P3-07 細波の描く
「……まったく、何と言えばいいのか」
呆れたような調子とは裏腹に、そう口にするフェイオスの顔は確かに笑っていた。
ゆるやかな橙の明かりがやわらかく内を照らす一室、フェイオスの自室では、いま、彼とその古くからの二人の友人が久しぶりの酒を飲んでいた。
酔ってしまうに限るほどの日であったからだ。
これまでは何だったのかと、仔細を知らぬ者からは間違いなく問われるだろうほど、異質の波動に文字通り何度も目を回された一日だったからだ。
「納得しただろ? フェス」
「分かり切っていることを今更聞かなくてもいいだろう」
「あんたの気持ちはよぉく分かるよ。本当に呆れちまうねえ。あの子の目にはまだまだどこだって疑問だらけなんだろうけど、それこそ、あたしたちの止まる理由にまで、まるっきりこっちが考えてなかったような反応してくるんだから」
――同じ原因なのに、症状が違う?
――ああ。これもまた、ヴォーネッタ・ベルパス病の原因発見が遅れた理由の一つだ
交わした言葉を思い返す。二度と口にしないことを願っていた昔話と、つながってしまった現在の話。それは他の誰に告げても、意味が分からないと絶句されてしかるべき事柄だった。
末梢の麻痺から始まって最後には心停止に至るルズ病と、突如決して目が覚めない眠りに陥るヴォーネッタ・ベルパス病。
呪いとは、特定の害をなすための魔術。だというのに、いずれも同一の術式が原因となっている。
正直、今でも彼らはわからなかった。いかな変法を使えばここまで症状を違わせられるのか、そもそも、そこまで違わせておいて、「元が同じ呪術」とはどういうことなのか――誰に問うたところで、彼らが答えを持っていないのにそれ以外が返ってくるとも思えぬ疑念だった。
しかし黒い眼を軽く瞠った青年は、「差異」の詳細を聞いて少し考えた後に、あっさりと「疑問」を口にした。
「変法を使うことで、例えば症状の出る位置とか、細かい作用機序とか、症状の出やすさとかが変わったりするんですか――か」
「それこそ変法だったら、呪いの核になるものの影響の仕方が変わる、作用の方向が完全に逆になったりすることもあるのかな、なんてことも言ってたね」
思わずこぼした笑いが3つ分重なる。
彼はつまり、その「超常」の事象を、瞠目のひとつで飲み込んで次に行こうとしたわけだった。これは、あれは、どうして、なにが。リョウが口にする内容は、この冗談のような状況を事実とあっさり受け止めた人間のそれだった。
そのような事象がありうることを、知っているとしか思えないような反応だった。
ヨルドが肩をすくめる。
「さて、その答えを持ってるような人間がいたら、俺たちの方がぜひ会ってみたいもんだが」
「そもそも呪核は目に見える形をとらない、見えぬ悪意が「症状」として結実するのが呪いだ、と、……なんだろうな、考える僕の方が頭が固いのかと思えてならないよ」
「少なくともあんたの感覚の方がよっぽど正常さ、フェス。でも別に構いやしないだろ? あたしたちがあの子に求めてるのは、そんな「正しさ」じゃないんだから」
「正しさ、か。本当に、こんなに良い意味で驚かされたのは久しぶりだ」
空になったグラスに酒を注ぎ注がれながら、フェイオスは笑う。
きっと今頃、盛大にかの黒の青年はくしゃみをしていることだろうと、ゆるりと酒の水面を舐めながら思った。ああ確かに彼は、彼のような存在こそが、今の停滞するフェイオスたちにとっては、最も必要だった。
何を気負って肩ひじを張るより前に、彼は今日一日だけでもフェイオスたちを驚かせ続けた。
そもそも今日ここに着く前から、新規に発症したヴォーネッタ・ベルパス病疑いの患者を見つけたからアンヘルレイズに搬送したい診断をつけてほしい、から始まって、呪術を、呪核を「もの」のように解こうとし、そこからさらに延びる思考で「差異」すら説明できるかと首をかしげ、また彼の発見したあの患者は、これまでの例とは異なる経過を持っている。
馬鹿馬鹿しくなるほどの波紋が一日で生まれていた。
フェイオスのうちにも、久方ぶりに多くの疑問が生じていた。
呆れるほどにすべてが一斉に動き出したような感覚に、ああ、自覚していた以上に自分は過去に、治せなかった、一切の歯が立たなかった、何も救えなかったあの病を恐れ、身をすくませ二の足を踏み続けていたのかと、思った。
「なあヨルド、アルセラ」
「うん?」
「彼の「過去」は、どこまでが真実なんだい?」
今日一日で生まれた、疾患以外の疑問。
いくら集めさせようと、かけらの真実らしさも見せようとはしないものを、だからこそここで、彼は問うことにした。
フェイオスが今日まで集め得たあらゆる情報は、あの青年にはなんとも不似合いな、あるいは不釣り合いに滑稽な分かりやすい「異端」だった。
曰く、異端の里のものだという。魔物に滅ぼされ、もうこの世界からは失われた場所に存在していた生命だという。
ならばなぜ、あれほどに流暢な共通語を当然のように操ってみせるのか、最深、根底から目線が異なるような感覚を抱かせるのか――確実に国家機密の類であろう事柄に、しかし目の前のふたりはひょいと、よく似た表情で眉を上げて見せただけだった。
