P3-16 音の戻りと翌のはじまり 2
「……で?」
カゴに山積みされたパンに、無造作に手を伸ばしかぶりつきながらヘイは半眼で目の前の男に言葉を強いた。
二本の棒で器用に食事を進めるリョウは、スープにしてはずいぶん薄味なうえに具も大して入っていないものを飲み干して、息を吐いた。
「何から話せばいいんだ?」
「何からも何も最初ッからだ。いつ気づいた。どこまで確認した。……どんだけヤベぇコトなのか、どんだけ理解したつもりになってやがる」
横柄に足組みをしてリョウを見やる。どうせなにもかけらも分かっちゃいないだろう、しかも言い訳がヘタすぎて確実にあの焔使いすら騙せちゃいないだろう。今のこの男の唯一無二を示すように、またひとつ拾い上げて口に放り込んだパンはふっくら上等で、バターの程よく効いた、それだけでもずいぶん腹が膨れそうな一品だ。
しかし今膨らませるべきは腹ではなく話の内容だった。ジイと見据えていると、白米の入った丸い深底の皿を持ちながら、海苔と魚をその上に乗っけたリョウが口を開く。
「最初は、ちょっと紙で指切ったときに、痛いから治しとくか、って思っただけだったんだ」
ぽつりぽつり、落とすようにリョウは語りだした。
特に何もない普通の日だった。局長サマになったリョウは日々書類に忙殺されており、それら書類に気を抜いたところで指をやられることも一度や二度ではなかったらしい。
それはいい。特にどこの誰でもやりそうな事柄でしかない。
肝心なのはその後だった。
「でも、いつもほかの人たちにやるみたいな手順でちゃんとやっても、おまえがくれた、どの魔具を使っても俺は治らなかった。傷は痛いままで、ぜんぜん、深さもなにも、術の前後で変わらなかった。何回か試して、時間とか、場所とか、日を変えてもみて、で、ああ俺には治癒魔術は効かないんだな、って、そこで知った」
「ああ効かないんだな、じゃねェだろ。何全速力でトチ狂ってやがンだ馬鹿野郎が。……【其の通ずるモノの道筋を奪え】」
「え」
あきれ返りながら、ぐるりとリョウへ向かって、ひとつ詠唱とともにヘイは手のひらを突き出した。
唐突な彼の行為に驚いたようにリョウは黒色の目を瞠り、術式紋は薄藍に浮かび上がり、ただそれだけだった。狙った右手が棒二本を落とすことはなく、逆の腕が手にした皿を落とすこともなく、これら以外のリョウのどの部位も、当たり前のように異常に、リョウ自身の指令でのみ動いている。
さらにヘイは呆れた。笑うしかなかった。
「ッは、予想通りかよ。要するにアレか、テメエは、テメエに干渉してくるありとあらゆる類の魔術がこれッぽっちも効かねェってことか。いッよいよ化け物じみてきやがったなオイ?」
「え、いや、っていうかおいヘイ、俺今ものすごく不吉な言葉聞いたんだけど」
「は? 当然だろォが、テメエが欲しがったマヒの魔具の原型魔術だよ、コイツァ」
「……ああそう」
肩を落として苦笑したリョウが、もそりと白米と海苔を口に入れる。まったく「部下」が「上司」に悪意を向けようとしたというのに、緊張感もなにもあったものではない。そもそも笑いどころじゃない。
腸詰をまとめてつまみあげながら、その旨さの異常を舌で感じながらヘイは彼を見る。
続くセリフは、あまりに簡単に予想できてしまえた。
「誰にも言うなよ。特にリーさんには。……本当はカリアにも、おまえにも知られたくなかったんだ」
「はッ。テメエにゃ百年早ェよ。つーかウソつくんならつくで、もうチョイマトモでそれらしいウソつけや、リョウ」
なるほど「知られたくなかった」? 確実に「知らせる気がなかった」の間違いだ。
肩を落とすリョウの言葉を笑い飛ばす。本当にバカバカしいほどただひたすらリョウだと、ヘイは思う。どうせ言ったところで無駄に心配かけるだけだとかなんだとか、他の奴のことばっかり考えて黙っていようとしたんだろう。特に名を挙げたヘイ以外のふたりは、まあ事実を知ればメチャクチャに過保護になりそうだ。というか、リーなんぞ喜々として常々リョウの「危機」に自分の命を捨てにかかりそうだ。あの大貴族サマに関しては、……それこそリョウ専属の護衛に回りかねない勢いかもしれない。
しかし本来、「そんなこと」は二の次の些事である。
クリームたっぷりのケーキやらプリンやムースやゼリーやらがきらきらしく並ぶデザートのバスケットに手を伸ばしながら、やはり異常な旨さであることに若干辟易しながら、ご丁寧にヘイは一番大事なことを指摘してやることにした。
「もう少し危機感っつーモン持て、リョウ。これはな、テメエが誰でも簡単に殺せるって話だ。それ以外の何だッてんだ、治癒魔術が一切効かないくせに特に強くもねェ、切られりゃ撃たれりゃ殴られりゃ普通にズタボロんなるなんてよォ。テメエの患者が、テメエの目の前で倒れてるやつが暗殺者だったらどうする。誰も知らねェような毒が、どこかに仕込まれてたらどうなる。言わせねェで、伝えねェで、どうテメエの周りのやつらにテメエを守らせる気だよ」
