P3-09 揺れる波の紋 2
「鬼気迫っていましたね」
ところは変わって、カーゼットの皆のため設えられた談話室。
彼らの上司を送り届けた後、ジュペスは小さく笑って目の前の仲間たちへと言った。
大きな円卓の上には、レニティアスから饗された夕食が大皿に湯気を立てて並んでいる。円卓を囲むのは、無事に第四魔術師団長からのお誘いに行ってくれたリョウと、その「晩餐」の警護を引き続いて行っているクレイのふたりを除いた、カーゼットのメンバー全員だ。
蒸し鶏、魚のソテーに彩鮮やかなサラダ、子どもの顔ほどもありそうなパン。他国の王の「内輪」の一組織に出されるものとしては、随分豪華で、かつ相応に舌を楽しませる術も持っている。
それほどと「彼」が目されているということなのだろう。彼の不確定性、異なる未来を手繰る力。まだ一日目のこのときから、すでに相当に期待されているという、これは証左である。
彼に伝えれば困惑するのだろうが。
何か一つでも自分が拾えることはないか、自分が分かることはないか、知識から今へ、引き出せるものはないか。その一心で、彼は言葉通り、時間を完全に忘れ去っていた。声をかけたとき、かれの傍らに散っていたノートには、所狭しと異世界の不可思議な文字が方向もまちまちに詰め込まれていた。
彼女の誘いがなかったら、無碍に止めることもできずに今も続いていたかもしれない。時間と言伝とを伝えるべく天蓋のうちにジュペスが入ったとき、リョウは大層驚いた顔をしていたのだ。
今はさて、あちらで何を話しているのだろう――考えていると、リーが浅く笑う。
「様子が浮かぶな。本当に彼は、ことひとを癒やすことに関してのみ、怖いほどの集中力を見せる」
「ハッ、ありゃァただの底抜けのお人ヨシの治癒バカだ、治癒バカ。狂ってやがんだ最初ッからよ。そうじゃねェ誰があンっな無理難題俺たちに出すッつんだ」
優しい言をばっさり切り捨てるのはヘイ。次々に皿の上から料理を攫って行きながら、特に落とすことも零すことも飯粒を飛ばすこともなく、そのすべてを腹に収めていく。
下手をすると、ジュペスの取り分がなくなってしまいかねない勢いだ。しかも食べながら、悪態をつきながら、やたら楽しそうに彼の目線は未来を向いている。何だと尋ねたくなるような色彩を帯びて、声が響く。
魔具師たちが闊達とする理由など、ことカーゼットにおいて一つしか考えられない。
己の右手にちらりと目をやる、その手で手近なところにあったパンを掴み――少し目測を誤ってパンが指の形にへこんだ――、もう片一方でちぎりながらジュペスは訊ねた。
「また、なにか創られるのですか?」
「あァ。なにか、なにか、なァ。……なんッだありゃア。そもそも魔力は広げるもんでもぶつけるもんでも弾くもんでもねェよ」
「魔術ではない、ただの魔力を当てるという発想もなければ、その差異を第三者にもわかる形で図示するという思考もないな。治癒魔術という「個人の技量」がものをいう分野に関しては、特に」
こちらも楽し気に、うたうようにリーが言葉をつぐ。だが、つぐ前もそのあとも、ある意味では予想通りと言うべきなのか。ジュペスには、ふたりが何を言わんとしているのかがまったく分からない。
思わず見回した他の三人、ロウハ、ピア、リベルトにもたくさんの疑問符ばかりがはりついていた。
魔力を広げる? 当てる? 図にして、示す? なにを、どうやって、だれが、どうして、……いやもちろん目的は、患者へ、治療のために、リョウが、なのだろうけれども。
四人ともが相当な表情をしていたのだろう。ひどくおかしそうに、リーが笑った。
「ああ、そうだ。それこそがきみたちも察している通り、彼が作りたいと言っているものだよ。無害なものを対象に向かって放射し、その吸収率や反射率を解析することで、体内の状態を映像化し、異常を炙り出す魔具」
「……でも、解析の術式、は、」
「ンな最終的にはテメエの感覚に頼る以外にねえモン、無魔のリョウには証拠にならねェ。で、無魔しかいねェアイツの世界にゃァあるんだとよ。名前はなンだっつッてたか? テメエの体の内側を、五臓六腑、筋やら骨やら神経やらの状態を、ぶった切るどころか掠りもしねェで、見抜くための機械が、ごくフツーのモンとしてな」
呆気。
このときのジュペスたちを形容する言葉は、これしかないであろう。
徹頭徹尾、言われていることが見事なまでに理解できなかった。言われても、足されても、かけらも完成品が想像できない。もはや思わず笑ってしまって、その動きでほんのわずかに軋んだ己の手へ、またジュペスは目線を落とす。
