P3-01 翼を拾い、羽が落ち 1
それはもうあと数時間で、目的地に到着すると告げられてからしばらくしてのことだった。
快適に揺れもなく進んでいた馬車が、突然ぐらりと揺れて止まった。うつらうつらしていた椋は、窓にひたいをぶつけて目が覚めた。
「……ついたのか?」
明らかに寝ぼけた声が口をつく。同乗しているピア、リベルト、ヘイとリーも状況がよく分からないらしく、みんな一様に怪訝な表情を浮かべていた。
しかし窓の外を見ると、まだそこは街道、なんだろう煉瓦敷の道と傍に立つ草や木々、向こうには一面にひろがる畑が見える。ほいと時計へ目を落とせば、あともう少しと言われてからそんなに時間は経過していないことを針たちが示していた。
さらにはよく耳を澄ましてみれば、なにやら言い争うような声が聞こえてくる。
しかもそのうち一方の声を、椋は友として知っていた。
……ねがいだよ、もう、……んとに……!!
いくら……も、そもそも……ない
たのむ、……は、……だって、
どれほど、……とも、……です、……さい
「……モメてる?」
「あー、外出ンじゃねーぞリョウ。十中八九ッつかほぼ確実に、テメエ出せつってんぞコイツら」
思わずぼそっと呟いた言葉を、ヘイが耳ざとく拾いついでに釘をさしてきた。お見通しだとでも言いたげな目線に、椋は眉を寄せる。
自分を指して、そうなんだろうと頷けてしまう状況は、なんともむずがゆく据わりが悪い。そんなに期待されても困る、言いたくなるが、口にしたところで意味がないのでただ息をひとつ吐いた。
車は動かない。動き出す様子はない。
ついついぼやきが口をついた。
「だとしても、なんでだよ。俺なんかに今更何言わなくても、この近くには大病院があるんだろ? しかも貴族とか平民とかなんとか差別しないで、みんな平等に見てくれるってとこが」
「ハッ、そのダイビョーインの長サマ直々にご意見伺いされてる奴が何言ってんだ」
「なんかその形容やめろ」
大病院、「大陸有数の治癒専門施設」アンヘルレイズ。それが、現在椋たちカーゼットのメンバーが向かおうとしている場所だった。
現レニティアス王の即位15周年記念の式典が行われるグラティアード離宮の一角にあるそこは、現国王の、臣籍降下した兄であり、ヘイル夫妻の学院時代からの友人である男が長を務めるという場所だ。貴賤の別なき治癒を掲げ、国内外から多くの治癒職の人間が学びに訪れる場所なのだと、椋は聞いていた。
しかし、大病院の長。なんというか悪の秘密結社もしくはいわゆる「大学病院」的な響きがある言葉である。
妙にそわっとしてしまい、だが残念なことに、この感覚を共有できる相手が椋にはいないのだった。若干の寂しさを感じる間、くだらないやりとりの間にも、外では何やら、とがった言い争いが続いている。
それでも、お願いだから、頼むから!