「……俺なんて殺してどうするんだよ」
「聞くべきところはそこじゃねェだろうがバーカバーカ」
「だって、俺はちゃんと医療者でありたいだけだ」
「ンなお花畑な理屈が誰にでも通るかよ。実際サッパリ通ンねェであの騎士ボーヤは死にかけたんだろうが。テメエも人殺しンなるトコだったろうが。もう忘れたのか、アァ?」
「……」
続ける言葉を失ったリョウは、ぐっと唇を噛んで胸元を握りしめ、俯いた。
こいつのある意味一番の不幸は、元々の頭が半端に良いところだとヘイは思う。胸焼けするほどの甘チャンでお人好しで自分より他人が苦しんでいるのが嫌いで、だからこそ、変に気をまわそうとするしとんでもないものを見落とすし、指摘してやればある程度は理解してしまう。
今その手のひらの下にあるものは、翼と蕾と剣、この黒率いるカーゼットの紋章が描かれた逸品だ。あの大貴族サマが、ド偉く不器用な暴走の果てに「あかし」としてリョウへ与えたもの。
ヘイは目の前の男を睥睨した。
「確かにそいつは、下手な魔術師・騎士サマごときじゃあ歯も立たねェぐれェの強力なお守りだろうよ。でもなァ、生憎この世の中、テメエみたいのを殺す方法なんざ、残念ながらゴマンとあんだ」
「……っ」
「楽天的なのもいい加減にしとけ、リョウ。テメエはもう一般人じゃねェ、ヴァルマス【劒】なんて大層なモン貰い受けちまった、エクストリーどころか大陸中ガン見したって、そうそう居ねェレベルの異常者なんだからよ」
リョウはなにも言わない。ただ、うつむいたままじっとヘイの言葉を聞いている。
よく知らない丸い白い菓子をぽいと口に放り込んだところで、予想外にぎっしり詰まっていた甘いペーストの味に喉が焼けそうになった。
まるでリョウの甘チャンだった。突き通すみたいな甘さ。流すためにあおった水がやたら爽やかなのも、全部含めて笑うしかないぐらいだった。
だからヘイは続けてやる。
「そのお利口なオツムに詰まった何やらかんやらは、喉から手ェ出すほど欲しがる奴らも居りゃア、ウザったくて目障りで邪魔で仕方ねェっつって、それこそメッシェデルータ【砕国】級以上に躍起ンなって潰そうとするヤツも居ンだよ。他人事に一生懸命になんのはいいが、自覚くれェは多少はしとけ。死ぬなら死ぬで、そうテメエで決めてから死ね。今のまンま居なくなられちゃ、さすがの俺も寝覚めが悪ィ」
メッシェデルータ【砕国】級なんて、直近百年でも指折り数える程度しか確認されていない、一度出現させてしまえば数十年、下手をすれば百年単位で復興にはかかるレベルの大災害になる魔物だ。そんなものと同類にあえてこの男を例えたのは、それほどにリョウがどこまでも、なにとも異なって在ろうとする姿勢を変えないからだった。
ああだがしかし、結局最後に返ってくるんだろう言葉も、もうヘイは知ってしまっている。
そもそもヘイが、いちいちこんなただの忠告をしてやってしまっている時点で、本当にこいつはどこからどこまでもどうにかしている。
予想通り、最後には馬鹿は笑った。
「ありがとな、ヘイ」
「頭沸いてやがンのかテメエ」
「心配してくれてんだろ?」
「どこまでテメエの脳ミソはお気楽にありがたァくできてんだ」
「じゃ、そのお気楽にありがたい話、とりあえずまた聞いてくれ。あのな――」
さあどんな無茶振りが始まるか、と。
気配に身構えたヘイは、しかし次の瞬間盛大に肩透かしを食らった。ノックする暇も惜しいとでも言いたげな猛烈な勢いで、とんでもない騒音とともにドアが開かれる。
ふたりが振り向く先には、誰もいない。ただ、扉すらへし開けて、まっすぐにリョウへと向かって飛んできたものがあった。
リョウが手を差し出すか差し出さないかの頃合いで、声が響く。
『――緊急事態だ、リョウ。しばらくはおまえを動かせなくなった、その場で待機してくれ』
「……おっさん?」
この場にただ一人しかいないことのみ想定した「言伝」の術式。室内の空気を震わせる声は、明らかに朝に似合わぬくらさに満ちていた。
怪訝に眉をひそめ、リョウは相手を呼んだ。届くわけはないのだが、そんなことを伝えてやっても何一つ意味がない。
緊急事態。ああまた緊急事態。
続く言葉を待つリョウを睥睨しながら、コイツの死因は確実にコレだろう、とヘイは思う。言ったそばから何も欠片も変わらずに他人ばっかり心配する。刺されたらどうする、ウソだったらどうする。考えようとする気もないのだこの底抜けの性善説者は。
今日もまた嵐になりそうだった。
どうせ予感は外れることもない。
『詳しいことは後で伝える。……患者が、ヴォーネッタ・ベルパス病の患者がひとり、病室からいなくなった』
誰かの涙が落ちる。今日もひとつふたつ、ただひとつの目的と銘打たれたもののために。
希望、未来と名付けるものは、まだ、どこにも欠片もどうしても芽吹かない。