ただ、そこには手があった。作り変えられるごとに、擬態を完璧にしていく、感覚すらあえかに伝えるようになってきている腕があった。
この世界には、なかったものだった。この世界の範囲では、人だけでは、ものだけでは決して作られようもないものだった。
彼しか、作れようもないと、とうに確信していたものだった。誰に止められても無意味なのだろうとも思えた。ひとつだけ強く願うもの、譲れない意志のために、リョウは己だけの知識を紐解くのだ。
そんな人だ。この手からもジュペスは知っている。だからこそジュペスは、またしても困らされる。
なぜなら彼の異端は異端に過ぎる。どのような方向にゆくのかが、どんなに情報を綴り合わせてもまったく予測できない。
「なんっかもー、聞けば聞くほどとんでもない場所ですよねぇ兄貴の居場所って」
「そもそも治癒に限った話じゃなく、まったくもってどこにも魔術がないって時点で俺たちの想像軽く超えちゃってるよな」
「ま、そうでもなきゃあのアノイロクス陛下がヴァルマス【劔】にされることもなきゃカーゼット【朝闇】なんて呼びもしねぇよなぁんて言われちゃ、ちょいと納得もしちゃうかもしれなくもないけどな。あぁいやいやでもやっぱり兄貴はヘンだわ。壮絶にヘンだわそりゃ他の国の色んな奴らも影ばら撒きまくるわけだわ」
肩をすくめてロウハが笑う。彼の軽口に応じたリベルトも、同じような表情で笑っていた。
ふたつめのロウハの言葉に混じっていた、不穏な一言については誰も言及しない。なぜなら「ここに来る前から」全員が知っている。分かり切っていた。
目は、あまりに多数。明らかな悪意はなくとも、友好的とは程遠いものも相当数。
ある意味での彼らのここでの役目は、リョウを治療のただ一点へ集中させることだった。いくら何を伝えたところで、彼とは絶対的な意識の落差がある。どうしてもリョウの危機感覚をとてつもなく薄くするそれは、甘さであり危うさであり、彼の唯一の強い意志にもつながる、やさしさだった。
彼は決して、失ってはならないものだ。
彼の現在までの在りようも含めて、すべて。
ジュペスは確信していた。妄信と言われてしまえば、否定はできないのかもしれなかった。
「……ん、」
ふいと天井を仰いだリーが、瞳を細める。
ばり、と、幾分強い音を立ててヘイがパンを噛み千切る。
敢えてジュペスは、それらを追わなかった。きっとかけらも貫かせずに、リョウとは異なる方向性の異質の魔具師たちは彼を守っている。
その「状況」までは知ってか知らずか、静かに息を吐いて、ピアが口を開いた。
「だからこそ情報交換、になったのよね。やっぱり。できれば早めにリョウさまにはお伝えしたいのだけれど……」
「どォせあいつはしばらくァ戻って来ねェよ。何だ、アイツの何となにを交換してきやがったんだ」
「過去と、いまの病の、具体的な違いについての話です。昔の友人が何人か、アンヘルレイズで術師として働いているので」
「あぁピアちゃんそれってあれだろ、原因は同じなのに違う病気だって話だよな昔と今が。それこそ原因になってる術式が同じなんて誰も最初は考えつこうともしなかったから、違う名前がついたっていう」
つらっとロウハが会話に入る。先ほどジュペスも、概略だけロウハから聞いた内容だ。
同じ呪術を元凶とする、異なる病。通常の方法では解呪には至れぬ、どころか、解析にすら特殊術式を要するという奇異特異の呪い。過去の先達は、誰一人として解呪には至れず、呪いに殺されていく患者を前になすすべを持たなかったという。
治癒職であるピアたちは、確実にもっと具体的で患者個々人に視点を置いた情報を聞き出してきたのだろうか。ジュペスたちにとってすら未知数の「黒」の情報と交換に。
リベルトが苦笑して肩をすくめた。
「聞けば聞くほど、結び付けて考えろって言われる方が無理だと思ったよ、俺は。なんでキュアドヒエルのお二方やガイルーティア院長閣下は、「テル・ラジュニの光析術式」を試そうとしたんだか……」
「そこまでの「なにか」は掴みかけたが、その事実の上でも彼が必要だったということなのだろう? 聞かせてくれ、どんな話だったんだ?」
言葉を積めば積むほど、状況は八方塞がりのようにしか聞こえない。
促すリーに、ふたりは頷いた。
「わかりました。じゃあまず確認から。今回俺たちが相手どらなきゃならない病、ヴォーネッタ・ベルパス病は、その名前が表す通り、突然発症する覚めない眠りが、症状の全部です。どんなに呼んでも、どんな魔術を使っても目覚めない。反応すらしない。一度発症してしまった患者は、ただ、眠り続ける」