一分一秒でも早く切り上げようとするクレイやジュペスに、必死に食い下がろうとする声が聞こえる。実際に手が出たりもしてるんじゃないだろうか、相手側がずいぶん切羽詰まっているように聞こえ、気づけば浮かしかけていた膝を、ぱんと横から軽く叩かれる。
見れば、リーが仮面に隠れないほうの目で苦笑していた。
「リョウ君。きみにはこの先に、診るべき患者がいるんだろう?」
「……ん、」
「そのものたちを、救うのを急がねばならないんだろう? そうであるために、きみはわざわざ国の境すら越えて今ここにいるんだろう?」
静かに、諭すような調子だった。
反論の余地などどこにもない、ただの正論であり事実を述べただけの言葉だった。
止まっている時間はない。その通りである。三日前、出立の直前に届いた最後の手紙には、最初期に発見された患者が徐々に衰弱してきていること、けれどその衰弱を止める手立てがないこと、また、新たに二人発症者が確認されたことなどが記されていた。
時間がない。猶予はない。
病がもたらす「眠り」が、本当に永遠に続く二度と目覚めぬものとなる可能性が出てきている。患者は、あらゆる警戒がなされているはずの中でそれでもじわじわと今も増え続けている。若く、将来を嘱望される魔術師が、倒れてうしなわれていく。
それは明確な暗雲だった。分かりやすく不愉快だな、と、手紙の内容に一緒に目を通し、打ち合わせをしている中でアノイは椋に言った。
現国王の即位記念式典に向けて、今はただ、華やかでありさえすればよいのだ。さっき通り過ぎた広場の街灯につないで飾られていた、たくさんの花や星のひかる装飾のように。
つつがなく国を治める王のある、らしいこの国のこの時間軸に、表立って混迷を望む人間はいない。
いや、いるのだろうが、実際、そういうものが裏で糸を引いているという線も探られ続けているらしいが、めぼしい結果は何もない、らしい。
けれど現実、異常は起きている。事態は、静かに既に常軌を逸している。次に誰が巻き込まれて、戻れないかも、だれも、なにも予測できない。
だからこそ、椋は今ここに呼ばれている。
望まれて、揺られてここにいる――いつの間に随分「リョウ・ミナセ」はエラいやつになっていた。
「そう、だけど」
なった、のだが、所詮は庶民の、凡人の椋の感覚はそんなものに簡単にはついていけないわけで。
少しくらい、俺でいいなら見て、話を聞くくらい――つい思ってしまう。外の声の調子が本当に必死なのも相まって、そわそわとひどく落ち着かない。身の置き所がないような感覚に、椋はひとつ息を吐いた。
そしてその嘆息をどう思ったのか、横から違う声があがった。
「俺、ちょっと外の様子見てきましょうか? リョウ兄」
「リベルト?」
目線を上げた先の少年は、にこりと椋に向かって笑った。なぜかその傍らのピアは、そんな手があったか! とでも言いたげな驚いた顔をしている。
椋も少し驚いた。それこそ、「自分がえらい」ならそういう方法もあるのか、という驚きでもあったし、リベルトが、自分からそんなことを言い出したということに対してでもあった。
いやでもピア、たぶんきみが出るのはクレイが許さないと思う。
未だに外で相手を無碍にし続けているのだろう友人を思い浮かべる椋に、リベルトは提案を続けようとした。
「たぶんそのほうが、クレイ兄上やジュペスが話聞くよりも早い――」
笑顔は、提案は、しかし最後まで続くことがなかった。
代わりに中まで聞こえたのは、どさりと何か明らかに倒れてはならないものが倒れる音と、一拍の凍り付くような空白と悲鳴、知らない名前を呼ぶ声だった。
「っ、」
明らかに空気が中も外も変わった。ぞくり、鳥肌が立った。
きこえた鈍い音。地面に、肉質のものが叩きつけられる音。――それはできることなら一生聞きたくない類のもの、人が突然、その場に倒れる音だ。
思考が答えを叩き出すより前に、誰に止められるより早く、椋は馬車から飛び出していた。
見たくなかった予想が、その瞬間現実となって目の前に出現した。
「……っ大丈夫ですかっ!!」
声がひっくり返らないようにするなんて到底無理だった。なぜならそこには、推測の通りに人が倒れている。多分、つい今しがたまでクレイとジュペスに止められていたんだろうその人は、体の芯を失ったように、力なくその場に横たわっていた。
