P13 観察と考察と苦悩1
動きづらい。
それが生まれて初めて修道服というものに袖を通した椋の、素直な感想であった。
ずるずるだらりと袖も裾も長く、裾に至っては多少床に引きずる形になっている。ゆったり大きめのフードを被っていれば髪も眼も隠せるのは良いが、しかしこの修道服は正直、衛生的にどうなのだろうと思う椋である。
裾の長すぎるズボンで埃をずるずる引きずって歩くような医者など、言語道断であること間違いないと思うのだが。…少なくとも椋の世界でなら普通。
「ん? どうしたんだいリョウ、疲れたのかい?」
しかしそんな椋の思案顔を、目の前の彼女は別の意味で解釈したらしい。蜂蜜色の髪をふわりとなびかせ椋を振り返った、年齢不審の美女アルセラは小首をかしげながら笑った。
彼女の昼の休憩のため、今は一時的にアルセラによる患者の診察はストップしている。違いますよと首を振れば、そうかい? 一切の疲れを感じさせない、今朝がた見たものとまったく変わらない微笑を向けられた。ついでにその動作により、しごく豊かな彼女の胸元がひょいっと揺れた。
基本的にゆったりした、ゆったりしすぎで明らかに動きづらい修道服をもってしても分かるそれとは一体、いかに。
「い、いや、ほら。アルセラさんには、それ、どうかなと」
明らかに己の動揺がまる分かりの調子でしか返せなかった。あからさまに彼女からそらした視線や唐突なフリからも、椋の現状は推して知るべしだ。
くくっと、そんな彼の反応に楽しげに、明らかにその動揺の内容も分かっていてアルセラは笑った。
椋のそらした視線の先にあるボックスへと、そして彼女は手を伸ばす。
「あのヨルドが昼泥棒になったって話も納得する味だよこれは、リョウ。なんというか、どれもこれも食べたことのない味ばかりだ」
「それならよかった。…あとアルセラさん、俺で遊ぶの、いい加減勘弁して下さい」
「ん? 何の話だい?」
椋の言葉がなにを示しているかなど分かり切っているだろうに、どこか小悪魔めいた笑みを崩さずにボックス内のそれを口にするアルセラである。何をどう気に入ったのか知らないが、夫妻そろって椋をいじるのが非常に楽しいようだ。
ボックスの中に入っている、今またひとつが彼女の胃袋へと消えたのは、昨日に続いての椋の手作りサンドイッチである。
あの後ヨルドがいかに椋を発見し接触を図ったかという一連の話を聞いたアルセラが、ヨルドだけはずるい、明日のあんたはあたしが引き受けるからあたしにもそれを作ってくれと非常に押し強く迫ってきた故のお弁当だった。ちなみに二日連続してサンドイッチを食べるつもりはない椋の弁当は、今日はハクチ鮭とメト鶏そぼろのおにぎりである。
ヘイ作亜空間バッグから取り出したおにぎりをかじりつつ、できるだけそういう場所へは視線をやらないようにしながら椋は口を開いた。
「それにしてもすごいんですね、アルセラさんて」
「ん? そりゃあね、これでも準神使のひとりだからね」
「いや、立場とか位とか、そういう意味ではなくて」
さらりと受け流す彼女に、椋も笑って首を振る。教会に他にも祈道士はいるというのに、なぜここまで、と椋が思わずにはいられないくらいに患者たちは、彼女の施術を待って長蛇の列を作っていたのだ。
確かにアルセラが非常に重厚に肉感的で、艶やかな色気ある美人であることは椋も分かる。その事実に否やはない。まったく。
しかし彼女は人妻であり、しかもこの外見で既に四人の子どもがいるらしいのだ。…一番上の子どもの年が二十六だと聞いた時には、さすがに椋も我が目我が耳を疑った。一体何歳で子どもを産んだというのか、この人。
しかし、ただ「それだけ」が理由でないことは、今日の午前中アルセラのうしろで彼女の診療を見学していれば椋にも分かった。
