彼は告げ時に手を振って 1
いつでも戻ってきていい、と。
次々告げられるやさしい言葉にひかりに、彼は顔をくしゃくしゃにした。
「どうして、あなたがそれを知っているんですか?」
不意に投げかけられた問いに、リーは作業と語りとを中断し顔を上げた。万国共通に忌み嫌われる種である彼女の「手」を使い、これからも使い続けるという少年と真っ向から目が合う。
窓からの斜陽に照らされても、夏空のようにどこまでも澄んだ青。
フードの奥から、彼に向かってリーは笑んだ。
「特に、やらねばならないこともなかったからね。会の参加人数が一人増えたところで、彼の邪魔をするつもりは欠片もないし、別に何も変わりはしないよ」
昨日の午後、現在よりもまだもう少し日も高かったころ。
リーとジュペスの「上司」であるリョウ・ミナセは、彼が勤務していた店、リーも以前に一度訪れたことのある酒場にケジメの挨拶をしに行った。手持無沙汰であったリーは、話を聞いて、前日に一度クラリオンを訪ねた。そして、ほんの少しばかりの手伝いを代価に、その場に、姿をくらませたうえで同席する許可を得た。
そう。本来収監・監禁されて然るべき凶悪犯罪者が、ヒマを理由に野次馬目的で、主の大切な場に参加しあまつさえ「贈り物」の一端まで担ったのである。
笑顔で言葉を発したリーの想定通り、目前のジュペスは何とも言えない表情で眉を寄せた。
「……そういうことではなく」
「そうだな。本当にどうして、リョウ君はここまで私を自由にしてしまっているんだろうね。本来ならば私は、千、万の民衆に晒され、石を投げられて殺されていて当然の人間であるはずなのに」
「……」
「まあ、この異様な状態を、執行猶予、などと呼べてしまう彼だからこそなんだろうな。あの酒場での一幕も、ジュペス君が今、こうして、私の目の前にいることも」
並列して己のことを述べられたのが予想外だったのか、少年は青い目を瞠って黙してしまった。彼は今、腕の最終調整の終わりを待っていた。
その表情で、またひとつ光景と言葉をリーは思い出す。彼もまた、何度も何人もの言葉に、行動に目を瞠り言葉を失っていた。
そもそも酒場など開いているはずもない真っ昼間だというのに、昨日のあの場には随分と多くの人間が詰めかけていた。彼はまずその事実に驚き、彼が驚き言葉をなくしたことに、そうだろうなとでも言いたげに一斉に場がわいた。
馬鹿野郎、水臭いだろうがリョウ、と。
ケジメつけに来たんなら、ちゃんと顔見知り全員にキッチリつけてから次に行け、と。
「ずいぶん、たくさんの人がいたよ。あの酒場は割合広いほうのはずなんだが、それが手狭に感じるくらいには老若男女、職種も問わずに色々と集まっていた」
「……何となく、分かる気がします」
「君の相方は、分かっているつもりではあったが、さすがにあれまでとは想像していなかったようだったな」
ジュペスの言葉に、リーは微笑う。そして、改めてしみじみ思う。「彼」リョウ・ミナセという人間の歴史を、本当にほとんどリーは知らない。
護衛としてリョウに同道したロウハには、事前にリーは己がその場にいることを打ち明けていた。かなり早い段階から、完全に壁の花、ほとんどいないものと己を擬態することにしたらしい彼の様子を見て、静かにそのときリーは彼の傍らに寄った。
彼は突然現れたリーに少しだけ驚いて、そして、やっぱりあの噂はホントなんだってことですよねえ、とゆるりと笑った。
どういうことだ、とリーが問う前で、危急に受けた恩は倍にして返せって言うだろ、と、ひとり、男がリョウに向かって口にする。
周囲の人間は即座に次々、そうだ、そうだ、おまえはどれだけのことを、俺たちに、私たちにしてくれたと思っているんだと笑顔で賛同した。
目を細めて光景を眺めるリーに、同じく光景が遠巻きのロウハは言った。
――あのヒトね。あなたや俺なんかを拾い上げる前に、今回とはまた別の病気を解決するために、自分の足でこの王都を駆けずり回ったことがあるらしいんですよ。
――別の病気?
