P12 得たもの知らず
「へえ、治癒魔術の先生を見つけた? すごいじゃねェか、リョウ」
色々あっての帰宅後、その声に肯定を返して椋が続けた「先生」の名に。
もともとガタが来ていたヘイの椅子は、思いっきりその中心から足をぽきっと折った上で綺麗に引っ繰り返った。
「ちょっと待てリョウ。もう一回言ってみろ」
思わず後ろにのけぞったせいで、思いっきり椅子の足が折れた。結果として彼、ヘイはしたたかに床に腰を打った。
しかしそんなことをヘイにさせた、目前の黒い居候はきょとんと、何にも分かっちゃいない視線を彼へと向けて首をかしげる。
「…何でそんなに驚いてんの、ヘイおまえ?」
「何でって、…ああクソこのド世間知らずがっ」
思わずがりがりと頭をかく。絶対にこの居候は、今こちらに向けているのとまったく同じ緊張感のない見ているとこっちの気が妙に抜ける顔で、その「先生」らをもオトしたに違いないと何を聞く前から確信するヘイである。
「治癒魔術の先生」として、リョウが口にした名はヨルド・ヘイルにアルセラ・ヘイル。
こんな場末で自分勝手にひっそり暮らしているだけのヘイでも、絶対に知っているような名前、である。
「俺が世間知らずなのは、今に始まったことじゃないだろ。で、なんでおまえ、そんなに大袈裟に驚いてんの?」
しかも驚きすぎて椅子が壊れて尻餅つくとか、なんかベタベタすぎて逆に面白いな。
若干面白げに笑って首をかしげたままのリョウには、絶対にそのありえなさなどこれっぽちも理解できてはいない。そもそもどうしてただ図書館で勉強してくると言って出ていって、国の王様から下賜名を戴くような大貴族を当然のようにひっかけて帰ってくるのだこの居候は。
ヘイル夫妻といえば、非常に色々な意味で市井にも有名な貴族の名だと、いうのに。
「自分の胸に手ェ当てて聞け。…テメエが常識なさすぎンだよ、リョウ」
げんなりとひどく投げやりなヘイの言葉に、なんだよそれ、若干むっとしたようにリョウは眉を寄せた。
ヨルド・ヘイルとアルセラ・ヘイルの二人―――ヘイル夫妻は、本来なら同じ部類の職に入るが故に対極に存在しているはずの治癒術師と祈道士の夫婦で、なおかつ二人はそのいずれも、国中の医療者をかき集めて比べても確実に五指に入る実力の保持者である。
その実力と、治癒魔術の研究者として国へともたらす莫大な利益故に、二年前「キュアドヒエル」の下賜名を与えられた貴族なのだ。彼らが下賜名を戴くことになった事件は結構に胸糞の悪いものだったが、その影響が市井に大きく広がる前に、自分たちの立てた仮説によって動き結果的に事前に中毒の蔓延を防いだ功績は、確かにヘイの目からしても十分すぎるほどに大きかった。
ちなみに下賜名というのは、本当に大きな功績を国に対して挙げなければ決して戴くことのできない、国王直々に特定の貴族へと下される名だ。
下賜名を持つということは、即ち大貴族であることの証明であり、この国への長期間にわたる弛まぬ貢献の証であり、その名の下に、非常に大きな権力の使用も許可されるということに他ならない。そんな存在が無論国にいくつも存在しているわけもなく、現在このエクストリー王国に存在する下賜名持ちの貴族は全部で十だけだ。
だと、いうのに。
「なんでテメエは、この一カ月ちょいの間に下賜名持ちを二回もひっかけてくるかねえ」
もはや呆れを通り越して、笑うしかなくなるような高確率である。しかも一回目は「アイゼンシュレイム」のラピリシア、そして今回、二回目は「キュアドヒエル」のヘイルと来た。