「ああ、あれねぇ。最初に聞いたときは、あたしたちも笑っちまったよ。なんで笑うかって、まあ、現実はあれよりさらに酷いからなんだけどね」
「だな。そもそもあいつは、一切魔術を使えない無魔だ。もっと言えば無魔、どころか、この世界の人間ですらない」
「……え?」
フェイオスの反応が予想通りだったのだろう、ヨルドとアルセラの様子は変わらない。
静かに笑う。
「あの子の世界はね、そもそも魔術が一切存在しないんだそうだ。代わりに世の理を解明するための学問が多岐にわたって発展して、いろいろ歴史も繰り返して、結果的にいま、あの子が住む国には民主制が敷かれ、どんな人間にも一個人としての権利が保障され、すべての子供に対する義務教育も徹底されてるんだそうだよ」
「……」
「あいつはそんな世界で、人の傷病を治す専門職になるための高等教育機関に通う学生だったらしい。治癒魔術のないその世界じゃあ、人間を治す専門職は「イシャ」って呼ばれてて、だから自分は「イガクセイ」だったって、な」
「彼が、学生……? 教鞭を取る側でも全くおかしくない年齢じゃないか」
「それだけ、恵まれた境遇でありがたい環境で、きっと至極まっとうに、親にも周りにも、あたりまえに大事にされて育ってたんだろうね、あの子は。……だからリョウには、魔術を使って人の治癒を行うっていうあたしたちの絶対原則が絶対じゃない。むしろあの子にとってみれば、あたしたちのそれは驚くべきとんでもない「奇跡みたいなもの」で、あの子にとってできないことを可能にするための方法論のひとつに過ぎないのかもね」
創作の筋書きと言い置いても、鼻で笑い飛ばされそうな内容がこれでもかと目の前に山積される。
フェイオスは返す言葉を失った。学生、「イガクセイ」。まだ「学ぶ側」であり、「教える側」「導く側」ではない。――彼が? たった一日でこれほど多くのもの、ことを動かして見せた彼は、まだ「深化」を望まれる立場のものだというのか。
沈黙が落ちた。しかしいくら疑念を呈そうと、怪訝を向けようと、目の前の二人の表情から偽りを読むことはできない。
そもそもこのような荒唐無稽を、あえて今、彼のような異質に対して「嘘」として盛る必要性も全くない。
フェイオスは浅く苦笑した。
「……俄かには、さすがに信じがたいな。彼は、吹聴されるような「癒士」でもないというのかい?」
「ああ、そもそも魔術がない世界にいたあいつは、かけらも魔術の才能がない無魔だ。そのリョウがなんでか神霊術も創生術も使えてるらしいっていう事実に関しては、俺たちもこれから改めて、厳重な人払いのうえで聞かなきゃならんと思ってたところさ」
「しばらくはそれどころじゃあなさそうだけどね。あの子のトンデモについてくだけでも、手いっぱいになりそうだ」
笑うアルセラに、反論の言はない。
誰からともなく、酒をあおる。随分久しぶりに、明日の未開を頼もしくも、光あるものとも思える気がした。まったく驚くべき一日だった。なにも動かなかったというのに。たったひとつの絶望的な手掛かりをつかむことにすら、およそ一ヵ月という月日を費やさねばならなかったというのに。
身勝手に憎らしくなる勢いで、リョウ・ミナセという青年は停滞を越えていった。起こした波の強さや形を、しかし、さて彼自身はどれほどに理解しているのだろうか。
図らずも嘆息が3つ重なる。
「呪核をとらえられるものであるかのように思考し、核と解析の関係の仮説を示し、同じ原因で、異なる状態が起こされることがあるのかと問えば、むしろ同じ原因なら、絶対に同じ事象が出現するのかと言い。これまでの患者とは経過の異なる患者を見つけ出し、一切の反応を返さない患者の「反応」を見たというのだろう? ……ああ、確かにいっそ、世界が異なるところのものと、断言されてしまったほうが納得できる異質だな」
「そのくせ「何をもって全身状態が悪化していると判断するのか」と来た。魔力量の持続的な減少、生体反応の低下、滋養強壮の術式に対する反応性の鈍化。むしろ俺はこの何も使わないで、どう患者を評価するのかが知りたいところだわな」
呪いとは明確な形をなさない、魔術というなりをした「悪意」である。ゆえに悪意は、悪意として結実すべくただひとつの災厄の状態をもたらす。
ヴォーネッタ・ベルパス病は一切の前駆症状のない、突然発症の病である。発症後の患者は外界からの刺激に一切反応を返さなくなり、例外はない。
たった一日でこれだけの「当然」を、リョウは3人の前でひっくり返した。一方で「本来」一切の魔術が使えないがゆえに、彼らが蓄積してきたこの1ヵ月の経過が、理解できないとも言った。
驚いたが、無魔との断言でそこには今更ながらフェイオスには納得がいった。かの青年には魔術がないのだ。手段として持つことができず、そもそも、持つという意識それ自体が存在しないのかもしれない。
恐るべき事である。まさにフェイオスたちにとってみれば、異次元の思考である。
ああ、時間があるのならいくらでも問うてみたかった。ならばどのように人を診るのか。癒すのか。
なぜ当たり前のように病の長期化を語れる。遷延するということを受け容れる。
何が故をもってして、ありふれた事態であるように、治せないことに、絶望しない?