なぜなら彼女を訪れる患者の、老若男女の割合がかなり均等なのだ。ともすれば男どもがアルセラへ向ける視線には同属として些細な悲しさを感じずにはいられないが、しかし椋の予想していたよりずっと、彼女は純粋に人々に、優れた癒し手として認識され慕われていた。
さらにその純粋な信頼の深さは、患者たちから向けられるもののみに留まらない。アルセラについて軽く訊ねたときの、祈道士見習いだという少年少女たちの深い尊敬、畏敬のまなざしはしばらく忘れられないような気が椋にはした。
彼ら曰く、ヘイル準神使の神霊術はすごいんです、どんな患者さんでも絶対に治されるんです、と。
それが事実であることを、まったく何の疑いもないきらきらした瞳で誰からも言い切られたのだ。椋は。
「しかし術式紋の見本が欲しいなんて、初めて言われたよ」
「え。そうなんですか?」
つらつらと考えていると、不意にそんな言葉を投げられ一度二度、と椋は瞬きをした。少しでも何か「みほん」として手元に、彼女の実際の施術と比較できるものが欲しかったので頼んだだけだったのだが。
術式紋とは、魔術が成立、発動した証として、術式の完成と同時に虚空に浮かび上がる紋様のことである。一般的なファンタジーにおける、魔法陣のようなものだ。
違う術者が同じ魔術を使用する場合、より術式紋がシンプルで無駄がなく、かつ紋様それ自体が美しければ美しいほど術者の技能は高い、ということになるらしい。そして見習いの少年少女たちいわく、アルセラの術式紋は非常に洗練された、本当にきれいな無駄のない紋様なのだそうだ。
うっとりした瞳で彼らがアルセラの施術および、その施術に従って浮かび上がる術式紋を眺めていたことも椋は知っている。
それはさすがにここまでいくと、鬱陶しくはないのかとつい椋は思ってしまうほどの熱だったのだが、向けられるとうの本人であるアルセラはといえば「少しでもあの子たちがあたしから何か学び取るなら、それでいいさ」らしい。大人である。
首をかしげてアルセラへ、椋はまた言葉を返した。
「知り合いには、魔術を見るのに術式紋以上に最適なもんはないぞ、絶対きっちりお勉強させてもらえよ、って言われたんですけど」
「そうなのかい?」
「はい。…あの、術式紋ってそんなに皆さん気にしないものなんですか?」
「気にしないもの、というかねえ…」
なぜかそこでアルセラは言い淀んだ。椋への説明のための言葉を、選んでいるのだろう沈黙が場に落ちる。
そんな彼女の反応で、己が居候先の家主の思考もまた、この世界のスタンダードからは外れているらしいことに椋は気づくももう遅い。ついでに言えば、ただ手持無沙汰で彼女の施術を眺めているより、みほんの術式紋を持っていたほうが絶対に時間は有意義に使用できたため、一概にあのガラ悪チンピラ風のオレンジ髪男を批判する気にも、椋はなれなかった。
更に言うなら実は椋は、ヘイに家を出る前「絶対だ。ぜぇったいにあいつらの術式紋、ばっちり盗んで来ンだぞわかったかリョウ!」などという色々ダメすぎることを昨夜に続いてまた言われていた。
おそらく今日の椋の発見を、アルセラにもらった術式紋見本といっしょに持って帰れば。
絶対に彼は眼の色を変え、自分のそれまで手掛けていた何もかもを吹っ飛ばしてでも椋へと詰め寄ってくることだろう…。
「術式紋ってのは、魔術の結果を示すものだからね。類似の紋様を描き出すための術式の構築法ならともかく、術式紋それ自体に興味があるなんていうのは、少なくともこの国じゃあ、あれだ、魔具師くらいのもんなんじゃないかと思うよ」
「そう、なんですか?」
「何しろ魔術っていうのはね、術者の意思や魔力のかたちに、その形状が多少なりとも左右されるものなんだ。術式それ自体が複雑で大規模な魔術になると、さっきの自分がやったこととまったく同じことをする、っていうのはまず、無理だろうね。あたしじゃ少なくとも無理だ」
「………」