――ええ。付け加えるならその病気に冒されたのは、主にこの王都東地域に住む庶民、まあつまるところああいう人たちだったらしくてね。
――……なるほど。リョウ君なら放っておけなさそうだな。
――そういうことですね。だから、
エクストリーの人間として、加えてあの人に恩を受けたものとしても、少しでもあの人の力になろうとするのは、今ここにいる人たちにとっちゃ何にも不自然なことじゃあないんでしょう。
さらりと言い切ったロウハもまた、彼らの目の前にいる人々と同じように笑っていた。場の中心には、さらに多くの人々にもみくちゃにされるリョウの姿がある。
いつでも帰ってこい、何かしてやれることがあるなら遠慮なく言え。
子どもたちが寂しがるから、ときどきでいいから顔を出してやってくれ、それを言うならじい様ばあ様がたのところだってそうだ――等々、等々。
数多くの言葉に、嘘などひとつもありはしないのだろう。つい思い出し笑いをしてしまいながら、手元の義手にひらいてあった、最後の空白をリーは丁寧にとじた。
声をかけようと顔を上げたとき、それまでずっと黙っていたジュペスが不意に口を開いた。
「ときどき、分からなくなるんです」
「何がだい?」
応じながらリーは立ち上がる。彼の腕となるモノを手に歩み寄る己の姿は、何も知らぬものから見ればさぞ奇怪に滑稽なものであろうとリーは思った。
現在のジュペスの右腕は、代替品だ。性能は完成品と比するまでもなく、非常に粗悪で劣悪で――さすがにもう少し性能をあげることもできたのだが、早々にあまりに悲惨な状態になって「作品」が返ってきたことで、ヘイが少々怒ってしまったための劣悪である。ということにしている。
視線が合ったままの相手から、問いの答えは返らない。ただ独り言を口にしたかっただけなのだろうか、彼くらいの齢の少年なら、ままあること、か。
沈黙するジュペスの前に、リーは膝をつく。彼の方へ義手を差し出すと、ジュペスはわずかに目を細めて、袖をまくり、粗悪の代替に手をかけた。
そして、そこでジュペスの動作は不自然に止まった。
「……僕は、本当にこのままでいいんでしょうか」
「うん?」
代替のかわりに差し出されたのは、随分漠然とした悩みだ。
リーが続きを促すと、彼は一つ大きなため息を吐いた。
「どうしても、まったく想像ができないんです。どうすれば、リョウさんに報いることができるのか。どうすればあの人の役に、少しでも立つことができるのか」
続けられた言葉もまた、前者とは少し違った方向に曖昧で難解である。
その難しさはリーも理解できるものであったから、彼女は苦笑した。相手が彼女であるからこそ、今ジュペスはこんな言葉を口にしているのかもしれない、とも思った。
なぜなら。
「リョウ君は、どうも何というか、素直なようでいて、そのくせ本当に心の奥底からの欲念、渇望、希求、願望、そういった類のものを見せないものな」
それが異なるところの美徳、というものなのだろうか。彼個人の矜持、心の持ちよう、……精一杯の、強がりでもあるのだろうか。
リーは知らない。遠まわしに問うてみたところで、曖昧に笑って流されてしまうのだ。
眉間に縦皺を刻んだジュペスが、首を横に振った。
「けれど、だからといってリョウさんの言うまま、いつまでもあの人に甘えて、ただそれだけでいいはずがありません。……あなたは違うんですか? リーさん」
「……」
「僕には、やらねばならないことがあります。この命は、ただ僕一人のためだけに費やして良いものではありません。……だからこそ、僕はあの人の、ただ一人だけ、僕に生きる道を差し出してくれた手を取りました。先にあるのが異質で異常だと分かっていても、そうするより他になかった。そもそも、この道を選ぶことだって、あの人がいなければ、僕にはできなかった」
かたかたと、腕の代替が中空で震える。
若い騎士は震えていた。いかな理屈を並べ生命の喜びを謳歌しても、同時に、恐怖もまた彼の中から消えはしないのだろう。存在の根本に沁み込んだ教え、メルヴェへの造反。そしてメルヴェが潰すべきとするモノを、己がために利用しようとする状況。
いまさらと切り捨ててしまうことも、できようが。
震える彼に、敢えてリーは笑って見せた。
