彼は告げ時に手を振って 2
「戻りたいとか、やっぱり思ったりしました?」
二人で廊下を歩いていると、不意にロウハがそんなことを訊ねてきた。
だんだん傾き始めた太陽を横目に、昨日の出来事について話しながら二人は歩いていた。椋が別れを告げてきた、かの場所についてのことだ。
椋はロウハに笑った。
「思ってない。……って言ったら、まあ、嘘だ」
「ですよねぇ」
敢えておどけて言って見せた。両手を頭の後ろで組み、ただの廊下には高すぎる天井を椋は仰ぐ。
時間で言えば、たったの三か月だった。ついこの間まで普通に働いていたはずなのに、既に目にした何もかもが椋には懐かしかった。
一斉に椋を囲んでくれた人々の顔を見て、なぜか涙が出そうになった。
あの場所、クラリオンでの日々が、随分遠い場所にあるかのようだった。
――俺らもちらほら噂で、アノイロクス陛下がとうとうヴァルマス【劒】を得られたとは聞いてたよ。お披露目はまだだからどんな奴かはわからんのだがなあ、しかしそいつは聞けば聞くほど、リョウ、おめえ以外の何とも思えねえじゃねえか。
――しかもあのとき連れていかれてから、あんた全然連絡取れなくなって、ここにも姿見せなくなってたもんね。
――連絡が全然できなかったことについては、本当に、申し訳ないとしか言いようがないんだけど。……あの、そんなに俺だって分かるような話になってるの?
――なってるなってる。というか黒髪黒目の、貴賤の別問わず病人のために奔走する癒士なんて、リョウ以外の誰がいるのって感じ。
――わあー……
さすがにこれには変な笑いが出た。そうだ、そうだと次々賛同する人たちも含めて、人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったものだと椋は思う。
まだ椋は、正式に国内でヴァルマス【劔】としてお披露目されていない。披露式典は、アノイのレニティアス行きの後で盛大に執り行われるのだそうだ。正直やりたくない。すごくやりたくない。
と椋の内心はともかく、そんな超内輪の存在であるはずの椋を、既に下町の彼らはしっかり知っていた。真面目腐った顔しとく訓練しなきゃ、と笑われれば、もう椋も曖昧な笑いで返すより他ない。
本当に誰の言葉も視線も表情も、驚くしかないほど優しく、あたたかかった。
どう考えても、勝手にこの場に飛び込んで、そしてまた勝手に辞めることになってしまった相手に対するものではなかった。
「まあ、でも」
「? 何ですか?」
中空を仰いだままの椋に、ロウハが首をかしげてくる。先の角からこちらに向かおうとしていた侍女たちが、椋の黒を見るやぱっと身をひるがえした――向けられる視線だけ、残る。
既に今日だけでも何度目かの光景だ。向けられるのは奇異、そして「真実」と偽われるものから、既に相当な尾ひれがついて広まっているらしい奇譚への視線。
今日の昼に受けたものとは、到底、比べられようもない。
それでも。
「いやさ。色々びっくりしたしかなり嬉しかったけど、だからこそ余計に、ヘンなこともできないなって」
「あー、まあたしかにありゃあからさまにものすごい兄貴に期待してるというか、それこそ土産話持って帰って来いよというか……でもどうなんですかねぇ、兄貴だったら逆に大丈夫な気もしなくもないような、っつーより、兄貴が完全にお貴族様やらお国やらの型にはまったこと始めちまったら、絶対俺だけじゃなくてあの人らも全員ものっすごい心配するんじゃないですかねえ」
「おいこら、何だそれ」
さらりと笑顔で失礼なことを言うロウハに、椋もまた笑ってしまう。
彼らの言葉と表情の、意味を椋は理解しているつもりだ。優しい、あたたかな言葉たちは本当に素直に嬉しかった。彼らに背を向け踏み入ってゆく世界が、どれだけ途轍もなく混迷したものであるのだろうと思った。
けれど、彼らの手のひらは、最終的に自分の背を押すために差し出されているのだと分かっていたから。
だから椋が言えることなど、ただひとつしかありはしなかった。
「行ってきます。……きっとそれこそ、こういうのも嫌いな人、いるんだろうけどさ」
「いんやぁ、兄貴はそのままでいっすよ、俺もそのほうがずうっと見てて面白いっていうか昨日のあれはついうっかり俺まで涙腺に来そうになりましたもん」
「よく言うよ。隅のほうでめちゃくちゃ料理食いまくってたの俺知ってるんだぞ」
「えええぇえ!? なんてこった!」
大仰にロウハがのけぞって驚く。リアクションが大きくていちいち面白い少年だった。それに「情報屋」を自称するだけあって、とにかく話題がものすごく幅広い。
隣の家の晩御飯から、どこぞの貴族の古代の財宝庫の内容まで網羅していそうな勢いだ。ついこの間半分冗談で言ってみたら、さすがに内容まではちょっと難しいですかねえ、と、特にこともなげな顔でロウハは笑った。