それこそこの場に来る前に、リョウを頼り、結果的に彼のその手に掬い上げられた彼女のように。
患者の姿がふと、ジュペスの脳裏によみがえった。それまで必死に彼への目通りを、診察を願っていたはずの少女。ジュペスの目の前で何の前触れもなく倒れた。倒れたその瞬間から、もう二度と声を聞くどころか、意思疎通のかけらも取れなくなってしまった。
彼が疑い、ここへと運び、解析方法を知る人間によって、診断は確定した。
治療法の見つからない、そんなものだと、告げた。
「死を待つように。緩慢なる死を呼ぶように。……と、その名をいただく話をなぞるなら、続けねばならないかな」
同じく光景を見ていた者が、ぽつりと惨い言葉を口にした。
ただひとり、リョウにだけ伝わらない名前の意味であった。「鎖された眠り」「虚ろ」を示す古語ヴォーネス/バルパスは、かつて栄華を誇ったひとつの王国を滅ぼした愚者の名であり武器の名だ。すべてをその意のままに鎖された国は、一切の外界との接触を断たれて、ただ静かになった。確かにまだそこには生き物がいるのに、もはや、死を呼び込もうとするかのような有様であった――小さな子どもに読み聞かせるには、いささかおそろしい昔話である。
再現させてはならない「過去」である。
ピアが首を横に振った。
「それは、今回には必要ない言葉です。リーさん」
「そうだな。詮無いことを言った」
リョウ君に怒られてしまうな。静かに頷いたリーは、そんな言葉を続けて少しだけ口の端で笑った。
それを「過去」と言い切れなければ、そもそも彼が、カーゼットが、ジュペスたちがこの国に来た意味もないのだ。ひとつ息を吐いて、リベルトがまた話し始める。
「20年前の一連の事件では、疾患は「ルズ病」と呼ばれていたらしいです。一番最初は、局地的に発生した風土病のような扱いだったみたいで」
初発症状は、指先や足先のしびれ感。
それは発症後徐々にひどく強くなってゆき、発症からおよそ二週間で、患者の四肢からは一切の感覚が消失する。惨いのは病がそこで止まらないところであり、しかも感覚消失と並行して、はじめは指が、次は手首が、肘から先がというように、感覚消失とともに動かせなくなっていった。
最後には患者は、手足どころか臓腑の動きがすべて停止して死亡する。
意識は最後の最後まで明瞭なまま、わずかにもがくこともできずに、心臓が、或いは肺が止まる苦しみを穿たれるように。
「まったく違う病気じゃないか」
リベルトが話し終えるとほぼ同時に、思わずジュペスは口にしていた。
むしろ何が同じだというのだ。使用された術式が同じという事実以外の、どこに共通する箇所がある?
リベルトは肩をすくめただけだった。
「だから言ったろ、なんでこれとヴォーネッタ・ベルパス病をつなげられたのか、俺には分からないって」
「てか、ぶっちゃけここまでもともとが同じで違うとかってできるもんなの?」
「実際に私たちの目の前に患者がいるのだから、できる、としか言いようはないわ」
ロウハの疑問にピアが応じる。
しかし答える彼女らふたりも、なんとも怪訝な表情だ。事実は確かに事実だが、同時に確たる「こたえ」は、まだどこにもないのだろう。
ひとつだけ、分かることがあるとするなら、
「んーんんどーしょジュったん、門外漢の俺にはただでさえ色々ヤバい兄貴がさらに大変そうなことしか分かんねぇわ!」
「逆にもうこれ以上、僕らが関係する意味では上がりようもないんじゃないかな」
「リョウ・ミナセ」にかけられる期待と、立ち向かうべきものの不可解の強大に対してである。
常と変わらぬ軽薄のロウハの声に、ジュペスは笑ってしまう。おかしいことはもうひとつ、ヘイだけが「何をいまさら」とでも言わんばかりに平然としていることだ。
確かに今更、なのだろう。
従来は必要となるはずもない、はずの知識の塊が「彼」なのだ。
「いーやぁそれがさ、上げてえなあと思って俺ももいっこ新しく聞いてきたことがあるんだわ」
「ロウハ?」
「まだ何かあるってェのか」
胡乱に眉をあげたヘイに、眼だけ笑わない笑みをロウハがするりと返す。
またひとつ静かな波が、その瞬間室内に走った。その波の心地は決して良いとは言えない。さらにはジュペスは、ロウハの情報屋としての性質を、多少なりとも知っている。
彼は基本的に、道化になりたがる男なのだ。
くらいものしか他がないなら、己の持ち他の持たない明の話題を、率先して口に出してくるような。
「あるんですよねこれがねぇ」
それはおそらく、もはやただの確認なのだ。
この国を覆い尽くそうとする、何とも知れない異常の暗雲の大きさと、異質の。




