P3-10 揺れる波の紋 3
「神隠し?」
「そうさ」
唐突に目の前に現れた男からの不可解な言葉に、クレイは思わず眉をひそめた。そこはかとない不穏を孕むそれは、扉の向こうの彼が向かうものとどこか似たような感覚がする。
この国で、この場所でもうひとつ同時に起こっているものとして、目の前で腕組みする男はそれをクレイに告げた。
扉の向こうの不可解の偵察に忍ぶそれなりの気配の中から突如強くなって彼の目の前に降り立ったこの男は、クレイの学院時代の知己で、エクストリーからはこのレニティアスを挟んで反対側の国、シュタインゼルテ連合国の特殊武官であった。
名はロテリガ・アーゼシュラン。
肩までの短いマントに、濃紫を基調にした不思議な前あわせに広い袖の衣服を身にまとっている。シュタインゼルテに特徴的な衣装だ。
「なんでこんな話をおまいさんにするかってぇと、そりゃ、俺も手ぶらじゃ御前にのこのこ帰れねえからなんだけどさ」
「俺が何を話すと?」
「うんにゃ、そりゃもちろん大したことはなあんにも、だろうな。んでもよ、ある意味俺は、そういうおまいさんの、俺が知ってる通りのクレイトーン・ルルド……あいや、今はもうクレイトーン・オルヴァなんだっけか。が、そんだけあたりまえに、個人にがっつり肩入れしてるってぇ事実を確認できるだけでも、それなりにしっかりした成果にはなるんだぁな」
緊張感の欠落した調子で、柔和と表現するのが相応しいだろう表情で刃を隠す。
クレイは唇を引き結ぶ。それはシュタインゼルテという国の人間の特徴だ。独特のなまりはそこにあるべき緊迫を欠如させたまま、するりと目標の懐へ入り込み、作為に満ちて目的を引きずり出す。
あからさまである分、今クレイの目の前にいる彼は随分と――おそらく意図的に――判り易い。沈黙するクレイに、ロテリガは苦笑した。
「そんな、そんな睨みなさんな。俺だって仕事なんさ、仕方ねえだろ? それに別にうちの御前様だって、いまこのときに何かそちらの中のお人らに謀ろうなんざ、特にゃ考えちゃあいねえよ」
「ならばもう帰れ。役割は果たしたんだろう」
「いやいや、さすがにもうちったぁ手土産がなきゃ、俺がこやっておまいさんの前に姿現した意味ぁねぇわ。だっておまいさん、知ってんだろ? 今ここに、どんだけの国の上層が集ってきてんよ? それぞれに、どんだけの高位の治癒職がいんよ? そりゃあ実績で言やぁガイルーティア【癒天の導手】やキュアドヒエル【癒志の灯火】にゃあ到底かなわないだろうけどよぉ、にしたって、その次の手として選ぶのが、どこから現れたんかもだぁれも知らねえような妙な異国人だって言われちゃあ、なぁ。どこの誰だって、そりゃあ目ぇむいて理由は探すってぇもんだろ?」
笑いながら、ロテリガは事実を指す。リョウ自身の愚直すぎる願いとは程遠い、幾重にもとぐろを巻いた人間たちの感覚を示す。
既にクレイは、それら謀略、策略が生し得る事象を現実として知っていた。それが患者を、そしてリョウを傷つけることを知っていた。
だからこそ、同じ轍を踏ませはしない。
それはクレイだけではない、カーゼット全員の共通した意志であった。
「……俺に何を答えろと?」
静かに眼前の男へクレイは問うた。
いくら本人に言ったところで、リョウがリョウである限りの限界はひどく小さい。だからこそ、クレイ達が意識を続ける以外に方法はない。すべてにとっての一番の策は、リョウをただ患者にだけ集中させ続けることなのだ。
どのような妨害があろうと、阻む。
半分以上はクレイ自身のためだ。――立ちはだかっておかねばならない類の相手は、どこかその笑みをうっそりとしたものへ変えた。
「こん中でまあ見事に完璧に厳重に守られてるおまいさんの主は、そこまでの奇蹟を起こせる御仁だってぇのかい? アンヘルレイズの術師たちの不満を、理不尽を、ここまで「外」の俺たちが見ててぇすらあからさまに示されてる偏頗を、捻じ伏せても余りあるくらいの、なにかをもたらせるような、そんなとんでもねぇ傑物だってぇのかい?」
――なんなんだあれは。
――どうして閣下は、私たちよりあんな。
ただ扉の前に立ち守っているだけでも、決して少なくない声をクレイは既に聞いていた。