よもやま話を続けながら、目的の場所へと椋たちは進む。
ノックして少しばかりドアを開けて、中に先客がいることに椋は気づいた。ジュペスだ。
何やら難しい顔で、リーと話をしている。腕の調整に来ていたんだろうか。
「……、」
「……っ」
離れていて、言葉はよく聞こえない。リーはいつも通り平静で、ジュペスはちょっと、焦っているのか、困っているのか、そんな感じの表情をしている。
何を思ったのだろう、まだ何が足りなかったんだろう、ぽん、と音が聞こえそうな勢いで、リーはジュペスの義手を外した。
外して、さらに何か言って、それでも納得いかないらしいジュペスに笑う。
「だから君は、今も君の言ったように在ればいいのだと思うよ。君の為すべきこと、目的のために日々邁進する、それだけだ」
「……それでもっ」
必死のジュペスの様子に、なんとなく内容が察せた。ああまた悩んでくれているんだ、本当に別にいいのに。何もいらないのに、助けられた、何とかなった、何とかできた、それを確かめさせてくれれば、本当にそれだけで。
リーが、笑ってジュペスへ肩をすくめる。
「恩着せがましいのも嫌われるがね、ひとつの物事に対して、しつこすぎるというのも考え物だろう?」
「ですが、」
「リョウ君は、それこそ「生きてくれ」と、「生き抜いてくれ」くらいしか、望んでくれと言われたって望まないと思うよ」
「そうだね」
笑って頷き会話に入る。弾かれるように振り向いたリーとジュペスが、驚いたように椋を見て、……次には愕然と、これ以上ないくらいにふたりともが目を見開いた。
少し申し訳ない気持ちも沸いたが、ついでに横の彼がものすごい勢いでさっきから絶句しているのだが、椋はただ、そのまま続けた。
「多少の無理は仕方ない。無茶も無謀も、ある程度はやらなきゃだろ、凡人は。……まあ、だから、あんまり俺が変なことしようとしてたら、一回は絶対止めてほしい」
いやまあたぶん、半分以上この言葉届いてないんだろうけど。
思う通り、彼らはただ愕然としていた。
「リョウ、さん。……いつからそこに」
「ん? ああ。リーさんにさ、創れるかどうか考えてもらいたいものがあって、ちょっとね」
「リョウ君。それなら、どうして君の隣に、」
わざと、では、なかった。けれど頃合いではあると思う。
それこそ昨日、クラリオンでの一件の後、ロウハから言われたのも一因だった。本気で椋を気に入ったと、改めて、カーゼットの情報屋として働かせてほしいと、カイゼイの名に懸けて。
信じられる目だと、声だと思った。
だからまずこの一件から、隠していたことを、知ってもらおうかと、思った。
「いつまでも、隠し通せるもんでもないだろ?」
だってロウハは護衛として、ジュペスと一緒に戦うことになるのだから。
池の鯉みたいにぱくぱく口だけ動かしていたロウハが、そこまで空白だけ食べてようやく、声を発した。
「う、」
ごめんなロウハ、ちょっと刺激が強いな。内心で椋はロウハに手を合わせる。
よく考えなくてもとんでもない光景である。なにしろジュペスは右腕が上腕からすっぱりないし、リーは本物そっくりな義手を手に持ったままだ。
声は次にはようやく言葉になった。
「うでが、もげた」
うん、まったくその通りである。
予想外の長い話を、目的の前にすることになりそうだった。
「……噂よりとんでもねえ事実っつーのに、久々に真っ向からブチ当てられた気がしますわ俺」
うーむと腕組みをしながら、すべてを聞いたロウハは妙にしみじみ言った。
喉を潤すために口をつけるお茶は、既に話の長さを示すように三杯目である。うんうん、頷きながらロウハは続けた。
「いやでもこれで納得がいきました。すっげえよくわかりました、これ以上なく。そりゃジュったんが兄貴至上主義にもなりますわ、それこそ「兄貴らしい」ほかの誰にもできないような方法で助けて、しかも騎士として復帰するための方法まで授けてくれたってぇ話なんですもんね?」
「ロウハ、一応言っておくけど、」
「あっちゃこっちゃに絶対機密が入り込みすぎてて、もうそれこそどこをどれだけ喋ったらいいのかも分かんないくらいのレベルの話ですよねえ。ん、分かってます。さすがに俺もこれは誰にも言いたかありませんよ。兄貴のためにも、ジュったんのためにも」
「ロウハ!!」
「なんだよジュったん、怖い顔して」
ジュペスが声を荒げてロウハを呼ぶ。いつもと変わらず軽快な調子のロウハが気に入らないらしい。外から見ていても、確かに込めようとする熱量はふたりで全然違う、当人と第三者なのだから当然だろう。
しかし何回言っても分かってもらえないけれど、ジュペスも大げさに考えすぎなのだ。
だって当たり前じゃないか、医療者が病人を助けることなんて。それに椋は示しただけだ、ジュペスが決めたことを実行しただけだ。まだ不十分の、なんの免許も証明も持てない椋を信じてくれたのは彼で、100%にはどうしてもできない可能性にかけたのも彼自身だ。
