P3-17 破られたもの、その破片
そこは随分とひどい騒ぎになっていた。
昨日までの沈黙と静寂が嘘のように、多くの人間が慌ただしく出入りし、半数以上はまともに何をする手も持たずにただ状況を「誰か」に聞き出そうとする。まずフェイオスが指示したのは、ここ「モノス」にいるヴォーネッタ・ベルパス病患者全員を、ベッドごとほかの部屋に移動させることだった。
動けないはずの患者が消えた。
最も人の目が多く、常に配られているはずのここから、いなくなった。
行き交う誰もが、疑念をいっぱいに顔に張り付けていた。調査担当の文官たちも、このアンヘルレイズに勤め、つい昨日まで彼女の様子を、停滞と緩除な増悪を見てきた者たちも、誰もが一様に意味が分からないと瞳で言う。
もっとも状況についていけないのは、昨晩から今朝の当直に入っていた術師たちふたりだろう。
フェイオスに彼らを疑う気はなかった。もちろん取り調べはある程度受けてもらわねばならないが、おそらく白の結果しか示されないであろうことは、現時点でも容易に想像がついていた。
事態が明らかになったとき、言葉通りふたりはその場で絶句した。震える声で、発見より一ネーレ(一時間)前の回診では、何も変わりはなかったと述べた。
そこから「彼女」が消えるまでの間に、第一大病室「モノス」への人の出入りは一切なかったとも証言した。
だが、現実にひとり患者は欠けた。
ベッド上にのみ引きずられたかのような赤黒い痕跡を残し、忽然と、どこからも誰の目からも、消えて失せた。
「ひどい顔だぞ、フェス」
すいと横に並んだヨルドが声をかけてくる。ひとつ嘆息とともに、フェイオスはゆるゆると首を振った。
フェイオス自身、現実に理解がまったく追いついていなかった。現場に一切魔術を使用した痕跡がないことが、余計に事態を混迷させている。
まだ「普通」の誘拐であったほうが幾分マシかもしれない。探索、検索の方法も絞れたかもしれない。だが彼女は「ただ」そこから消えた。誰の目にも映らず、誰にも異常を見せず、音もなく、なにもなく、ただいなくなったのだ。
彼は、管理者たるがゆえに、姿を消した患者が下級貴族の三女であり、己の魔術の腕をもって着実に実績を積み上げてきた魔術師であることを知っていた。金銭営利目的の誘拐とするのであれば、同じような容体で、より「相応しい」人間が複数人いることもわかっていた。
何が起きた。一ネーレの間に、彼女に、何が。
時をさかのぼるための高等魔術も現在進行形で使用され追跡が行われているが、なぜかフェイオスは、徒労に終わってしまう気がしてならなかった。
「……まだなの、まだなにもわからないの?」
「どうしてよ。かんじゃが、ひとりいなくなったのよ!」
人の声と気配にあふれる中でも、一際通って聞こえる子供特有の高い声。
はっと顔を上げた先には、ああ誰が伝えてしまったのか。優秀だがまだまだ幼いこども二人の姿が、世話役たちにかこまれ共にあった。
第五王女キールクリア、第六王女リールライラ。
王女二人を無下にすることもできず、かといって「何も得られない」ままここを去るわけにも、手を止めるわけにもいかない。術者は水面下に不快を押し込めて魔術を続け、補佐に回る文官たちは、少しでも彼女たちを術者から離そうとあれこれ話しかけようとする。
思わずフェイオスはため息を吐いた。またひとつ頭痛の種が増えた気分で、周囲の耳目を無駄に集めてはばからない、彼にとっては姪に当たる少女たちのもとへ歩みを進める。
名前を呼んだ。
「キールクリア、リールライラ」
さして大きくもない彼の声に、びくりと綺麗に揃ってふたりは肩を震わせた。恐る恐るこちらを振り返る所作も綺麗に対称になっていて、ただその光景だけを見れば、年相応とも思えるだろう。
だがここは、異常の事件の起きた現場であり、現在も調査の続いている場である。
フェイオスの視線をどう捉えたか、ふたりは必死に声を張り上げた。
「どうして来ちゃダメなの! かんじゃがひとり、いなくなったのでしょ!?」
「そうよおじさま! そんなときに、うごかない癒すものがあっていいはずがないわ!」