ラピリシアは下賜名持ちの十貴族のうち、さらに王家を建国時から支える「筆頭貴族」と呼ばれる五家のうちのひとつ、さらに筆頭貴族五家のうちでは最も庶民への対応が誠実な貴族だし、ヘイルは治癒魔術全般に関することであれば、老若男女身分問わずその門戸を開くという、抜群の変わり者貴族だ。この何から何まで規格外な変人を表舞台に立たせるべく後ろ盾するのに、これほど見事なお膳立てが他にあるだろうか、いや絶対にあり得ない。
しかしそんな諸々を、結局この居候はまったく分かってなどいないのだ。
「下賜名持ち? しかもひっかけるってなんだそのヤな言い方は」
「あァ? 俺は事実を言ってるだけだろうが」
「いや、だってさ。あのおっさん、正直俺の第一印象としてはただの、サンドイッチ泥棒兼ストーカーだし」
「は? …つか、おいリョウ、今おっさんっつったか、おっさんて」
「そうだよ。ほら、おまえの昼飯にも置いてったろサンドイッチ。あれ、勝手に食われたの」
失礼な人だよなー、などと言って肩をすくめてくるリョウにしかし、ヘイが返せる言葉などあろうはずもない。
この一カ月と半ほどの間にそれなりにはこの黒の変人の奇抜っぷりにヘイは慣れて来たつもりでいたのだが、どうやら結局それはあくまでも彼個人の「つもり」でしかなかったようだ。…どこの世界に大貴族をおっさん呼ばわりする庶民がいるのだ、まったく。
あからさまにヘイが浮かべる呆れの表情を、しかしどうやらリョウは違うように解釈したようだった。言葉を続けてくる。あとまああれだ、と。
「一応予想はしてたけど、やっぱり治癒魔術に関することなんて調べようとする奴は少ないらしくてさ。それ関連の棚に寄ってった時から俺、ずーっと見られ続けてたらしいんだよな」
「そんくらい承知でココ出てったんだろうが、テメエは」
「いや、それはそうだけど」
でもまさか、こんなに早く、しかも治癒術師と祈道士のふたりに捕まるとは思ってなかったよ俺も、さすがにさ。
緊張感のない表情でへらっと笑うリョウに、やれやれとため息を吐きつつヘイは言ってやった。
「あんな。一応教えといてやるがリョウ、おまえがセンセイにしようとしてやがる二人のヘイルってのはな、この国で十しかいねェ下賜名持ち、要するにれっきとした大貴族の一角の家名だ」
「え、…そんなに偉いのあのおっさん? いや、あの人たちが貴族なのは見てれば分かったけど」
「そんなに偉ェの。覚える気があンならちったァ覚えとけこの居候」
軽く尻を払って立ち上がり、ぽかんと間抜けな顔をするリョウの頭を上から一発軽く殴ってやる。うわっとさらに間抜けな声が上がったが、予想の範囲内だ。
感情があけすけで何一つの嘘偽りもない彼の反応に、予想はしていたというのにやはりヘイは笑ってしまった。なんでこんなの拾ったとも折に触れて思うのだが、その思考以上に結局常に、ヘイという人間はこの居候の何もかもをとにかく面白がってしまうのだ。
こことは違う世界から、どうしてか飛ばされてきたという青年。己の力、それだけでは決してこの世界では行き着き得ぬ場所を目指す男。
ミナセリョウというこの黒の居候は、ヘイというそれまで止まっていた存在を当然のように動かし始めるほどにただただ、愉快だった。
「…ま、テメエが何しようが俺は知ったこっちゃねえ。俺はリョウ、おまえを居候させてやってるだけで保護者になった覚えはねーからな」
「はは。どうも」
遠まわしな不干渉をうたってやれば、その意図をきちんと汲み取ったリョウもまた笑って言葉に応じてくる。
まったく生き生きしやがって。思いながら眺めていると、こちらを見上げる黒の瞳が不意にどこか、ちらりと悪戯めいた光を帯びた。
「ていうかむしろここ最近は、どちらかといえば特にメシ的な意味で俺の方が保護者っぽい気がするんだけどな」
「あ? 何か言ったかオイ」
「いーや、べっつに? 拾ってくれたヘイに感謝してるって言っただけだ」
「はっ。減らず口が」
