P3-18 断章鳴らし
「ヴェステルマー【時惑いの魔霧】?」
久しく聞かなかったおぞましい単語に、アノイは秀麗な眉をひそめた。
彼の目の前には現在、国王の護衛筆頭である第四魔術師団長カリアと、第七騎士団長のガイザード・アストリエスがいた。物騒な単語にアノイだけでなく、ガイザードもまたその強面を更に険しいものにする。
突然の患者の失踪。現場に残されていたという血痕と、一切の「その後」が探知できないという現実。
不可解な事態の報せに首を捻っていたアノイに、少しばかりのためらいの後、盗聴防止の結界を張ったうえで彼女はその単語を口にしたのだった。
「ふむ、鍛練に時を忘れた某の未熟かとも思っておったが……」
「私も彼に指摘されるまで、己の時が奪われたことをまるで気づけておりませんでした。今朝、幾分使用人たちが騒がしかったのも、これが原因と考えれば、辻褄は合います」
「ついでに朝方の、俺の腑に落ちない感覚にも説明がつくわけ、か。なるほど、だからこんな大層な結界を張ったわけだな。カリア」
「……」
にやりと笑ってほめてやったというのに、カリアの表情は変わらず浮かない。
さてはまたリョウと何かひと悶着あったのだろう。本当にあれが現れてから、面白いくらいに鮮やかに分かりやすくなった。しみじみアノイは思う。
カリアは自分に興味がないから知らない。四角四面に魔術師団の制服を身にまとってなお、果たして幾人の視線をこの国を訪れてから今までに釘づけにしたのか。彼女を知っていたはずの人間すら「あれは誰だ」と口にするほどの変化を、カリア自身だけがまだ気づかない。
すべての起点は黒だ。変化を求めるための黒。誰も迎えたことのない「未知の朝」を迎えるために訪れる朝闇の名を、アノイが与えた異世界の青年。
そして与えた名の通り、昨日にも引き続いてあいつは変化をもたらしてくれるわけだ――
やれやれと一つ息をついてカップに口をつけるアノイに、この場でただ一人仔細を知らぬ男が、困ったように眉を寄せた。
「申し訳ありませぬ、陛下。某、武骨の無粋にて、仰ることが解りかねます」
「気にするなアストリエス、無理もない。俺自身、リョウの名がなければ、にわかには信じがたい、というより、正直信じたくない話だ」
「陛下のヴァルマス【劔】たるあの青年が、今朝にどう関係するというのですか」
ガイザード・アストリエスは、己の槍の腕と、その速度を、鋭利を、突破力を磨き上げることで現在の位にまでのしあがった男だ。
ゆえに彼は中正であった。意味不明の塊のようなリョウにも、あからさまな怪訝偏見を向けることはしない男だった。
が、さすがに何の判断材料も与えないままでは理解もなにもあったものではない。ひとまずリョウが「異世界の人間」だという最も理解不能な事実はすっ飛ばして、アノイはさらりと口にした。
「ああ。おそらくだがあいつには、ありとあらゆる魔術が効かん」
「!?」
「ん、いや、この言い方は違うか。魔術の一部が効かない、というのが正解だな。おそらくあいつには、あいつという存在それ自体に干渉する一切の魔術が効果をなさない。あいつは幻惑に惑うこともなければ、時を奪われることもない。体を操られることもなければ、傷ついた体を、魔術によって癒すこともできない」
「な……!?」
ガイザードは絶句した。カリアはさらに浮かない表情になった。
今回の己の護衛にガイザード・アストリエスを選んだのは正解だった、とアノイは思う。リョウに関するこんな事実を話しても平気なのは、最もあれと近いカリアを除けば、この男と第十騎士団長のソルグレン・アーヴェハイテ、あとはある程度リョウというものを知っている、新たな第八騎士団長エネフ・テレパストくらいのものだろう。
カリアは何も言わない。驚いていない。
アノイは顎先に手を当てた。
「驚かないな、カリア。確かめたのか?」
「……陛下はなぜ、そのようにお考えになられたのですか」
「そりゃ、俺の減衰術がまるであいつに効かなかったからな」
「陛下の術が!?」
「あのときの……?」
ガイザードの驚愕はもはや心地よい。同時にカリアが思い返しているのは、リョウがアノイを渾身の力でぶん殴ったあの一場面であろう。
実際あれが、アノイがこの結論に至ったきっかけだった。さらに言うなら確認目的で、アノイはその後、リョウと顔を合わせるごとにひっそり、様々な行動妨害系の魔術を彼に使っていた。
結果として、何一つとして例外なく、どの術もかけらもリョウには効果をなさなかった。
バレればまたぶん殴られそうな事実である。いやしかしそもそもリョウが異質すぎるのが第一の問題なのだ、アノイは心底から思っているが、まあ、実際に口に出して言ったところでリョウからの賛同は得られまい。
