P3-02 翼を拾い、羽が落ち 2
「――リョウ!!」
馬車から降りて両足をつけた瞬間、きれいに同時に重なって響いた自分を呼ぶ声に顔を上げる。
すっと背を伸ばしてそちらを見れば、予想通りのヘイル夫妻と、その横でいつも通りに糸目でゆるく笑ったような顔のロウハ、そして、もうひとり、夫妻と同じくらいの年なんだろう、優しく思慮深そうな琥珀の目をした、眼鏡の男性がいた。
男性は濃紺の、金と銀の複雑な模様が丁寧に刺繍された、遠目の椋でも分かるような超一品のローブをまったく違和感なく着こなしている。何を言われずとも、その人こそが今回の椋の「依頼人」だと知れた。
しかし今は、丁寧にあいさつ自己紹介をする暇も惜しい。彼らへ向かって一つ頭を下げ、椋は言った。
「詳細はお伝えした通りです。検査、お願いします」
「患者は?」
「どこに連れて行けばいいですか?」
「移動は必要ない。案内してくれ、僕が診るよ」
一歩進み出たのは、その男性――フェイオス・ヴェン・ガイルーティア。
静かで穏やかな声と真摯の視線に応じ、大股でこちらへと歩み寄ってくる彼に頷いて、馬車のドアをもう一度開ける。
ヘイの「小細工」で異常に広くなっている馬車の中に、椋は上半身を再度入れた。音と気配に中にいるほぼ全員が同時に顔を上げた。ただひとり、眠りつづける患者だけが異常に穏やかだった。
「リョウさん! っえ、」
「ッ、ふ、っフェイオス・ヴェン・ガイルーティア様!?」
ほとんど間をおかずにたどり着いてくれた彼の登場に、パニック一歩手前みたいな声を、メンバーの女の人があげた。ほかのメンバーに至ってはもう声もないくらいに眼を見開いて愕然としていた。
ただでさえ中が広いのも、この中の誰も知らないのも何が何やらわからないのも、全部重なってものすごくメンバーたちは身の置き所のなさそうだったのに。若干申し訳ない気分になる。いやそして一瞬の驚きからすぐに納得したみたいな顔になるカーゼットメンバーもどうなのか。内心でつい同時に突っ込んだ椋だった。
そして「彼」――フェイオスとしては、これくらい驚かれるのも想定のうちだったようだ。
明らかに外見と容積が一致していない馬車を見ても、少し眉を面白がるようにひょいと上げただけ。すぐにただ一人「平静」の、患者のもとへと彼は乗り込んできてくれた。
フェイオスが椋を見る。
「彼女だね?」
「はい。アルティラレイザー・ロゥロット、15歳の女性、魔砲士、だそうです」
「そうか。……【白日、透火の深淵のうちに、百花皆死の毒のひとひら、反転を嗤う無象の姿をいま、ここに描き出せ】」
患者の喉許に左手をかざし、ヘイル夫妻も車内に入ってこようとする中、フェイオスは「検査」を実行する。
なるほど検査も魔術だから、できる人が患者さんのところに行けば検査ができるのか。状態が悪すぎて下手に動かそうとしようものなら容易にバイタルが崩れるため、ほとんど検査ができなくて何が何だかわからない――部活で先輩がいつだったか嘆いていたのをふと思い出しかけて、しかし次の瞬間には、鮮やかに彼女の皮膚の上に浮かび上がったもののおぞましさに、椋は眼を見開いた。
誰かが息をのんだ。声にならない声をあげた。がたりと椅子が揺れた。何かをこらえるような声が鳴った。
それほどの異常が、そこにあった。
明らかに、術式紋ではないものが、くっきりと彼女の皮膚の上に浮かび上がっていた。
それは四枚の花弁と、花弁を守るように、あるいは決して離さないよう離れられないようそこに穿つように、複雑怪奇に絡み合い抉り合う細い模様だった。
それだけ見れば綺麗、とも言えそうな、……けれど実際真っ向から眼にすれば、そこはかとない寒気とおぞましさに、気分が悪くなってくるようなかたちをしていた。
ヨルドが嘆息する。
「四枚花、か」
「な、っ何、なのですか、これ、っ」
ひきつった声があがる。答えは彼ら三人以外の誰も持っていない。まだ椋たちですらほとんど何も知らない。検査がどんな結果になるのか、どんな形としてどんなふうに現れるのかすら今この場で知ったくらいなのだから。
視線が、すでに「これ」と戦い続けている三人へと集中する。目の端でリーが、痛がるみたいに半分のまっしろの仮面に手をやるのが見えた。
それを見たのはたぶん椋だけだろう。続けるヨルドの声が、一段トーンを低くする。
「これから伝えることは、一切他言無用だ。約束できんなら、俺たちに彼女の後の治療は任せろ、としか言いようがなくなる」
「なんだよそれ!?」
「そういう類の、あたしたちが、このカーゼット【朝闇】を呼ばなきゃならなくなるような、異常なモノだってことさ」