理想を口にする。実際にそう考えて今ここにいる人物も多いであろうことをふたりが言う。
だが同時に、幼いかん高さを持った声はどこまでも場違いに室内に響き渡った。いまさらのように、患者がもうこの場にいないことを幸いに思った。療養の場に響かせるには、ふたりの声はあまりにも、不適当な高さと通りを持っている。
もうひとつ、魔術を使い続ける文官の眉間に淡くしわが寄った。
追跡や遡時の魔術を特に得手とし、国どころか大陸でも指折りと称される使い手であるが、同時に気難しい、扱いづらいところのある女性である。あかがね色をした長い髪のうねりが、強くなる。
静かにするりと割って入ったのはアルセラだ。
「そうだね、あんたたちの言う通りだよ。こんなときに動かない、治癒者が治癒者をまともに名乗ろうなんてお笑い種さ」
「アルセラおばさま、だったらっ、」
「でもねキールクリア、リールライラ。あんたたち、ここがどこで今は何が一番大切か、ちゃんとわかってるかい。あんたたちの後ろにいるのは、実際にそのときに何が起きたのかを調べる専門の文官たちだ。あたしたちとは比べ物にならないくらいに、そういう修羅場を潜ってきてる人間ばかりってことさ。ふたりとも、特に周囲の時を意識のうちで遡らせるような高等魔術は、相応の時間も、魔力消費も、集中力も必要とされるのは知ってるね」
「それは、っ、でも、でも」
「あたしたちの専門は、癒すこと。仔細を調べる専門は、この人たちだ。癒している途中で横から声に入られて、あんたたちは気が散らないのかい? 少しでも魔力の紡ぎが揺らぐことは、ないのかい?」
「……っ」
静かに諭す彼女の言葉に、二人は唇を固く結んでうつむく。もともと賢く素直なこどもたちだ、理解は得られるはずである。
気の早すぎる周囲の誰にそそのかされたのだろう。誰も、その暴走めいたあゆみを止めなかったのだろう。
昔からのふたりの傅役であるエリザの不在が、いまさらながらに重い。病に倒れた、誰も戻らない。戻らない、変わらないどころか、どう、何を通り抜けてか、ひとりはきょうこの場所から消えうせた。
治せない、癒せないどころか、何の有効の手段も打つことができないままに唐突に患者が消えた。
二人が不安になるのも無理はない。それはフェイオスにもわかっている。だからこそ、周囲の不甲斐無さも憂う。なぜ伝えた。なぜ「ただ」通した。何を考えている。何も考えていないのか。
彼女らのエリザは、四番目の発症者。
今回消えた患者は、三番目の発症者なのだ。
「キールクリア。リールライラ」
もう一度、幼子たちの名をフェイオスは呼ぶ。
ああ、一番目と二番目の患者の周囲にも話をしなければならないだろう、自邸へ連れて帰ると言い出すものもあるかもしれない。やるべきこと、向かうべきものは山積し、対照的に、わかることは悲しいほどに少ない。
何が起きているのだ。
ヨルドが静かに笑って、フェイオスの続きのような声をかける。
「ふたりとも、もうそろそろ部屋に戻らなきゃならん時間だろう。心配するな、わかったことがあれば、その都度、トーマやシュティラを通じて、おまえたちにもちゃあんと知らせる」
「ほんとうね?」
「出るべき場所と、頃合いを間違えない限りはな」
冗談めいた口調で言うヨルドだが、それは「今現在」の彼女たちには案外難しいことかもしれない。
この子たちが彼と会ったとき、何が起きるのだろう。そもそも彼を、何とこの子たちは聞いているのだろう。
今ここで問うべき内容ではないが、それは明白な不穏の気配を帯びていた。今この時点で周囲を含めて方法を間違えていることを思えば、既に薄っすら、歓迎できない光景は思い描いてしまうことができた。
暗鬱になるフェイオスに、小さな声がする。
「……まちがえてるって、いうなら」
「うん?」
「なんでもないっ。わかった、今はキキたち、かえるわ」
聞き出す前に、小さな背たちは踵を返す。周囲はただ付き従うだけで、止めることはない。
またひとつの混迷が落とされる日、朝はその暗雲が嘘のようにほとんど雲もない晴天だった。