聞かせようとしている風情すら一部にはあった。矜持が、いびつな方向に捻じれた声であり目線であり在りようだと思った。
驚きは特にない。むしろ驚くべきは、ヘイル夫妻やガイルーティア院長が「異分子」の重用を本日第一日目からまったく伏せようともしないことだろう。唐突のリョウの要請に迅速に応じ、彼と会話し、リョウが見つけ出した患者を、当然のように彼の担当とした。
まだ実際の患者を、ほとんどリョウは見てもいないのに、だ。
それだけ事態は異質で重篤なのだろう、とクレイは思う。違う視点に、ちがう意識に突破口を求めざるを得ないほど、残された時間が少なくなってきているということなのだろう。
彼の大凡にかかわってきたクレイには分かる。リョウ自身、ある程度覚悟はしているのだろうとも思う。
だが、ほとんど何も公にされていない現在「何」を根拠にその論理を語れる? 何も知らぬこの国の人間にとって、リョウはただ突然現れ、上へ取り入って闇雲に現場を引っ掻き回す異常者にしか見えないだろう。あえて悪しざまな言い方をするなら、限局した視点で状況を見るなら、それもまた、間違いとは言えまい。
そうだ。予想はできていたことだ。
できないと言いながらそれでも進む。結果として、他の誰にも明かせぬ真実を、いつだってリョウは紐解いてきたのだから。
「俺が欲しいのはそういうもんさ。だから、な。交換しようやルルド。情報を。おまいさんたちはまだ知らんだろ、ただの無魔の城下にも、妙ちきりんな神隠しなんぞが起こってるって、こんなこたぁ、さ」
考えるうちに、勝手に目の前の男は「交換」を持ち掛けてくる。
陰鬱を孕みながらも、どこまでもロテリガの声は柔和だった。内容とは裏腹の静かであり続けていた。
ある意味では彼は、クレイが知っている過去のままだった。多国間の交流の一環として行われた学生のトーナメント戦、ほぼ唯一、剣技のみで予選を抜けたクレイに、負けて笑って話しかけて来た唯一の男だった。
魔術だけで判断するなんてくだらないと、意味がないと、そう笑っていた。否定しながら否定の風情がどこにもない、不可解な声質の持ち主だった。
黙り続けるクレイに彼はさらに述べてくる。さらさらと、流暢に。
「消えてんだってよぉ、人が。しかもこっちは老若男女問わず、特に大きな問題もなく日々を暮らしてた人たちばっかりが」
最初に消えたのは、元気で活発な女の子。
次は頑固な腕利きの大工の棟梁、その次は経営も順調で評判の良い宿屋の女将。そのあとは健啖家の爺様、そして、まだやっとよちよち歩きが始まったくらいのこども。
分別どころかまだ言葉もおぼつかない小さい子どもたちは論外としても、いなくなったそれら人々を知る面々は全員、口を揃えてこう言ったという。
「自分から望んでいきなりいなくなるようなやつじゃない、そんなそぶりなんてかけらもなかった、本当にある日突然いきなりぷつって切れるみたいにそこからいなくなった、って、なぁ」
「共通点は」
「いやぁ、今ので何となく分かんだろ。いなくなってんのは、ホントに老若男女も職も魔力もてんでばらばら。まったくさっぱり、どこにもそれぞれ接点なんてありゃあしねぇし、むしろ無理に探そうとする方が、捜査が行き詰まるんじゃあねえかってぇ気がしてくるくらいだ」
「……嘘を吐くな」
「お?」
「おまえ自身が今言っただろう。姿をくらましているのは、十全までは行かなくとも、それなりに満ち足りた人生を送っていた、もしくは送っていくはずだった人間ばかりだと」
「……へえぇ」
ロテリガが感心したように目を開いた。
だがそれも一瞬だけのこと。クレイの何に驚いたのか知らないが、彼はすぐに表情を戻してまた薄く笑った。
「んじゃ、もしそれが共通点だとして、おまいさんの主さんは、なにをどう考えると思う?」
「そもそも、最初にそれが起きたのはいつだ。本当に消えた誰も、消える直前まで普段と何も変わらなかったのか」
「はっは! なぁんか一段階手ごわくなってんなぁ、ルルド」
笑みが妙に楽しそうに深まる。クレイはため息をついた。己が変わったというなら、確実にそれは扉の内側のあの黒の影響であろうと思う。
剣を振るう以外、能はない無魔。深遠の意図など多くは察せない、目に見えるもの以外は視えない。
