人だ。リョウがどう考えているかは知らないが、少なくともカリアは、そう思っている。
そうは見えないのだろうか、もっと、何か別のものに見えるのか。私と彼が。それとも、私一人が?
分からないカリアは、ただまた訊ねるしかなかった。
「どうして?」
「カリアちゃん?」
「私は、何も変われていない。私は、私のままで、あのひとは、……ただ、あのひとよ」
どうしたら守れるのか、かけらもわからない。
ただ、こわい事実だけが今朝、またひとつ増えた。傷がつけば、それが彼の命を奪うかもしれない。致命傷と呼ぶものは、きっと、彼に関してだけ、カリアたちよりずっと浅い。
それでも彼は譲れないと、たったひとつのことに対してだけつよく笑うのだ。
諦めたくないのだと、足掻くことを決して止めないのだ。
昨夜も、きっと誰なのか何なのかもまったく分からずに、リョウはシュタインゼルテの影取にはっきり言い切って見せた。その横にいられる、空間を共有して、そうするリョウを目の当たりにできることが嬉しかった。その断言が、誇らしかった。
カリアは、彼がいつだって怖がっていることも知っている。
うまくいかないかもしれない、だめかもしれない、間違いかもしれない。
そんな負の思考と、自分の不完全性と戦い続けている人だ。背負うものが、背負うとリョウ自身が決めたものが、とても重くて、きっと、彼と同じような彼の世界のひとなら、誰も負わないで済むものなのだろうということもわかっている。
孤独を、感じている。
なぜかオリエの目が少し優しくなった。
「……ふぅん?」
「だからこそ、あのひとに無駄な横やりを入れようとするなら、オリエ、あなたであっても、私は容赦はしない」
「あらあら」
「アノイロクス陛下の流布する通り、あのひとは我が国の異者、現在唯一無二の、陛下のヴァルマス【劔】。あのひとにとっての戦いは、血を流すのではなく癒すこと。……そうする刃の返しで、自分がどれだけ傷ついても、絶対にリョウは、自分を止めない」
そんな人だから、どうしたらいいのか、いつも思う。
彼は、ちがい、だから危うい。
カリアには時折、リョウが「止まる」選択肢を自ら消しているように見えることがあった。彼自身がそのことに気づいているのかどうかは、カリアには分からない。
異世界の彼は、どこまでいってもひとりだ。
彼と同じ存在はない。根本を作り上げる道義を、常識を彼と同じくするものはない。少なくともカリアは聞いたことがない。
カリアでは決して、同じになれない。
だからこそ思う。少しでも、支える力になりたいと願う。今朝のように、明かしてもらえなくても、隠されたのだと、伝えてもらえなかったと、わかっても、それでも。
己の手をカリアは見下ろす。それは令嬢の手ではない。目を凝らせば分かる程度の傷が幾つも散った、これまでもこれからも、戦と血と泥濘にまみれていく手だ。
癒すことにしか目を向けない彼とは、ちがう手のひら。
どうしたら守れるだろう。いつだって、彼を考える最後には思う。焔と飛礫だけしか生み出すことのできないこの手で、どうすればいいだろう。傷つけ焼き尽くすことはできても、ちゃんと願って守り抜くには、今のこの手ではまだ何もかもが足りない。
少しだけ苦しくなったカリアに、やわらかいオリエの声が降った。
「ねぇ、カリアちゃん」
「なに?」
「……たぶん、カリアちゃんだけでも、も~ぉちょっと、だねぇ」
声とともに、俯き加減の彼女の頭に手のひらがそっと添えられる。子どものようだと思ったが、なぜか頭を撫でるオリエの仕草は、カリアを子ども扱いするそれではない。
なんとなく釈然としないながらも、カリアは目を伏せてそれを受け容れた。
その手は、カリアと同じ種類のものだ。――彼の、男のひとのものとは、ちがう。
「何が、もうちょっと、なの?」
「んん? ふふ。さぁ~ねぇ。カリアちゃん、本当、かぁ~わいくなったねぇ」
「だからオリエ、私は、」
「なぁんにも変わってな~い? そぉ~かな? 本当に?」
どうしてそんなに諭すような、なにか、促そうとするような。
柔らかい調子で続けるのだろう。わからないまま、ただ、声を聴く。
「じゃぁ~ねぇ、カリアちゃん。癒してくれたお礼に、ひとぉつだけ教えてあげる」
「オリエ?」
「おんなのこがきれいになるときって、い~つかな」
オリエはやわらかく笑った。
その表情は、多分昔の彼女にはなかったもので、……確かそれを、滅多に会わないカリアもこうして目にするようになったのは――。




