P3-20 論目は冠の上と下 2
動けないはずの病人がいなくなった。
自室待機を命じられた椋に詳細な続報がもたらされたのは、第一報から三時間は経過してからだった。
「はーっ……」
椋を訪ねてきたヨルドは、どんよりと疲れ切った表情をしていた。
ピアとリベルトが用意してくれたお茶をぐうと呷り、幸福が一目散に逃げていきそうなため息をつく。午前中がほぼ何もできずに終わってしまいそうな不満も、そんな彼を目の前にして口にする気にはなれなかった。
ポットに入っていたもう一杯を空の彼のカップに注ぎ、ぽいと角砂糖をひとつ落とす。
少しだけ顔を上げたヨルドを横目に、さらにミルクもくるりと垂らし、ソーサーにはクッキー二枚をつけて差し出した。
「どうぞ。お疲れ、おっさん」
「……変なとこばっかおまえさんは気が利くなあ」
椋の見立ては当たっていたらしい。苦笑してヨルドがカップを受け取る。朝早くから対応に追われて、ろくに食事どころか座る暇もなかったのだろうことは推して知れた。
だからきっとヨルドは「息抜き」に来たのだ。他の二人は、今もきっと何かをしているのだ。
もう一杯の半分ほどを干したヨルドは、クッキーを一気に二枚とも口に放り込んでソファーの背もたれに身体を預ける。たいして咀嚼もしないで飲み込んでひとつため息をつき、天井を仰いで言った。
「朝から悪かったな、待機なんぞさせて。暇だったろう」
「いや、おっさんたちのせいじゃないのは分かってましたから」
「暇だったこと自体は否定しないわけだな」
「まあ、はい」
苦笑するヨルドに椋は頷く。
想定外の「待機」指示で、朝からの予定はすべてがらりと崩れた。いきなり生じた空白のなかで、さて、それでもなにができるかと椋は首をひねった。
ひねって、結果、無意味ではなかった。
ぼりぼりと追加のクッキーをヨルドがつまんでいく音を聞きながら、椋はバッグからノートを取り出す。真新しい付箋をつけたページを、膝上でひらいた。
文字列をなぞり、確認する。ヨルド・アルセラ・フェイオスの三人のうち、だれかに会えたら話そうと思っていた内容をあらためる。
「作為的になにかが創り出す、時を惑わす霧」。
カリアから朝に告げられた「可能性」を、椋は、すでにほぼ確信に近いものに変えていた。
「なんだリョウ、俺たちが疲れてる間にも、何かまた、報告すること作ってきたってのか」
「一応。でもできれば先に、おっさんたちの、患者さんが消えた話について詳しいことが聞きたいです」
「詳しいこと、なあ。……消えたのはヴォーネッタ・ベルパス病の第三症例、名前はセテア・トラフ。下級貴族の三女で、ここの魔術師団に所属する「青」の魔術師だった。彼女は最初期に発見された患者のひとりで、特にここ数日にかけて衰弱が著しく、もし意識が戻ったとしても、とてもじゃないがまともに歩けるどころか、指一本動かせるかどうかも分からないような状態だった」
どこか訥々と抑揚乏しく、ヨルドは情報を諳んじていく。
発覚は今朝。時刻はおよそレイニの刻|(午前七時)。
第一発見者は当直だった創生士で、その患者の担当でもあるカツキ・リリアーナ。彼女が患者の朝の診察に訪れるまで、誰一人として事態に気付いていた人間はいなかった。
患者が最後に確認されたのは、その前、ジニエの刻|(午前三時)の当直回診時。当直であった彼女ともうひとりの術師は、その際には一切の変わりは彼女にも周囲にもなかった、そもそも発覚まで、自分たち、そして朝の診察目的のアンヘルレイズの術師たち以外、人・ものの出入りはなかったと証言したという。
そもそも、夜間当直帯は、第一大病室「モノス」をはじめとしたアンヘルレイズ全体は、窓・扉がすべて魔術もしくは特殊なカギによってロックされる。
関係者以外の人間が一歩でも足を踏み入れようものなら、複数の仕掛けが一気に動き、まずその侵入者は無事ではいられないそうだ。