それが自身への、クレイの評価だ。そのような類のものがあんな異質を守る役目を負うなら、落とすものを一つでも少なくする以外にない。
ある意味ではものを穿ったような見方になる、ということなのだろうが。
仕方がない。リョウは「リョウなりの」正視以外に方法を持たない男なのだ。
なぜか「過去」の名でクレイを呼ぶ目の前の男は続けた。
「ああ、そぉさ。おまいさんが、たぶん今考えて、できりゃあ否定したいんだろう通りだよ」
「国は既に動いているんだろう。俺たちが、あえて何の首を突っ込む必要がある」
「んまぁ、そりゃあそぉっちゃそぉなんだぁけどよ。でもま、優先順位がどっちが高いかってぇ言や、そりゃ、誰にだって明白だぁな」
救いようのない現実を、また妙な調子で語り上げ一言。
「んで? リョウ・ミナセは、エクストリーに創られた一本のヴァルマス【劔】は、なにからどう考えて、どう、動くってんだい」
調子はどこまでも穏やかながら、どこかそれは詰問に似ていた。
最後の問いだろうと、クレイは思った。隠密としてどこからどこまで何から隠しているのか、無魔である彼には分からない。おそらく張られているのであろう防諜の結界魔術など、生まれてからこのかた、一度たりとも覚知できたためしはない。
そもそもリョウが考えることなど、クレイはおろか誰でも予測などできないだろう。
またひとつクレイは嘆息を重ね、口を開こうとし、
――守り続けていた先が、不意に音もなくひらいた。
「――――それはおまえ個人ではなく、シュタインゼルテとしての問いか?」
水面を打つように割って入るのは、凛と響く、金と銀の色の少女の声。
その唐突は、ロテリガにとっても同様のものだったらしい。今度は完全に目を見開いた彼の目線の先で、もうひとつ、ロテリガが最も情報を望む男が、どこか仕方なさそうな調子で口を開いた。
「やっぱ、そうだよな。変だよな。不満、出てこない方がおかしいよな」
向き直って見るリョウは苦笑していた。その傍らに立つカリアは、一切の偽り、どころか逡巡すら許さないだろう光の鋭さでロテリガを見据えていた。
なぜ。いつから?
あえて訊ねる方がもはや無粋だろうとクレイは思った。おそらく最初から聞かれていたのだろう。リョウの意思で。……なぜか、カリアは制止せずに。
そして、どこまでもリョウはクレイたちの知るリョウの通りだった。言うのだ。
「俺は、俺にやれる範囲のことしかできないよ。それで少しでも何かが違えばいい、少しだけでも、状況が変えていけたらいい、病気を、人を、治したい。俺が助けられるなら、俺で、助かるなら、俺が動く。……それだけしか、多分、何を聞いても今は言えない」
らしすぎる言葉に、クレイは苦笑したくなった。それはこの男の唯一の武器だ。馬鹿馬鹿しいと捨てる人間の方がよほど多いだろう、青さにまみれた、まっすぐなもの。
そうであることを示すように、ロテリガの目がわずか、怪訝に細められた。
「あかの他人のために、貴方は己の命を、もうすでに危険にさらしておられるというのに?」
「それでしり込みしたら、きっと誰も助からない。それに、俺は、もしそうなったとき、誰より俺自身が、動かなかったことを絶対に一生後悔するって、わかってるから」
「結果が伴わなければ、それはただの絵空事の理想でしょう?」
「そうだね」
リョウは静かだった。
彼にとってみれば、それは何より強い、不動の証明であろうとクレイには知れた。リョウは続ける。
「でも俺は、結局は俺のために、諦めるつもりは毛頭ないよ」
それは、無魔のただの言葉だ。威圧も、力もなにもない、この男が自ら望んで口にするだけのただの音でしかない。
だが現実にロテリガは絶句する。それこそが結局はリョウの力なのだ。気づけば巻き込まれて、手を伸ばしてやりたくなる、危なっかしくて、ただ見ているだけではいられなくなる。そんな、馬鹿正直で一本気の過ぎる馬鹿の姿なのだ。
続きを失った沈黙が落ちる。
終わりを告げるように、カリアが一歩、前に出た。
「シュタインゼルテの影取。それほどに情報が欲しいなら、告げてやる」
踏み出された一歩と同時、なにかが意図的に砕かれたような奇妙な感覚がした。
静かに彼女は微笑む。息を呑む「複数」へ、そのままカリアは告げた。
「彼は、異者だ。――ゆえに今、この異常の場に望まれて居る」




