P3-15 音の戻りと翌のはじまり 1
神霊術が通らなかった。
多数の軽いひっかき傷の、ただひとつも治すことができなかった。
そんな馬鹿なと一笑に付すべき、ありえないと言い切ってしまわれるべき事柄だった。しかし現実に彼は治らなかった。治せなかった。例外を身に着けているだけで、外しきれないだけで、特にそれ以外には何もないと笑った。
うそだ、と思った。
言ってくれる気はないのだ、とも思った。
「……リョウ、」
カリアは己の手を見下ろす。魔術が、カリアの神霊術が彼には通らなかった。悪意、害意などあるはずがなかった。彼を傷つける理由など、ひとつもどこにもカリアにはなかった。
けれど、魔術は効かなかった。確かに術式紋はひらいた、それなのに、かけらも術は効果をなさなかった。驚き愕然とするカリアに、一方のリョウは魔具のせいだと言って、ひどく不器用に笑って見せた。
もしもたとえば本当に、そんな魔具がこの世にあったとして。
不良品以外の何でもないではないか。負傷の際に、咄嗟の癒しを施すことも許さないような「防護」など。
「――――朝早くから、ずいぶんな混沌の色彩だね」
晴れた朝には似合いだろう、ふわりと降り注ぐ声がした。
驚きはなかった。少し前から、観察されていることにカリアは気づいていた。さらに重くなる気分をこらえて、頭を下げる。
「おはようございます。……長らくご無沙汰しております。ルセトセレット殿下」
「ルセトでいいのに。相変わらずきみは堅いな、カリア」
慇懃に返した言葉に、ゆるりとまた彼――ルセトセレット・エルベ・レニティアスは笑った。光の反射、角度の具合、ただそれだけでは到底説明のつかない七色の光が「彼」の瞳のうちにきらめく。
後方には幾人もの付き人が控えるこの青年は、レニティアスの名が示す通りれっきとした王族だ。前レニティアス国王の第七子で、そう高くはないものの、王位継承権も持っている。
同時にレニティアス王族に時折出現する「透世の瞳」の持ち主であり、「色が面白いから」という理由で、いまのように折に触れ、やたらとカリアに接触をはかろうとしてくる人物でもあった。
なにが面白いのだろうか、本当に毎回。
何を考えているのかわからない、ただ美しいと形容するには色が多すぎる彼の瞳が、カリアは苦手だった。
彼はやけに楽しそうに言う。
「やっぱり自分の目で見なければだめだね。驚いた、いつの間にそんなにも光をましたんだい、エクストリーの焔姫」
「……ルセトセレット殿下」
「ルセト。いい加減折れてくれたっていいと思うんだけれど、そういう頑固なところは本当に君は昔から変わらないねえ。でも、間近に見るとよりよく分かる。面白いくらいに、ほんとうに、ちがう」
「……殿下、このような場所に早朝から、」
「万が一なにかあったとしても、君が守ってくれるだろう? なにも問題はないよ。僕には、君のほうが優先だ」
「お戯れを」
まるで告白のような言葉。彼のほうこそ本当に相変わらずだ。いつも、ふわふわと現実と「彼だけの真実」に半分浮いているようで、何が言いたいのか、いつだってカリアは理解できない。
そもそも何を違えたつもりもない自分の、何が以前と違っているというのか。
あらゆる事象を見通すという「透世の瞳」を見返す。見つめていると不安になる、ありとあらゆる色彩の予測不可能な揺らぎがそこにある。
彼にとっては、カリアは今日も変わらずに「面白い研究対象」であるようだ――その異能ゆえに特になぜかカリアを面白がる彼は、昔からずっと、ほんとうになぜか「興味」を随分と長くカリアへ持つ。持ち続けている。
既に結婚し、妻子のある身だというのに。
何が面白いのだろう。戦うしか、焼き尽くすしか能のない女だというのに。
ひとつ癒しを徹すことも、できない程度の女なのに。
「とても興味があるな。君が、僕たちのこの国で何をするのか。どんな光を見せてくれるのか」
「いえ、私は」