「完全当直制で、24時間、欠かさずに誰かの目があって、侵入者対策もいくつもとられてるはずの中で、一人どころか何人かがかりでやっと動かせるくらい状態の患者が、いきなりいなくなった、ってことですか」
「そうだ。しかも、ベッドの上にだけ、無理やり引きずられたみたいな血痕を複数残して、な」
苦虫を食い潰したような顔で、ヨルドは言った。
「完全な密室」から、簡単には動かせない状態のはずの患者が消えた。消えた後に残っていたのは、ベッド上にだけある引きずられたようなかたちの血痕だけ。
推理小説の設定にしたって、無茶じゃないかと言いたくなるような話である。いくら魔術があるといっても、それを踏まえてもきっとおかしいのだ。でなければそれこそ、「第一人者」で「強い」人間であるはずのヨルドが、これだけ昼前から疲弊しきっている理由がわからない。
椋は腕を組んだ。頭をひねる。
「目的は? いわゆる営利目的、とかそういう?」
「それならセテア・トラフだった意味が分からん。仮にそうだな、ヴォーネッタ・ベルパス病の患者をさらうこと、それ自体は不可能じゃあない、あいつのアンヘルレイズを抜くことも可能としよう。だとしてもなリョウ、彼女と似たような容体の患者は、全く嬉しくないが他にもいるんだ。もっと身分が高い、裕福な家の出のやつも、より、強力な魔力を持つやつもな」
「本人の縁故とか」
「非常に品行方正、婚約者との関係も双方の実家含め良好。何の問題もなかったそうだ。恨みを買うようなことも何もない」
「……すみません、もう思いつきません」
「だろうな」
うなずき苦笑を返しかけて、途中でヨルドは表情を作るのをやめた。
瞳に翳が落ちる。
「そう、何もない。何もなかったんだ」
「おっさん?」
「エルテルミネ【迷崩し】のオルトリエ・ヘールヴェイが、ここまでの時間全て費やして出した結論だ……と言っても、おまえさんには分からんか。そうだな、」
一息。
そわりと肌の上を走った浅い不快感に、椋は軽く膝上で拳を握った。
「確知できる次の瞬間には、過去の手繰りのうちでさえ、第三の患者セテア・トラフは消え失せる。周囲には一切の魔術も魔物の気配もかけらもない。それを凝らせて凍らせて、ひとの目に映るよう描かせて誰に見せても同じことだ。空間を切り取った痕すら微塵もない。何度でも、ただ、ただ彼女は消える。誰からも何からもすり抜けて失せる」
調子は変わらず平坦に、更なる理不尽をヨルドは紡ぐ。
椋は眉を寄せた。そもそもいきなり患者が消えただけでも訳が分からないのに、さらには「魔術を使っても消えたその時間のことがなにも分からない」?
いなくなった患者、消えた人、失われた、ある特定の時間。どこからも、誰からも、次第に抜け落ちていく刹那。
ノートの上に改めて目線を落とした瞬間、不快感が怖気となって足許から喉まで這い上がった。
「……リョウ?」
ぐうと奥歯を噛み締め、さらに両の拳に込める力を強くする。訝るように名を呼ぶヨルドの声に、しっかり椋が顔を上げるまでには少しばかり時間が要った。
そうでなければいい。
椋の願いとは裏腹に、「否定」の選択肢がどうにもどこにも見当たらない。
「今朝の濃霧を、見ましたか」
「……なに?」
「今朝、目が覚めたら、すごい霧だったんです。伸ばした指の先も曖昧になるくらい真っ白で、誰も動いてる人はいなくて、静かで」
怪訝を揺らした目の前の瞳が、告げた瞬間に凍り付く。
この状況であえて椋がこれを言う理由に、きっとヨルドは思い当たるはずだった。続ける。
「でも、朝から色々な人に聞いて回っても、俺以外の霧を見た人を、俺は見つけられませんでした。霧どころか、みんなが、違和感すら忘れていくのを目の当たりにしただけです」
目線を上げる。絶句するヨルドを見ながら、椋は改めて思い出す。
空白の三時間で、少なくとも椋が声をかけられる範囲にいる相手からは全員、霧の存在どころか「違和感」そのものが完全に消えた。聞いていくそばから「消えた」ことが記憶から消えていく異常事態に、椋以外の誰も気づかない。異常と分からないから、分かれないから、ひとり顔色を変える彼に、どうしたのかと逆に心配すらしようとする。