「カーゼット【朝闇】、か」
それは黒。他に染まらぬいろであり、同時に、次に導き訪れる光明の実在を確定づける黎明の名である。
ありとあらゆるものを、根本から揺るがせかねない強さと危うさと脆さを併せ持ったわかい光。彼が願い手を引く未来は、きっと望まぬ者もいるであろう不可解に満ちている。
溶けた氷に薄くなったグラスの内側を眺めて、フェイオスは言った。
「ガイルーティア【癒天の導手】にキュアドヒエル【癒志の灯火】、僕たちもいつの間にか、随分な名を背負うようになったと思っていたけれど」
「ああいうもんを見つけ出して、守ってやれるなら、ま、悪いことばかりじゃあないわな」
「今この瞬間にだって、また妙なこと考え出していそうだもんねえ、あの子は」
年を取ったとかれらは顔を見合わせ笑う。笑う。ああ、笑うしかなかった。
明日も変わる確信が、こんなにも不安定に不確定に心強いものとは思わなかった。
「な、フェス。俺たちが言ってたことも、わかるだろ」
「ああ、ほんとうに今日一日でよく、ね。確かにたった一日でこの有り様では、相手によっては、あっという間に嫌悪どころか殺意を買いそうだ」
「実際にもう一度買われてるんだよ、フェス。そんなときまであの子は、自分じゃなく患者を思って嘆いて、憤懣やる方なしになってた。自分が認められないこともそうだが、それ以上に「患者」を見ず、全能を盲信することに怒って、喚いてたね」
「悲しいくらいに優しいね」
「じゃなきゃ、こんな世界で絶対的な弱者かつ異者としてなんて、動けやしないだろうと思うよ」
なんで。
たった一度だけ、彼らの目の前で彼は激昂したのだという。理不尽を嘆いて、悲しんで、自分の持つものの「危うさ」を目の当たりにし、あまつさえそれで一人の少年を殺しかけた。
だが止まることをしなかった。それでも助けたいのだと、相当に異質で、ほとんどの人間には受け入れられないような方法をとった。結果として今その少年は、リョウの護衛として「騎士として」「両腕をもって」レニティアスに同道しているのだと。
またしても荒唐無稽の話である。
口をつけた酒は、時間の経過を示すように温く、薄かった。
「……ちょうど、レオラ君はあれくらいの歳だったか」
吐き出す息とともにぽつりと押し出す。それも恐らくは、ヨルドとアルセラが彼を気にかける理由の一端であろうと推測しての言葉だ。
彼らの自慢の「ばか息子」、第七騎士団に所属し、今回の昇格審査で第五位階への昇格を目指しているという青年の名である。ちらりと、目の前のふたりは顔を見合わせて肩をすくめた。
否定はかえらない。
「あいつの方がひとつかふたつ下だな。あいつが最後にフェスと会ったのは、おまえさんがあいつの結婚式にうちまで来てくれたときか」
「あの子もまだまだ落ち着いちゃいないけど、ま、リョウと比べちゃねえ」
どうやら彼らにしてみれば、年齢以上に彼は幼いようだ。掲げる理想は若く稚く曇りがなく、世の世知辛さと救いと良心の少ないことを理解しない。
それこそ23ともなれば、先ほどフェイオスも言ったように、物事を教える側としても相応の年数を経ている年頃のはずである。両手の指で足りるか足りないか程度の年齢の子どもの親であっても、全くおかしくはないはずである。
だが彼は「学生」だったのだという。まだ独立はできておらず、親の庇護下にあったのだという。
さぞ幸福な世界だったのだろう。
さぞ、不便で不可思議の溢れる世界なのだろう。
「……ああ、危うい、といえば」
「フェス?」
かたん、
どこかで、なにかが動く音がした。
「あの子達は、何を隠しているんだ」
だいじょうぶ、わたしたちだから。
だいじょうぶなの、ぜったいにだいじょうぶなの。
ぜんぶ治してあげるから、わたしたちが、いやすから。
だから、……だから、今は――
ふたつの疾病の詳細については、もう少し後の話で。
続きを書いていたらなんだか予定が狂ってしまったので、本日夜にもう一話更新予定です。