リョウは何も知らないからこそ、こうして今もヘイと言葉を交わす。何も知らないからこそ知りたいと叫び先に進みたいと足掻き、おそらくはその結果として徐々にしかし確実に、周囲を「周囲自ら」動く方向で、自分の方へと引き寄せていくのだろう。
この黒の青年には確実に、本人が自覚しているかはともかくとしてもそういう、妙な才能のようなものがある。
正面から認めてしまうのは何となく悔しい気もしなくもないので、決して口にしていってやるつもりはヘイには、ないが。
「とりあえず、あれだな。…せっかくヘイル夫妻なんて大物にひっつくんだ。絶っっ対になんか俺の益になるもん盗み取ってこいよ、リョウ」
「ぬすっ…ヘイ、いくら研究が行き詰まってるからって、おまえなあ」
「るせえ。手ぶらで帰ってきたら承知しねェぞ?」
「あー、はいはい。常識の範囲内で努力する」
まったくこれだからこの発明バカ不良は。容赦ない雑言を吐きながら、しかし結局そんな言葉すら二人にとっては、ただ日常的で些細なバカげたやり取りにすぎない。
頑張ってこいよなどと、殊勝な言葉などは決して言ってはやらない。
そんなことを言わずとも、目前の青年が絶対に手を抜かない容赦などしないことなどヘイには分かり切っているからだ。
一方、彼らとほぼ同時刻、ヘイル邸。
上等の酒を傾けつつ、「キュアドヒエル」の下賜名を戴く当主夫妻は二人、他には誰も室内には入れず静かに語りあっていた。無論その内容は今日この屋敷を訪れ、明日から一時的に自分たちの施術を見せることを決めた青年に関することだ。
「見かけたときからこいつは、とは思ってたんだけどな」
まさかあそこまでだったとはなあ。カラカラとグラスの中で鳴る氷の音を楽しみつつ、いつもよりやや強めの酒をゆっくりとあおりながらヨルドは笑う。
くすくすと、その言葉に応じるようにアルセラもまた笑った。
「仮にも準神使のあたしに向かって、あんなに堂々と神霊術じゃ病気は治らない、なんて言ってくるなんてねえ」
あの青年に告げた通り、アルセラが教会内でいただく位は準神使。各国の宗教組織の頂点に君臨するのが神使であり、なおかつ実技の面ではアルセラは時にエクストリー王国の神使すら凌駕することを考えれば、彼女のこのエクストリー王国内での地位は、或いはその肩書きが意味する以上に高いとも言える。
そんな人間に真っ向から、あの青年はつまるところ「あんたの治療はダメだ」ときっぱりと言い放ったのだ。
怒りより憤りより何より、あの瞬間には衝撃と驚愕が勝った。頭が真っ白になる感覚を、久々にアルセラは味わうことになったのだった。
「ん? 別に怒ってるわけじゃあないんだろ?」
「当たり前だろう、あんたのアイネミア病患者は完治してるのに、あたしが診たアイネミア病患者は何日かでまた症状が再発してるんだ」
少なくとも今のままじゃダメだってことは、あたしら二人の共通の見解だったろ、と。
答えなど分かり切っているはずの問いを向けてくる夫に笑って応じてやれば、まあなあ、頷いてまた一度、ヨルドは己の手にした酒をふわりと呷る。
「…だがあいつは、誰に聞いたわけでもなく自力で、その結論に辿りついた」
「あたしでも何十例も、あんたと条件をほとんど同じにした患者で治癒を試したうえででしか、認められなかった結論に、ね」
「ああ」
メルヴェ教内部の人間としては、主にその夫の影響でおそらく誰よりも客観的な視点を保てているであろうアルセラでさえ、そのことを「事実」と認めるまでには決して短くない時間が必要だった。神霊術で治せぬ病気などない。神霊術の力さえ十分に持ち合わせていれば、決して人は寿命以外の理由により死にいたることはない。
間違いなく教会内の九割以上が信じているであろうそれは―――この病の出現よりがたがたに、揺らいでいる。