背中に何か、細長いものを背負った若い女の人だった。
足が震えるのを気のせいと放って駆け寄る。肩を叩き、もう一度声をかけるが反応はない。もう少し強く叩いてもまったく身体は動かない。あおむけにさせるには背中の荷物が邪魔だ、ベルトで固定してあるのを見つけて、解かせてもらう。
力が抜け、体位を変える協力を得られない身体の重さを感じながら寝かせた。呼吸を見る。息を聞く。聞く音はあまりに場違いに穏やかに、それこそ「寝息」にとてもよく似ていた。
彼女の仲間なのだろう、知らない顔たちが呆然と椋を見ている。いかにも腕っぷしの強そうなマッチョのモヒカンに片眼鏡の線の細めな優男、すらりと背が高い、踊り子のような格好の女性。
そして、色々言いたいことがあってなにから口にすればいいのか混乱している「護衛」ふたり。
緑と青空色の目に、椋は先手を取った。
「クレイ、ジュペス。何があったんだ、このひとに何が起きた? 説明してくれ」
「……リョウ……」
いくつ苦いものを呑んだのかと聞きたくなるような声で、クレイが呻くように椋を呼んだ。
ごめんな、ふたりが俺のために急ごうとしてくれてたの、わかってた、わかってたよ、ちゃんと。それに、クレイたちが倒れているこの人に何か乱暴なことをしたとも、思わない。
後できっちり謝ることにして、彼らへ耳を傾けながら椋は診察を続ける。
胸は動いている、呼吸はしている。数は1分に12回程度、増えていない、むしろやや少ないくらい。苦しそうな様子もない、気道狭窄を疑うようなひゅうひゅうという音もしない、唇は、何も起こっていないように薄赤い。
首もとを触ると、頸動脈の拍動が指先にしっかりふれた。機械もないから正確には計れないが、頻脈も熱もなさそうだった。
続いて手首で脈をとる、こちらもすぐに触れた。血圧もめちゃくちゃな異常はなさそう。判断しつつ、言葉の始まりを待つ。
促し続ける椋に、ひとつため息を吐いてクレイが話し出した。
「俺たちは何もしていない。彼らが道を塞いでいて、おまえを出せと口論になっていただけだ。どちらも、互いに一切手は出していない」
「彼女は、どうしてもあなたに会わせて欲しい、少しでいいから頼むから診てほしい、おかしいのにどれだけ癒されても治らない、治せない、それなのに今はアンヘルレイズも、式典の関係もあって制限が厳しすぎて入れない、助けてくれ、と。そう、ずっと言っていました。僕らの前で突然こうなる、その本当に直前まで」
見上げる先のふたりは、一様に険しい顔をしていた。確実にその苦さには、椋の行動についても含まれているだろうと知れた。だが申し訳なさは、今一度先送りさせてもらう。
突然倒れ、一切の外からの刺激に反応を返さなくなる。
見た目にはただ本当に眠っているだけで、けれど、なにをしても絶対にもう一度目をあけることはない。
「いきなり、こうなったんだな?」
「ああ。少なくとも俺が分かるような前兆のようなものは一切なかった」
クレイが応じた。「それ」は、何の前触れもなくあるとき突然発症するものであると、椋の護衛でありカーゼット専属の騎士であるクレイは、知っている。
寝息にしか聞こえない、深く穏やかな呼吸が下から聞こえてくる。
椋は軽く唇を噛んだ。気になるのは「彼女がよくわからない自分のからだの不調を訴えていた」というところだ。落ち着いたところでもう一度仲間の人たちには詳しく聞く必要があるだろう。それにほかの患者の経過に関しても、また改めて聞いてみる必要があるかもしれない。
脳内で、何度も何度も読み上げた文章を反芻する。
さらにその先までも引き出して、椋は考える。思考を回す。あるひとつの病、この、レニティアス第二の首都とも言われる都、ニティスベルクをじりじりと冒そうとする混乱、嵐、暗雲の名前。
現在確認されている「それ」の発症者は、全員、豊富な魔力を持つ、それこそ将来を嘱望されるレベルの、若い魔術師――。
顔を上げて、椋は訊ねた。
「すみません、この方のお名前は? 年齢と、職業は」
「……あ、アルティラレイザー・ロゥロット。年は確か今年で15、その装備のとおり、俺たちのパーティの魔砲士だ」
「まほうし?」