「なんだ。君は、君自身が決断してこのような体になったことを後悔しているのかい?」
「後悔などしていません。するわけがない。する理由もありません」
「ならば、分かり切っているとは思うがそんな言葉を口にしてはいけない。特に君の恩人の前では、絶対にね」
がばりと顔を上げたジュペスに、諭すようにさらに一言。当然すぎるその言葉に、彼は唇を噛みしめまた口を噤んだ。
彼を踏み外させた黒は、エクストリー王国どころか、この世界の人間ですらないのだという。
その「異世界」ではいわく彼は、まったく何にも取るに足らない、どこにでもいるような若造なのだそうだ。いくらでも代替できてしまう程度の存在でしかないのだ、という。
ならば彼がこれから背負うものは、あまりに重すぎるのではないか。
思わず問いかけたリーに、その事実を教えた男はあまりに冷淡であった。
「彼はな、きっと、奥深いところで常に、「ほんとう」の場所へ還りたいんだ。彼の考える当然がすべて当然として通用する、彼が未熟者であり、取るに足らない存在であるという、そんな異世界に」
「……ですが、」
「ああ、そうだ。だからこそ、私達に関してだけではない。誰に対しても、最後の一歩を踏み込ませようとしないんだ。何しろ異世界から現れた人間なんて、どこかに過去の実例が存在するのか、というところから始めなければならない」
つらつらと、妄想じみてすらいるかもしれない考察をリーは口にする。同時に彼の偽腕へと手を伸ばし、身体との結合を解いた。
ジュペスが掴んでいたのもあり、あっけなく外れて宙に浮く代替。一時的にまた腕をなくした少年に、静かにリーは勝手な言葉を続けた。
「だから、彼は私たちに何も言わない。少し前は、ヘイに対してならば多少は口にしていたらしいがね。……まあ、本人が意識してやっていることなのかどうかは、私にはわかりようもないけれど」
「……」
「だから君は、今も君の言ったように在ればいいのだと思うよ。君の為すべきこと、目的のために日々邁進する、それだけだ」
「……それでもっ」
目の前にする青は、どこまでも天空が如く気高い。
潔癖な少年だと、リーは改めて笑って肩をすくめてみせた。
「恩着せがましいのも嫌われるがね、ひとつの物事に対して、しつこすぎるというのも考え物だろう?」
「ですが、」
「リョウ君は、それこそ「生きてくれ」と、「生き抜いてくれ」くらいしか、望んでくれと言われたって望まないと思うよ」
「そうだね」
そしてなぜか、すぐの同意は求めていなかった言葉に即時の応えが返る。
リーでもジュペスでもないその声に、反射的に二人分の視線が向かった。目を見開く。
「多少の無理は仕方ない。無茶も無謀も、ある程度はやらなきゃだろ、凡人は。……まあ、だから、あんまり俺が変なことしようとしてたら、一回は絶対止めてほしい」
ひらひらと視線に片手を振って、笑顔でそんな言葉を二人に向かい口にする人物。
間違えようがない黒の色に、呆然とした口調でジュペスが彼の名を呼んだ。
「リョウ、さん。……いつからそこに」
「ん? ああ。リーさんにさ、創れるかどうか考えてもらいたいものがあって、ちょっとね」
「リョウ君。それなら、どうして君の隣に、」
リーも言わずにいられない。カーゼットの主であるリョウの傍らには、想像を絶する奇怪の光景に、糸目を通常の大きさにまで見開いた少年の姿がある。そして今、リーはジュペスの義手をまだ手に持っており、ジュペスはジュペスで、先ほど外した代替の義手をまだ左手で持ったままなのだ。
しかしリョウは、むしろ困ったとでも言いたげにリーたちへ笑って見せる。だってさ、と。
「いつまでも、隠し通せるようなもんでもないだろ?」
「…………う、」
声にもならずぱくぱく口だけ動かしていた少年が、ようやくそこで一声を発することに成功する。
彼は平然としたリョウの表情と、目前のリーたちの様子を見比べ、そして。
「……うでが、もげた」
呆然と、幼子のように一言。
事態も経緯も、何も知らぬ少年――ロウハは言った。
びっくりするほどたくさんの「おかえり」に、あたたかい皆様のお言葉に毎回泣きそうになっております作者です。本当にありがとうございます。これしか言えないのが非常に歯がゆい。
次はおそらく5日更新…かな?
第三節本編も含め、がんばります~。