「ねえ、ヨルド。あの坊やを明日一日あたしの後ろにつかせてたら、今度は何を見抜くと思うかい?」
「そうだな、…もういっそ、あいつの言葉通り本当に、俺たちの違いってやつを明らかにしてくれりゃあ良いんだが」
目前の夫へ問いかけてみれば、ふとまたヨルドは笑ってソファの背もたれへその体を預けて天井を見上げた。
同じ祈道士の誰より特殊な立場にあるからこそ、彼の境遇もその手にする職の意義に関する疑念もアルセラは余すことなく、知っている。
教会内の一部の過激派など、治癒術師など一刻も早く排斥すべきだ、同じ魔力があり同じ人間を助けようとするなら、その魔力は絶対に神霊術に捧げるべきだという主張を繰り返しているのだ。市井の意識にしてみても、程度の差はあれ内情はそれとあまり変わりはない。
それだけ膨大な魔力が要り、得られる結果はどうにも神霊術とあまり変わらないように見えるのが治癒術師の治癒魔術、なのだ。
自ら進んで治癒術師になろうとする人間など、ここ数年の学院卒業生を見ていても両手で足りるほどしかアルセラもヨルドも、見たことはない。
「俺たち治癒術師の立場云々ってのもあるんだが、何よりな。…俺も、そこには興味がある」
「そうだろうね。あたしだって同じだ」
さらに続けるヨルドの言葉に、同意を告げればふと、彼は視線を天井からアルセラの方へと戻した。
表情の笑みはそのままに、瞳には真剣な光を過らせてわずかに低くした声で、告げてくる。
「教会の教義ってやつに、かなりの確率で抵触することになると思うが?」
「………」
そして告げられる内容は無論、アルセラとて彼を受け容れると決めたときから可能性として考慮していたことだ。
なにしろ神霊術の絶対の基本というのは、…なにしろ。
「神から授けられる癒しの光―――だからねえ、神霊術ってのは」
「あいつとついでに俺たちは、その神様というやつに真っ向から反対意見を述べてしまっているわけだ。…確かメルヴェリトだっけか? 治癒術師排斥派の奴らが聞いたら、下手すりゃ全員引っ繰り返るんじゃないか?」
「引っ繰り返るどころか、逆立ちしてでも全力でその証拠を消すためにあたしたちと、それにあの坊やに向かってくるだろうよ。あいつらは自分たち、祈道士以外の「治癒」を認めちゃいないからね」
彼らの主張は基本的に、治癒の能力というのは即ち神から与えられた特別の力なのだから自分たち以外が治癒をすべきではない、邪道な治癒術師の魔術など不要である、ということだ。
そんな彼らにもしあの青年が、二つが絶対的に「違う」ことを論理的に証明してみせたりしたら、どうなるか。…正直あまり考えたくない類の血なまぐささにこの国の闇が満ちるであろうことは、二人の想像に難くない。
出来る限り実現して欲しくなどない光景をつい脳裏に描いたのはヨルドも同じだったらしく、ふとまた彼はどこか面白そうに笑った。
「そのあたりは…ま、全然あいつは分かってねえだろうなあ、若いってのはいいねえ」
「ふふ、まったくだ。だからこそ、おっさんおばさんはその分の苦労を背負ってやらなきゃならないってことだね」
「おっさん、なあ。俺もいつの間にかそんな年になったか」
まだまだ現役のつもりなんだがなあ、年の流れってのは怖いもんだな。
うわべは力なく、を装いつつもどこか妙に楽しげにぼやく夫の手に、にっこりと笑んでアルセラは自分のそれをひたりと重ねた。
「あんたは十分、今でも昔と同じくらいいい男さ、ヨルド」
「はっ。それはお前もだ、アルセラ」
重ねた手のひらを握り返され、どこか悪戯のような強さでひょいと腕を引かれる。
その力に逆らうことはせずに、相手からの口付けが下りてくるのを笑ったままアルセラは、待った。