全部ジュペスなんだから、ジュペスの人生なんだから、本当に「生き抜いてくれれば、ジュペス自身が思う人生を生きてくれればそれでいい」のだ。
歯噛みするジュペスの肩を、ぽんっと軽く椋は叩いた。
「ジュペス、落ち着け。いつまでも隠せるような秘密でもなかったんだ。むしろ向こう行って時間なくなる前に、ちゃんと話せてよかったよ」
「……リョウさん……」
真面目で一生懸命、どうにかして報いようとしてくれるジュペスはきっと、これからも何を言ったって椋のため無茶をする。そしてその無茶には、確実に義手の損壊破壊が伴うだろう。ヘイとリーの渾身の作は、椋が願うように何度だってジュペスを守り、結果として使えないガラクタになる。
そんなことが何度も、特にジュペスに一番近いところで戦うことになるはずのロウハに隠し通せるはずがない。
それに椋は、ロウハを信じた。大丈夫だと、思えた。だから伝えた。……考えていた場とは全然違うところでの話にはなってしまったけれども、ある意味、リーも同席して彼女の話も一緒にできてしまえて手間が省けた。
少し疲れたような息をジュペスが吐く。
「楽観的すぎます、あなたは」
「さすがに私も驚いたよ。君は本当にいつも予想外のことをしてくれるね、リョウ君」
「おっしゃることは分かります。ですが、……ですがリョウさん、ロウハは」
「なんだよーなんだよージュったん。んんんんんんなんかすっげぇ俺疑われてて非常に不本意なんですけども兄貴!」
「んじゃちゃんとジュペス納得させられるように、それこそ自慢の話術でなんとかがんばれ」
「うぉおおここでまさかの兄貴からの無茶振り!?」
どんなテンションでも騒がしい男である。ついでに大仰に驚いて見せてはいるが、相変わらず糸目の細い瞳が楽しそうな光を宿しているのは変わらない。
さて「無茶振り」に彼は何をしてくれるだろう。椋が見ていると、ん、とひとつ頷いて、ロウハは笑った。
「まぁ、兄貴にそこまで期待されちゃあ仕方ねぇかっ」
「ロウハ?」
すっとその場で姿勢を正し、ロウハは左手を己の喉にあてる。
左手の中指に嵌められた金の象眼の指輪が光った。家紋なんだろうか、鋭いくちばしとまなざしの鳥と本の模様が精巧に描かれている。
よく通る声で、少しばかり目を開いてロウハは椋に向かって宣誓した。
「此の喉、舌は主へ叛かず。綴りの報番カイゼイが一葉、ロウハ・カイゼイの名に懸けて、齎す報は、拡散の流言は、わが主、リョウ・ミナセを利するためにのみ音と成るものなり」
瞬間、ふわっと緩い風が吹いた。指輪が光り、何かが焼け付くみたいな音が聞こえた、ような気がした。
欠片も表情を変えないで手を外したロウハの首には、小さく何かがうっすらと刻まれていた。
ちょうど場所は、声帯がある、これを失えば一生はっきりした声は出なくなる箇所だった。にこりとロウハがジュペスに笑みかける。
「ど? ジュったん少しは安心してくれた?」
「……」
「んでもって改めて兄貴、ロウハ・カイゼイ、ロウハ・カイゼイをよろしくお願いします!」
「選挙か」
声のよどみなさも相まって、選挙カーから本当に聞こえてきそうな調子に思わず椋は吹いた。というか今ロウハが口にした内容、結構大事だったような気がするのだが、そんなに簡単に「ちょっとの安心」目的で使って構わないようなものだったんだろうか。
いやまあロウハは相変わらずすごく楽しそうで、満足そうにもその顔は見えるのだが。
「ほんとうに、君と過ごす時間は飽きる暇がないね、リョウ君」
「そう?」
「私も彼も、君のすることなすことに圧倒されてばかりじゃないか」
「リーさんも楽しそうじゃんか」
「呆れてるんだよ。まったく君という男は」
半分だけの顔で笑いながら、リーがたぶん完成品の「腕」をジュペスに向かって差し出す。ここまで凍り付いていたジュペスは、無言でリーに促され、そこでようやく、一つため息とともに動いた。
全員の目の前で義手を装着する。人間に似せただけだった魔具が、言葉通りのジュペスの腕になる。
ぐっと視線の先の右手を握りこみ、ひらく。手首を前へ後ろに返し、肘を内へ外へと回し。前に見せてもらった時よりさらに動きがスムーズになっているのに椋は驚いた。
一通りの動作の確認を終えたところで、ジュペスは器用に、憂鬱と諦念と、それでもあきらめない何かを表情の中で同居させて椋を見る。
「リョウさん」
「ん?」
それでもあきらめない、とか言われるか。
首をかしげて次の言葉を待っていたら、椋の予想外に小さくジュペスは笑った。
「……あんまり、僕を困らせないでください」
「へ?」
飛び出した素っ頓狂な声に、明るい笑い声が昼下がりに響く。
まだほとんどが知らないからこその、穏やかな平和なひとときがそこにはあった。