「朝寝坊をしたこと」「朝のある特定の時間が、ざっくり切り取られたかのように失われたこと」。
クレイは、城の使用人たちは、伝えたほぼ次の瞬間に違和感ごと忘れ去った。
魔術の才はそれほどでもない、というある人は、待機を命じられた直後は違和感を持っていたが、待ち始めて30分後には、違和感ごと忘れてしまっていた。ピアは1時間、リベルトは1時間と15分ほどだった。リーとヘイは、2時間だった。――そう、椋の手にするノートには書かれている。
椋に最も近い人間で、最後まで覚えていたのはジュペスだった。ロウハも、それに近い時間憶えていたという。
だが、彼らも失った。ジュペスは椋の目の前で、話している途中でかき消された。今すぐその場から踵を返して逃げ出したくなるくらいの、明白に過ぎる「異常」の光景だった。
見据えるヨルドの拳は震えている。
ああこの人にはまだ「違和感」があるのだ。少しだけほっとする己が、滑稽だった。
「俺が霧を見た時間帯と、違和感を持った人がいる時間帯はおおよそ一致します。そして違和感を忘れるまでの時間は、本人の魔力量に比例して長くなっていました」
「おまえ、」
「朝、カリアに聞きました。霧には二つの種類があるって。自然現象として起こる霧と、時を惑わし、奪うために作為的に発生させられる霧が。……おっさん」
至極頭が痛そうに、ヨルドが額に手を当て顔を覆い深々ため息をつく。
思考を回すための沈黙がしばらく場に満ちた。沈黙の先で出せる答えが一つしかないことを、椋は既に知っていた。
何があった? どこに行った?
人も記憶も時間も、椋以外のまわりのすべてから、ごっそりと存在そのものから消えたようなそれら。
状況は過去から重なって、もはや透かす椋には悪意しか見えない。
「……動かしかたの過激が過ぎるぞ、リョウ。二言はないな?」
「ありません。あと、もうひとつ、そのときに俺、黒い猫を見たんです」
「黒い猫? その霧のなかでか」
「そうです。何かに追われて、必死に逃げてるみたいでした」
「――――……」
すべてを吐き捨てたいような調子で、そこでヨルドが苦笑した。
ああやっぱりこれも「異常」なのだ。そもそも「無魔」の俺が、ずっと覚えてることがもうおかしい。
鉛でも詰め込まれたかのように、また胸が重苦しさを増す。わからない、もう何度思ったか知れないことをまた椋は考えた。
顔を上げたヨルドは、またさらに疲れていた。
「なあリョウ、なんでまあここまで、おまえ」
もう笑うしかない、という風情だった。
笑い切れていない声がさらに疲弊している。ただじっと続きを待っていると、ひとつ重いため息の後、ヨルドは続けてきた。
「黒い猫をな。見たって話が複数挙がってるんだ」
「いつ、どこで」
「こら。分かり切ったことを聞くな。……患者が倒れる前日、もしくは当日の朝にだ」
問いは苦笑で切らされる。敢えて彼が言う理由などひとつしかあるはずもなく、だがその事実は、今朝椋に向かって飛び込んで来た、あの小さいいきものとどうにも重ならない。
黒い猫。椋の知識の内側では、不吉の象徴とか言われていたりするもの。
この世界ではどういう扱いなのか椋にはわからないが、少なくとも現時点では、それは「病を呼び込むかもしれないもの」なのか。
あんな小さくて、ふわふわしたものが。
すべてをまっすぐ見据えるような、きれいな目をしたいきものが。
「……」
何かが、ひどく正しく間違っているような気がした。
顎に手を当てる。椋は考える。違和感があった。ヴォーネッタ・ベルパス病の患者の周囲で、黒い猫を見たという話がある。猫がいた時間は、発症の前日、もしくは当日、その少し前の刻。
さらに違和感が強まって、椋は眉間にしわを寄せた。
もしもそうと仮定して、「見た人」と「患者」の違いは何だ? そもそも「呪い」であって感染症ではないはずのヴォーネッタ・ベルパス病を、ネコが媒介するなんてこと、あり得る話なのか?