「弾薬の代わりに己の魔力を変幻自在に弾とする特殊な魔具「魔砲」を使用して戦闘を行うものを指す言葉です。魔力の銃弾への転換は、消費魔力が膨大であるのに加えて緻密な魔力制御が必要で、実際に魔砲士を名乗れるほどの人間は、おそらく大陸規模で見てもそう多くはありません」
すらすらと教科書を読み上げるように、淀みない調子で必要な情報をジュペスが教えてくれた。
ジュペスもまた、「それ」を知っている。知らせてある。馬車の中にいる彼らにも、椋がこれから相手どるものの概要を伝えてあった。彼ら自身が患者になる可能性についても、伝えた。誰も頑として同道を撤回しなかった。
ふ、とひとつ、息を吐く。強い魔力を持つ若年女性。何をきっかけにというわけでもなく、本当に突然に意識を失ったまま目覚めない。
何がどうして、いきなりこう。
思いながら、椋はクレイに目を向けた。
「クレイ、今すぐロウハに連絡とれるか」
「どうするつもりだ」
「勿論この人たちから同意が得られればだけど、一緒に来てもらう。ちゃんとした方法で調べないことには、今の俺たちには判断がつかないだろ」
ごめんおっさん、アルセラさん。早速無茶ぶりすることになる相手に、椋は内心で詫びた。
同時に早速活躍してもらうことになるロウハは、ひと驚きの後に相当喜ぶ、だろう、たぶん。話のネタが増えたとか言って。彼はカーゼットの先遣隊として、情報収集のために、椋たちに先駆けてレニティアスに既に入って、動いてもらっているのである。
こういう風に「自分」を使われるのが好きなのだと、そもそも本分でもあるのだと、出がけに別れる時ロウハは言っていた。
情報で情報を繋がせてくださいと、笑っていた。
少しだけ目を閉じて、すぐに開く。またひとつ深呼吸をする。思考を、少しでも整えようとする。まだまともに現地に到着してすらないのに、もう既に、何かどうしようもないものが始まっているような感じがした。
ああいや、既に始まって膠着してるところに飛び込むのか。でも、結局どっちでも、たぶん「最初」と同じで、そんなに変わりはないような気もした。
眠る彼女のパーティーメンバーが、何が何やら理解できずに呆然と椋を見上げる。
「しらべる、って、……なにを」
「彼女は、ある病気の可能性があります。確定には僕らでない他の術師の協力を仰ぐ必要があるのですが」
「わか、る、のか!?」
「可能性があります、としか、現時点ではお答えできません。それに、わかったとしても治療が、」
できるかどうかはまた、別の話で。
続けようとした椋の言葉は、ぐっと椋の服の裾を掴んだ拳に、すがるように掴まれた手の感触に止められて消えた。
「……っ頼む。本当に、頼む。こいつを助けてやってくれ」
「ねえ、やっと、やっとここまでになったんだよ、この子。まだまだ、これからの子なんだよ、これから、もっと伸びてく子なんだよ、知ってんだよ、あたしたちは、この子は……!!」
すがるように、椋の服の裾をつかみ震えるこぶしの強さを見る。震える手の、すぐにでも振り払えてしまいそうなよわさを見る。
椋がすべて言い切ろうとする前に、食い入るように、どうか、どうか。必死の、懸命の、命の未来の重さが、ずんと気道を痛く押すように椋に響く。
顔を覆っている人がいた。うつむいて歯を食いしばっている人もいた。どれだけこれまで彼女が「わからないまま」だったのか、それだけでも推して知れよう重い空気。どうして? 「大病院」は、あるのに、行けるはずなのに、開かれているはずなのに、どうして? 何がどうなって、こんな「重症」の患者が、こんなところで誰にも拾われずに見過ごされていた?
今更ざわりと鳥肌が立って、空気をまともに飲み込み損ねてのどが痛くなる。
なにを今更、水瀬椋。情けないと、顔に出ていないことを願いながら椋は自分にあきれた。
「――おねがい、だよ」
何か言える言葉があるなら、教えてほしい。
息が苦しい。けれどそれは当たり前なのだ。医者って、誰かの助けになるって、つまりはそういうことだ。
その人自身を痛める今、連なる過去と、その人を大切に思う、そのひとがそれまでにかかわってきたたくさんの人たちと、このままでは閉ざされてしまうかもしれない未来。
全部、「そうできる」からって理由で、お願いしますって預けられる。
それが、おまえが唯一、どうしたってなりたいって願い続けてるもんだろう――。




