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未来は見果てぬ旅路の先  作者: 彩守るせろ
第三節 流転の開放/折翼の少女
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P3-11 つゆ吹き靡かぬ隔てなか



 夜、ようやくの逢瀬の時、彼女は常と何も変わらず、飾らぬ部屋のうちに居た。

 幾重にも重なった薄絹の向こうで、こちらに背を向ける影姿だけが蝋燭の明かりにほのかに見える。妙齢の女性の部屋とはにわかには思えぬ程度には暗く、なにもない部屋だった。

 ゆっくりと、その不変に静かに男、アノイロクス・フォセラアーヴァ・ドライツ・エクストリーは笑った。本当に変わらずこの姫君は、決してこちらを見ようとはしない。

 僥倖は、以前と比べれば許される距離がずいぶん縮まったこと、取次の人間なしに、直接言葉を交わせるようになったこと、こうして夜の、勝手に唐突の訪問にも応じてくれるようになったことか。己の忍耐強さに涙が出る思いである、もうひとつ、思いながらアノイは緩い笑みを重ねた。

 形式的な挨拶を一通り交し合った後は、場には沈黙が満ちた。

 もののない部屋で、かろうじて勧められた椅子は、質素な見栄えとは裏腹に、かけた瞬間に不思議なほどにしっくりと腰が落ち着いた。供された茶器は、いったいどこの誰がどのように作ったのか、深い群青と橙の二色が、ちょうどカップを二分するように見事に塗り分けられた品だった。ふわりと立ち上る香りは、彼女の好む、すうと吸い込む瞬間、風の通るような匂いがした。

 なにもかもが、アノイの知る通りの彼女らしかった。

 彼女には、一切の装飾が意味をなさない。彼女はその特殊性ゆえに、ただ飾っただけのものを強く拒絶する。

 故にここは本当に、王族の居室であることを誰も信じないほどに、最低限しかものが置かれていない。あることが許されない。

 少し首を回して周囲を見ると、ただひとつ、壁を飾ることを許された大きな天と地の絵画が目に入った。それは、アノイが三年ほど前に彼女へ贈ったものだ。彼女が厭わぬ絵を描ける人物を探すだけでも、随分と時間がかかってしまったことは笑い話である。

 目線を前へと戻したアノイは目を細め、彼女の影姿を見つめた。

 そこにいるのはひとりの姫。名をリクスフレイ・セルドラピオン・レニティアスという。

 すべての真実を見通す代償として、ひととしての「視覚」を生まれながらに持たぬ異能者である。


「……刻限を」

「うん?」


 きょうはもうこれ以上言葉はないかと、そんなことをアノイが思い始めたくらいの頃合いで、不意に薄絹の奥から空気が揺れた。

 高いところから落ちた雫が、静かに水面に作ってゆく波紋を彷彿とさせる透明な声だった。何にもゆがめられることなく、どこまでも、貫いてゆける音の連なりだった。

 向こう側からの声は、続いた。


「此度までと、させていただきたく存じます。アノイロクス陛下」

「ずいぶんまた、急な申し出だな」


 淡々と起伏少なく紡がれた言葉に、アノイは少し驚いた。

 彼女とアノイの間には、互いの存在を巡るひとつの賭けがあった。レニティアス王家の血に継がれるセルドラピオンの名、セルドラ【破魔】ラピオン【透世】の力をその身に宿す彼女をこの国から攫うため、アノイは、彼女からひとつ命題を出されていた。

 それは何も知らぬ他者からすれば、一体何を言っているのかと首をかしげられるような些事で。

 しかし同時に彼女を相手にしては、アノイという人間にとってはもはやその底すら知れぬほどに困難な問題だった。


「そちらから折れてくれる気になった……わけでは、ないんだろうな」

「世迷言を仰る前に、何か言うことはないのですか」

「そうだな。「だから」、俺はあなたが欲しい。セルドラピオン、リクスフレイ姫」


 冗談めいたアノイの言葉に、嘆息とともに薄絹の向こうで、さらりと衣擦れの音が聞こえた。

 彼女の姿を通さぬ絹は、ただ、影としてしかアノイの視界に彼女というものを形作らない。いかなる透視のための魔術も、セルドラピオンの名を存在に受けた彼女の前には、無効だ。

 一方の彼女はどこまでも静かに、アノイという「もの」を薄絹越しに見据え、言った。


「……本当にいつお会いしても、ひどい(いろ)ね、あなたは」

「その目隠しを通しても、だろう? あなたの父も、兄弟姉妹も、同じようなものだと思うんだがな」

「どんな条件でも構わぬと、最初に仰ったのはあなたのはずです。陛下」


 影が小さく、首を横に振ったのが見える。懐かしいかな、「ひどい彩」、それはアノイが初めて彼女に会ったとき、涙ながらに口にされた言葉であった。

 だからこそアノイは彼女、リクスを欲した。そのために多くのこともした。こうして夜に、ほぼ二人のみで互いの声が聞こえるような距離で会話をすることが許される程度には、なににも認められてもいる。