アルセラが淡々と告知を引き継ぐ。メンバーたちが、さらに、さらに表情をなくしていくのがわかる。
勝手に重くなる胸を、少しでも軽くしたくて椋は息を吐き出した。だって、この空気は絶対に軽くならない。彼ら以外のこの場の全員、もう、続く言葉が分かってしまっている。
告げられるのは、椋が立ち向かうモノ。
ただ穏やかに眠る「だけ」の、彼女の先を、いつか奪いうる異常の疾病。
「この子の病名はヴォーネッタ・ベルパス病。……高い魔力を持つ若者を狙いすましたように苛む、奇病だよ」
それからしばらくは大変だった。
次から次に変化する展開に加えて「呪いの一種であるが、治療方法は未確立」という、この世界にあるまじき告知内容だ。予想はしていたが、やはり全員が荒れた。なぜ、どういうこと。質問は矢継ぎ早に次々続いた。少なくとも現時点ではそれに応えるのはヘイル夫妻とフェイオスの三人の仕事で、椋は、その内容を聞きながら事実を頭の中で整理しようとした。
聞けば聞くほど、改めてぞっとする病だった。
原因は、過去に一度だけ使用された、存在そのものが厳重に隠匿されていたはずの「呪い」だという。患者の多くはある日突然、何の前触れもなく目覚めなくなり、一切の外部からの刺激に反応しなくなる。
そしてただただ眠り続ける。何もできずにただ眠る。つまりは動くことも食べることも飲むことも何もできず、徐々に衰弱していく。
現時点で治療はすべて対症療法でしかなく、根本的な治療法は見つかっていない。呪いであることはわかっているのに、呪いの解除法が見つからない。
どころか、今しがたフェイオスが使って見せた解析方法が発見されたのすら、つい三日前なのだという。
「なんで、……なんでそんなものに、アルが、」
「その答えを、今の僕らは君たちに示せない。すまない」
「……ッ」
落ち着いて全部任せろと言ったところで、あっさり受け入れてもらえようはずもない。
きっともう同じ説明を何度も相手だけ違えて繰り返しているのだろう、三人の調子は静かで、同時に一枚の壁の向こうでものすごく苦しんでいるような感じがした。広いはずなのに酸素が異常に薄い気がした。息苦しい。重苦しい。……どうしようもない。
ほかの誰でもない「この三人」が、「今は完全には治療できない」と告げる。
それはいったいどれくらいのおそろしいことなんだろう。椋には、正直計り知れなかった。
「……」
患者を「院内」へ搬送する間、誰も、何もしゃべらなかった。
誰もの想定外の方法手順で、椋はそこに足を踏み入れることになった。
初めて目にしたそこは、しかし椋には妙な懐かしさを抱かせるつくりをしていた。なぜならそこはまぎれもない「病院」だった。名前は違っても、確かに「そう」だった。
入口から、いくつかの通路を経て病室に向かう。明るく柔らかく、ステンドグラスの高い天井越しに差し込む陽光が目にやさしい。壁は目に痛くない程度のやわらかい白、木目のきれいな床には深紅の絨毯が敷かれ、ところどころに絵画や美術品が静かに置かれていた。
どこも、広くて穏やかで。
耳が痛くなりそうなくらいに、無音だった。
「ここだ」
ドアに嵌め込まれた大きな透明の石に、フェイオスが言って手を当てる。すらり、やはり音はなく、病室のドアが開かれる。
中にいた術者たちが気配に顔を上げ、はっと、一様に悟ったような光を目に浮かべた。
促されるまま、全員中に入る。大きな、広い部屋だった。天井が高いのも相まって、高校の体育館くらいはありそうな気がした。少しだけ仰いだ天井は五角形で、明るいけれど眩しくなかった。ガラスと壁との比率を計算して設計されているのだろう。
進む。あちこち、いくつも天蓋がさがっていた。
中には動く影が見えるものもあったけれど、動くそれは、すべて患者以外のものだった。治癒に従事する人たちは、フェイオスが身に着けているものより薄い藍色の、刺繍も簡素なローブをつけていた。
静かだった。病室の中ですら、不思議なくらいに音がない。
なんでこんなに変な感じがするんだろう。思って、違和感の正体には割合すぐに至った。
――本当に、何も音がない。
モニターの光も音も、表示される数字も、なにもかも。
いわゆる医療機器の立てる、規則正しい音の一切がここにはないのである。
何も変わらないような気がするくらいに、そっと見渡す全体の光景は動かない。強いて言うなら、それこそ行き来する医療従事者たちくらいのもので、そのひとたちの数はちょうど、下がっている天蓋と同じくらい、だろうか。