「そもそも限りなく同じような効果さえ発揮できるなら、絶対に過去と現在の魔術が「まったく同じ」でなきゃならない意味もないだろう?」
「…あー…」
椋の内心はいざ知らず、彼の分かりやすい言葉を選んで説明してくれたアルセラに、なんとも脱力した納得をしてしまう椋である。
要するにこの世界の魔術師の一般常識としては、「術式構築の結果」としてあるのが術式紋なのだ。その逆、術式紋からその魔術そのものを再現するという思考はこの世界の魔術の特殊性もあって、だろうか、普通はしないのだ。
しかし椋の知るオレンジ髪男、ヘイの職業である魔具師は、彼曰くこの術式紋を解析し、加工によって魔力の吸収・放出が可能になる特殊な鉱石、アンビュラック鉱を魔力の供給源とすることで、外部からの魔力供給なしに魔術を発動することができる道具、魔具を制作することのできる者達なのだという。
どうにもこの世界の人間は、魔具師ってヤツがいけ好かねえらしくてな。だからこそ俺みたいな天才はあえて、こんな狭ェ場所にいんのよ。
へっと笑ってそう言った、ヘイの言葉の意味合いを今更ながら椋は理解できたような気がした。
「それで? 誰も気にしないような術式紋に目をつけたあんたは、なんか面白い発見をしたのかい?」
まっすぐこちらを見据えてくる菫色の瞳は、研究と研鑽に燃える者のそれだ。
いや、面白いかどうかは分からないんですけど。ぽりぽりと頬をかきつつ正直なところを口にすれば、今のあんたはあたしの生徒なんだから、何だってきっぱり言ってみなよと笑って返された。まったくもってアルセラという人は、見た目も中身もすこぶる豪快なお人であるらしい。
準神使、などという高い位を戴く彼女ならばきっと、これくらいは普通に知っているのだろうけれど。
良く気づいたねとそう言って、軽く笑ってもらえることを期待しつつ椋は頷き、口を開いた。
「分かりました。…そうだな、アルセラさんの術を見てて、気づいたことなんですけど」
「何だい?」
「俺がもらったこの基本の術式紋って、大分してみっつの要素を組み合わせてあるんですね」
「え?」
何が言いたいのか分からない、というように。
きょとんと見開かれた菫色の瞳に、午前の診療時間に見てきた事実を数えてみた結果を椋はつらりと続ける。
「アルセラさんが扱う神霊術は、主にこの術式紋例に、上中下、いずれかの領域に何らかの術式の追加をしたものでしょう? 他の祈道士も、アルセラさんと同じようにしてるんですか?」
術式紋のみほんを指し示しつつ、言ってみなよと言われた通り椋は口にする。
アルセラの沈黙が、相手の言葉を待つ人間のそれとはやや違う気がすることに違和感を覚えつつも、更に思うがままの質問を彼は続けた。
「あと、そのあたりの加減とか、どの部分に術式を加えるのかってどうやって判断されてるんですか? そもそもこの三つって、どんな違いがあるんですかね」
「……」
「アルセラさん?」
あれ、とそのとき椋は思った。期待していた反応が、何一つとして返ってこない。
そもそも目の前の彼女の顔が、愕然としているようにしか見えないのは気のせいなのだろうか。椋の術式紋みほんをそして椋を凝視する彼女の視線が、痛みすら感じるほどに真剣なのはどうしてだろう。
もしかしてまたもさっきに続いて、この世界にとって珍妙極まりないことを俺は質問してしまったのだろうか。
彼女の反応の理由が分からずただひたすら待つしかない椋に、ようやく声がかけられたのはそれからたっぷり三十秒以上の沈黙が過ぎてからだった。
「……リョウ」
「は、」
呼ばれた声に応じようとして、底の裏まで射抜くようなアルセラの視線に声が凍りつく。
そんな彼へと苦笑して、ひどく大きなため息とともに、彼女は。
「――――――本当にあんた、タダ者じゃないね」
またしても自分が、妙なことを言ったらしいのに。
彼女の声と視線とで、ようやく椋は気づいたのだった。