 リクスは、アノイの書面上の婚約者だった。彼がただ一人、己の正妃にと願う女性だった。

 乞い続けるアノイに、あるとき彼女は言った。

 「彼女に、彼をきれいだと言わせること」。

 それを成し遂げることができたのなら、私は名実ともにあなたの后となりましょう、と。


「あなたを驚かせることなら、ほぼ確実にできるんだがな。……何故、前回ではなく今回が最後なのか、それくらいは聞かせていただけないか」


 前回アノイがこの国を訪れたのは、姫の十九の誕生祝いのためだった。

 その折にも彼は命題を果たすことはできず、けれど彼女もまた終わりを告げなかった。言外に次へと持ち越された賭けは、いったい何のゆえあってか、今回で終わりにすると彼女は言う。

 哀れな策持たぬ求婚者は、苦笑の表情のまま影だけの王女へと問うた。

 もう何もかもが面倒になったか、或いは、こちら側の噂を、何か耳にしたのか――

 考えかけた彼の思考を、遮った彼女が告げたのはアノイの予想とは異なる言葉だった。


「あなたがお連れになったのは、ひどく、こわい虚無だから」

「姫?」


 語尾が、わずかに震えたのは、窓を開け放したままで風の押し入り続けるこの部屋のせいか、それとも。

 怪訝を伝えるよりほかないアノイに、やはりどこまでも起伏は少なくリクスは続けた。


「もしもそれが不可能ならば、わたくしの命は、もうさして長くはないようです。あなたがここにいらっしゃるとお決めになったことで、破片の夢はわたくしに、もう、零か一の双つしか示さなくなってしまいました」


 そして他人事のように、静かに揺れなどないようにおそろしいことを彼女は紡ぐ。

 思わずアノイは椅子から立ち上がった。ガタンと、乱雑な音とともに椅子が床へ倒れる。


「……それは俺が、あなたを殺すと? そういう意味だと解釈していいのか?」

「いいえ。あなたという(いろ)は、多くの澱み、闇を連ねてなお最後には光で在り続けています。昔も、今も」


 荒さを増した彼の声に、薄絹の向こうに居るリクスはただゆるゆると首を振ることで返した。

 セルドラピオン、つまりセルドラ【破魔】およびラピオン【透世】の瞳を持つ彼女は、明確な時節は不明な「破片」という形で未来を視る力がある。

 そのかけらが彼女に示すものは「可能性」であり、確定された事象ではないのだとアノイは聞いたことがあった。複数の破片をつなぎ合わせることで、より多くの可能性とより正確な時系列を、予測することも可能になっていくのだということも。

 しかし、今目の前のリクスは、まるで可能性はただ二つしか存在しないとでも言うかのようだ。そしてその二つの可能性の中で、アノイというものに捲かれ、彼女がこの世界から失われることがありうるとも。

 分からない。彼女がわからない。

何もかも不明のまま下がれるわけもなく、アノイは立ち上がったまま隔たりの奥へとまた問いを向けた。


「では、それは何の予言だセルドラピオンの姫。あいつも近々この場に連れてこようと思っていたんだが、あなたが恐れているのは、あれのことか?」


 「これが最後」。

 彼女にそう言わせるものはなにか。これまでとの差異はなにか。考えるまでもない。常とは、これまでとは異なって、彼がこの場へと連れてきたものなど、たったひとつしかない。

 黒の「異端」。異なりを齎すもの。朝を、未来を告げる闇の名をアノイが与えた、己の「劒」としたひとりの青年。

 あれがもたらした終わりもあると、あれのおかげで虚ろとなってしまったものたちも存在するとアノイは知っていた。

 しかし自分で口に出しておきながら、違和感しかない。あの能天気かつ、人を「救う」ことにだけ目の色を変え表情を変え、意識的にも無意識的にも猛烈な熱波を放ち周囲にまで伝播させる人物が彼女を害するとは、どうにも思えない。

 けれど、常と違うのは、やはりアノイの知る限りは「彼」だけなのであって。

 問いの先で、王女が発したのはひどく不思議そうな声だった。


「あれ……?」

「違う、のか?」


 少し幼くすら聞こえる声に、余計に、よく分からなくなった。しかし必要以上に自分以外の男のことなど彼女の前でアノイは自ら口にしたくはなく、結果的にはまた、場には沈黙が満ちることになる。

 ただ彼女のためだけに動けるならばアノイにはいくらでも待つ用意があるが、生憎エクストリー王国国王アノイロクス・フォセラアーヴァ・ドライツ・エクストリーが持つ時間は、あまりに限られている。

 仕方がない、そして、今回で本当に終わりというならば、もう少しだけでも攻め方を変えてゆく必要があるのか――

 思いつつひとつ嘆息し、去り際の挨拶を口にしようとしたアノイに、不意に向こう側からの問いかけがあった。


「どうして、」

「姫?」


 声の主を彼は呼んだ。なぜかまた数拍の空白があり、目線の先にある彼女の影は首を横に振った。

 いえ、と。揺らぎの消えた声が続けた。


「あなたが何か私の知らぬものをこの国に引き連れたというのなら、その何かを、私が見ること叶えばよいと思っただけです」

「そう、か。……では、俺はこれで」


 残念ながら今日今回もまた、アノイの望む言葉は彼女からは得られないようだ。

 到底一国の王とは思えぬ身軽さで場から去ってゆく男の背を見送って、やがて他に誰もいなくなった室内にひとつの声が落ちた。


「…………どうして、あなたは諦めて下さらないの」


 そのつぶやきは風にさらわれ、誰に届くこともない。



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