考え込んで沈んでうつむき加減になっていく椋の頭に、不意に軽い圧が乗った。
くしゃりと乱雑に撫でまわされる。
「ありがとうな、リョウ。逆に何もわからなくなった」
顔を上げると、ヨルドが困った顔をしていた。
憔悴している相手に敢えて文句を言う気も起きず、払おうとして、しかし何となく妙に中空にとどまってしまった己の手をゆっくりと椋はもとに戻した。
時間が終わろうとする気配を感じた。
「悪いなリョウ、病室に連れてってやろうと思ってたんだが、どうも、無理だな」
「いえ」
無理もない。ただ「事件が一つ起きた」というだけでも、水瀬椋をひとつの部屋に閉じ込めておかねばならないくらいだったのだ。
悲しいかな納得してしまっていると、不意に、改まったように硬い声で名前を呼ばれた。
「なあ、リョウ」
ヨルドの声が不自然に震えているような気がして、椋は少し首をかしげる。
見据える先で、相手がわずかに、確かに、ゆれた。
「救えると、思うか?」
ぽつりと落とされるように。
一拍遅れて理解した瞬間、椋は呼吸のしかたを忘れた。瞬きすら忘れて、目の前の、声を発した瞬間に少しだけ小さくなったような気がする男を凝視する。
それは決して、口にしてはならない類の言葉だった。特に彼は、そして自分は。表に出してはならない、伝えてはならない、しかし、抱かずにいられないだろうことだった。
治癒に、医療に、だれかの命に直結する場所に身を置き続けるからこその、恐怖だった。
だって、誰も知らないことに、どうやって確信を持てというのか。誰も知らない、過去に同じ呪いが使われたときには、誰一人として、助けることはできなかったという。
正解などかけらも経験からは示せない未知の恐怖、脅威。それらに必死で打ち出す次の一手が、確実な光だと誰が言えるだろう。
怖い。当たり前だ。助けられないかもしれない。いつも怯えている。
だれだって、そうだ――椋は両の拳を握りこんだ。爪が手のひらに食い込んで痛かったが、その痛みなど比較にならないような痛みが、ここから逃げれば確実に自分に、自分たちには来る。
怖い。いやだ、逃げたい。
だからこそ、何度でも水瀬椋は口にしなければならない。
「……助けます」
「リョウ、」
「できる、できないじゃなく、やるんです。……できるって、やれるって、まず、俺たちが信じないと」
笑って見せる。どれだけまともに笑顔が作れていたかなど、椋自身にもまったくわからなかった。
ヨルドはなぜか息を呑んだ。
どれだけ変な顔をしたのか、椋の顔を穴が開くほどに凝視し、ややあって、少し気が抜けたように苦笑した。
「……そうだな。すまん。変なこと言わせたな」
「謝るなら、最初から言わせないでくださいよ」
「策はあるか?」
「俺が勝手にやりたいことが、ひとつ」
「そうか。じゃ、詳しい話はまた、俺たち三人に聞かせてくれ」
「進んでいいんですね?」
「止めてていいような事態じゃあ、とてもじゃないが、ないからな」
ゆっくりとヨルドが立ち上がろうとする。去ろうとする彼を、あともう少しだけ椋はそこに押しとどめた。
運よくバッグの中に一枚だけ残っていた袋を取り出す。テーブルの上に残っていたお菓子を敷き紙ごと詰め込んで、口を折りたたんで彼へと椋は差し出した。
「これ、持ってってください。きっとアルセラさんとフェスさんも、おっさんと同じ感じなんでしょう?」
「ああ。……ありがとな、リョウ」
その言葉にはただ首を振って応えた。
八方が塞がりかけているどころか、今いる場所すら狭まってきているような現状で、
それでも、できることがあると、そうであるはずだと、信じたかった。
椋が言う「忘れる話」を、M3ドロップボックス http://ncode.syosetu.com/n7432cc/ に落とさせていただいています。
あわせてお楽しみいただければ。