そもそも今まず考えるべきは、早急に対処すべき現実は他にあった。
「しかし陛下。もし本当にミナセ殿が目にしたのがヴェステルマー【時惑いの魔霧】であり、それに某やラピリシア殿、さらには陛下御自身までもが惑わされたのだとすれば。これは既に、エクストリーのみで済ませられる問題ではありませぬ」
ガイザードは真面目な男である。まったくもって、その通りの事実をまっすぐに口にする。
アノイは頷いた。
「ああ、もし本当にそうならば、な。だが厄介かつ残念なことに証拠がない。あいつが俺たちを偽っている可能性もないわけじゃない。今朝に違和感を抱いてるのすらおそらく各国の上位術者のみ、位階のそう高くない者たちに至っては、現時点でどこまで違和感が残ってるかすら不明だ」
ヴェステルマー【時惑いの魔霧】。
それは一部の高位の魔物のみが使用する、言葉通り魔の霧、人を惑わす霧である。過去には、国ひとつが丸ごと時を奪われ、約一週間、完全に外界との交流が遮断され、遮断の内側では魔物が滅国の凶刃を振るったという記録もある。
言葉は確かにある。定義もされている。事象として後に確認もされている。
しかし実際に時を惑わされ奪われた、その証明は困難を極める。
特に今回のような「短時間」の場合、前述のような、周囲との齟齬より真実を導き出すことも難しい。そもそもこれの真髄は「惑い」にあり、霧の発生源である魔物とほぼ同等、或いはそれをしのぐ能力を持つものしか、「惑い」を抜けることはできない。
つまり本当に今朝がた、カリアやガイザード、そしてアノイの時間すら奪われたのだとすれば。
「冗談であってほしいがな」
浅い願いなど全力で上滑る。それはもはや、世界の危機である。
都でなく、国でもなく、遍くすべてに等しく降りかかる危機である。砕国どころか、殲界の難境である。
頭が痛くなる。アノイにはいくつか、事実として知っていることがあった。今回レニティアスに訪れたのは、今一度それを他者をも含めて確認する目的もあった。
まったくもって、朝は何一つとして穏やかではなかった。
「――――アノイロクス陛下!!」
さらに波を増させるように、盗聴防止の結界の上からそのとき、敢えてすべてに聞こえるように張り上げた声が響く。
それは滅多に使用されない、極秘裏の場を破り声を響かせるための術式である。少し驚いたようにカリアとガイザードが顔を上げ、カリアは目線で、アノイに結界解除の如何を尋ねてきた。
合図する。カリアが鳴らす指ひとつでかけらも残さず結界は消え失せる。閉ざされていた扉が開かれる。平身低頭の姿を覗かせる男に、アノイは問いかけた。
「どうした。まだ今日の予定にはいくらか猶予があったはずだが」
「申し訳ございません。こちらの、」
すっともう一人、別の女が前へと進み出る。反り返りそうなほどの勢いで背筋を伸ばした、劒のような鋭さと上背の高さ、猫のような瞳の女だった。
丁寧に彼女はアノイたちへと向かって頭を下げ、要件を告げる。
「ご歓談中の無礼無粋、平にご容赦願います。こちらの書状を大至急お届けするよう、我が主より申し付かって参りました」
言葉とともに差し出されたのは、レニティアスの国璽、多重円と焔と蛇が象られた押印がなんの惜しげもなく大きく押された一通の封筒。
もう来たのか。思いながら封を開いて、さらに瞬間で目に飛び込んできたものに、さすがのアノイも苦笑を禁じえなかった。
「……こいつはまた」
月を喰らう獅子、開かれた扇と花と太陽、流水紋に本と万年筆、二本の斧と大樹と魚。
絢爛に過ぎて胸焼けしそうな「しるし」たちは、一刻も早くとアノイを喚んでいた。
「まったく。ヨルドやアルセラの言じゃないが、本当にあいつは、そこに在るだけで別方向にすべてを動かすな」
ずらりと並んだ五つの国の国璽。
何も変わらず、ただ患者の容体だけが緩やかに悪化していくという前情報はどこに行った。何も掴めないというのは、膠着と諦念に満ちているというのは。
笑うしかないアノイは、封筒の中身を一瞥してポケットへねじ込むと立ち上がった。
アノイの返答を待つ女へ命じる。
「今すぐ俺の案内を。カリア、アストリエス。ついてこい。出かけるぞ」
「陛下?」
「お呼びだ。俺の仇敵にして朋友どもがな」
二対の瞳が色を変える。それが何を示すのか、分からぬ護衛たちではなかった。
動き出した異常事態に、冠が今、静かに集おうとしていた。
これにて本年最後の更新とさせていただきます。
まだまだ至らぬ面も多い拙作ですが、少しでも皆様に楽しんでいただけるよう、来年も精進して参ります。
スローペース更新が、本当に申し訳ない限りですが、
どうぞまた次の年にも、椋たちの創ってゆくうねりを見守っていただけますよう、よろしくお願い申し上げます。