「ただの護衛? それならそんなに、びっくりするくらいきれいになってみんなを騒がせる必要なんてないだろう? 刹那の未来の命じゃなく、もっと遠い先の自分以外の力を研ぎ澄ます意味もない。そもそも、君がここに来る理由がない」
ぞわりとそのとき立った鳥肌が、相手に伝わっていないことを無駄に願った。
カリアの記憶に違わず、今日も彼はおそろしい人だった。唐突に言葉を、相手を見据える瞳を刃として抉り込んでくる彼が、ひどくこわい。
確かに人の上に立つべくして、生まれ育まれてきた御仁なのだと知らされる瞬間であるとも思う。波のように淡く全身に逆立った不快感に気づかないふりをして、きっと何をカリアが言ったところで変わらないだろう言葉の続きを待った。
私が変わった? 何が変わった? 何かできるようになったか? いいや。
悔しいくらいに、ただ、不器用なだけだ。可愛くもない、手だって足だって傷だらけで、そもそも傷を満足に治す暇が力が惜しい。惜しかった。――少しこれは後悔すべきかもしれない、だって、彼を治せなかった、その理由の真実の、共有は許されなかった。
静かに彼は続けた。
「僕たちの国を、今うす覆って侵食を始めている靄は死と虚無のらせん色だ。僕は見えるけれど、ただそれだけだから掃いの風にはなれない、潰し眩ませる炎もこの手にはない。むしろ、半端に見えてしまうから、僕はきっと君たちよりいっそう臆病で、状況に決して何もしない人間でしかありえないだろうね」
まるでうたうように、こわい瞳がわらう。
その目に映すものを死と虚無と形容して、それでも、国を守るべき立場にありながら彼はただわらう。
動かないと断言する「臆病」の対比。ああ、続く言葉は簡単にカリアにも予想がついた。つい今しがた別れたばかりの相手、朝の起きがけから、小さな猫を癒したと、引っかかれたと笑っていた彼。傷を癒させてもらえなかった青年。世に知られてはならないことが、きっとまたひとつ、増えているんだろう、カリアの大切な――。
思考の正しさを示すように、さらに彼は笑って小首をかしげ、
「彼は、なんなの?」
黒を指して、ひとこと言った。
簡潔で、同時にひどく難しい問いかけだった。
視線を感じた。それ以上の、あちこちで耳を澄ます気配を感じた。種類は昨夜、彼の「異者」を告げたあのときとよく似ている。ああそうだろう、あの王がこれまでの意思を曲げて己の手にしたヴァルマス【劒】だ。しかも経歴を探れば探ろうとするほど、眉唾物の意味不明な事柄しか、彼からは出てこない。
問われる。リョウ・ミナセとは何か。それはカリアという個人にとって? エクストリーという国にとって? このレニティアスという他国にとって? それとも――もはや或いは、この世界、そのものにとって。
形容する言葉は、一瞬でふわりと様々にカリアのうちには浮かんだ。あまりに、乱雑に方向が散らかっていた。
やさしい異質の黒。のんきな顔で鍋を振るって、いつも妙に緊張感のない顔で、けれど、ただひとつ癒すことに関してだけは怖いほど真剣で、黒色の瞳が魅入られそうなくらいに深く強く煌めく。いさかいは嫌いで、たぶん面倒がってもいて、自己主張の強い性質ではなくて、なのに「そこ」に関してだけは絶対に退かない。
一切の魔術のない場所で、人を癒すための学問を修めていたという青年。
ここでない世界から、何の故か今カリアたちの前に、ここにいる一人の男のひと。癒やせなかったひと。自分は人を癒やすのに、それなのに彼自身は。
考える。考えてみる。
けれど。
「……わかりません」
「え?」
小さく笑う。笑うしかなかった。結局それがカリアにとっての、彼に対する、正直なところであった。
わからない。どうして癒せなかったのか。どうして、誰もが頭を抱える難題の中で前を向いて「新しいもの」「誰も知らないもの」へ向かって進んでいくことができるのか。どうしてここにいるのか、どうして彼なのか、どうして。
なにひとつカリアは答えを持たない。けれど、わかるリョウなんて、リョウじゃない。