のどかな陽光と軟風を呼び込むように、窓が開いている。小さく、ようやく聞こえたのは、吹く風と、鳥のわずかな声だけ。
ほかの中の様子は、天蓋にさえぎられて外から見るだけではわからない。
11番と書かれたベッドが、彼女のものになった。
軟風に揺れる天蓋が、またひとつ閉じられた。
「……確かに驚かせろとは言ったがなぁ、リョウ」
そして状況は今に至る。
「会議中」の札が表には下げられた一室のうちに、現在椋たちカーゼットの面々と、ヘイル夫妻、そしてこの「病院」の「院長」が顔をそろえていた。なんかもう苦笑するしかない、といったていのヨルドの顔は、明らかに以前よりやつれていた。
何とも言えない気分になりつつ、肩をすくめる。
「俺だってこんなの予想してませんでしたよ。しかも発症の仕方とか、経過がこれまでの患者さんと少し違うんですよね?」
「ここに定住してるわけじゃないってのも含めてね。まったく、あんたらしいねえリョウ。患者が増えたってのは、まったくもって好ましいことじゃあないけどさ」
「何がどう俺らしいのかよくわかりませんけど……おっさ、あ、いや、ヨルド、さんとアルセラさんは、ちゃんと、三食食べて寝てますか?」
「いいよ、リョウ君。きみが話しやすいように、きみの考えるままを言ってくれればそれでいい」
やわらかくフェイオスが相好を崩した。眼鏡の奥の琥珀の目は、触るとあたたかそうな優しい色で椋を見ている。
若干の気恥ずかしさにあいまいに笑い、かけて、当たり前のように彼に名前を呼ばれたことに気づいた。彼も同じことに思い至ったらしく、ふっと息をつく。
「そういえばちゃんとした自己紹介もまだだったね。僕はフェイオス・ヴェン・ガイルーティア、ふたりの学院時代からの友人だ」
「んで、現レニティアス国王セルクレイド・ラディエル・ヴィエ・レニティアス陛下の腹違いの兄で、臣籍降下してこの治癒宮アンヘルレイズの長になった変わり者だね」
「彼には大した意味はないだろう、そこは」
「こいつにゃなくとも、まわり固める面々には大いにあるだろうよ」
一応、俺にもあるとは思うんですけれども。
言おうとして、やめた。確かに「大した」意味は椋に浸透しない。彼ら三人が「ダメ」だというのが、どれほど絶望的なことなのかいまいち分かり切らないのと同じだ。
椋から何を読み取ったのか、頭が痛そうな嘆息の音がひとつふたつ後ろから聞こえた。
いやでもたぶんそれでいいんだ、と、思うんだ、ほら、フェイオスさん楽しそうだし……初日からのことがことだけに、できるだけ明るく楽天的に考えたい椋なのであった。
「リョウ君、と、呼んでも構わないかい?」
「あ、はい。ええと、」
「僕のことは、フェスでいいよ。国は違えど立ち位置は同じようなものだ、僕にも、彼らと同じように気兼ねなく、気安く些細なことでも話してくれるとうれしいな」
「……はい」
ピアとリベルトが思いっきり目を見開いているのが見えた気がしたが、とりあえず知らないことにした。
それこそ大事なのは、このフェイオスという人が、椋を面白がって一緒に話をしたがるヘイル夫妻と長年の友人だという事実である。ヘイの肩が思いっきり震えているような気がするのも無視だ。あとで相当笑われるだろうことは想像に易い。
見越したようなタイミングでお茶とお菓子が運ばれてくる。しかしセットはなぜか「6人分」で、あれ? と思った瞬間、申し訳なさそうなフェイオスと目が合った。
「リョウ君。すまないが、まず、きみ個人としっかり話がしたい。きみの護衛に外を任せて、ほかは一度、外してくれないか」
「……わかりました」
今更どういう話だろうと思ったが、「6」という数字が引っかかって、ひとまず椋はうなずいた。
特にこのメンツの誰に何を隠す必要もないのに、なんとなくそれが正解な気がした。何を察したのか、振り返るカーゼットの面々もあっさりそれを受け容れた。
部屋の案内をするという、紺色ローブの青年に連れられて椋以外のなかまたちが部屋から出ていく。
出ていきざま、ニヤッとあからさまにヘイが悪そうに笑った。え? と思った次には、その裾から何かが一瞬きらっと小さく光って落下した。
即刻見なかったことにした。……ほかの誰も見ていなければいいと思う。ヘイがわざと見せつけるように落としたシロモノが、まともに探して拾える気もしなかった。
かくして室内は「5人」になった。
なぜか給仕の青年が去らないまま、そのまま室内にいた。
「……それで?」
嘆息したのはフェイオスだった。困ったように苦笑する。
「どうしておまえがここにいるんだ、セルク」