わかってしまえるなら、きっと彼は表舞台に出てこなかった。違わなければ何も、始まりすらしなかった。同じ目線が、同じ思考の道筋が彼以外の誰かが持てるなら、きっと彼は、自分から動こうとなんてしなかった。
それこそがきっと、ある意味でのだれもの幸福で、平穏で、無動だった。
カーゼット、夜明けをいざなう深い黎明、黒色はどこにも、今にも過去にも未来にもあらわれはしなかった。
「アノイロクス陛下が、彼へと下されたその名の通りなのだと思います。彼は、異者で、癒士で、……その刃で、傷ではなく癒しのみを与えようとするような、痛みと苦しみとをなにより嫌う、一方向にだけこわいくらいに澄んだ、劔です」
口にして、ああ、そうか、と。自分のひとつの感情に、そのときカリアは納得した。
私は怖いんだ。もし本当に彼に一切の癒しが効果をなさなかったところで、傷一つつけないくらいに完璧に守り通して見せればいいだけの話なのに。それをこれまで一度もできていないから、まだ自分が弱いから、いつだって気づけば後手に回らされてしまう、その力不足が腹立たしくて、嫌でたまらなくて、けれど足掻いても自分はただ自分のままで、だから怖い。
大丈夫だとカリアへ言った声が、ぎこちなくて、ただ、どこまでも優しいのが怖い。
それが、どこか、カリアの与り知れないところで突然消えてしまう可能性を考えるのが怖い。
おそろしいのだ、嫌なのだ。
我儘のような、幼い感情の渦は、けれど消し去ることはせずに手にして、前に進まなければ意味をなさないのだろう。
「ふぅん?」
カリアの言葉に、過不足は特にないはずなのに、なぜか目前の王子殿下は少し不満げだった。
進まなければ、守らせてもらえるようにならなければ。
彼がこれから暴いていくこの世の理の、新たに切り開いていく理論の半分もきっとカリアは理解できないのだろうけれど、それでも。
「これでは足りませんか?」
「過不足の問題ではないかな」
肩をすくめて、なぜか改めてじっとルセトセレットはカリアを見た。
今度は、怖いというよりも若干居心地の悪さを感じた。なぜかどこか知らせ諭そうとするかのような調子で、彼は言う。
「だって君はいままでは、君自身が君へ強いた道の上にずっとひとり立って、立ち続けて決して何にも動かなかったじゃないか」
「……申し訳ございません。おっしゃる意味がよく、」
「わからない? それはないな。だって、君の一番深い部分にゆらぎが見えるよ。単純で、簡単で、ひどく解くのには骨が折れそうな、でも、絶対に自分で結っていくしかない類の、うつくしい色彩の断片たちだ」
「殿下」
「おもしろいねえ、ひとは。感情ってものは。見なかったのは、ただほんの少しだけだったはずなのに」
ゆるりと、またひとつふたつ理解しがたい言葉を重ね彼は笑った。揺れている。揺らぎが生じている。色が変わっている。変化している、……私が?
それ以上はなにも言うつもりはないのだろう、ことばに混乱するカリアの様子に今度は満足したようで、彼は笑み、どこからともなく取り出した小さな菓子をひとつ、ぽいと己の口に放り込んで噛み砕いた。
がり、かたちをなくす音を聞きながら嘆息をこらえて思う。同じようにわからないのに、どうしてこの方のお言葉はただ「わからない」んだろう。
今問うてみればきっと、大多数の人々は、そもそもこのお方と同じ目線に立てる人間がほぼこの世界にはいないのだから当然と返すだろう。ある人は、そもそもルセトセレットという人が、その「目」を透した言葉遊びを好む方なのだから尚更とも言うだろう。決して、完全に違えたことは口にしない方だとも述べるだろう。
彼だってそうなのに。
……思って、けれど結論は割合、すぐに出た。
「はじまるかなあ。そろそろ」
伝える気がないのだ。この方は。
ああ、あまりにもこの「特別の眼」を持つ殿下の、一方的にこちらを観察してわらうだけの彼の、いつも通りのカリアへの態度なのだった。
だから、――だからきっと、余計に今、みょうに、彼のことを思うのだと、考えてしまうのだと、呼吸するように、




