それは未だ見ぬ光の欠片 2
リベルト・エピの最も古い記憶は、灰色に雨の降りしきる冬の路地の光景だ。
彼は親の顔を知らない。自分の「生まれの名」すら知らない。リベルトという人間が始まったのは、冬の冷雨に打たれて死にかけていた彼を、幼い澄んだ碧の瞳が見つけ拾い上げてくれてからだ。
死にかけていたからなのか、或いは本当に一度、死んだからなのか。当時の記憶は全体的にぼんやりとして曖昧である。
しかしちいさな、優しい手と、からだの芯のさらに奥までしみとおるようなぬくもりの感覚だけは。
あまりにもくっきり、しっかりと、彼というものの揺らがぬ中心に根を下ろしている。
――リベルト。
彼を見つけ、ずいぶん長い時間をたくさんの絵本とにらめっこして名を与えてくれた小さな主。大貴族の武術指南の家柄に生まれながら、彼女は人が無闇に傷つくことを嫌い、むしろ誰かの負った傷を少しでも癒し、痛苦を和らげられるような人間であることを望む人間だった。
つながらないのはその血だけで、その在り方は確かにルルドのものだと誰もが断言する、武の才溢れる兄がいたこともあってだろう。武の家にあっては異質な彼女の思考を、望みを、努力を、誰も否定することはなかった。
そしてだからこそ、己に魔術の才覚があると分かり、なおかつ治癒と地の攻撃魔術という、極端に異なる方面に強い適性を見出されたとき、リベルトは思ったのだ。
この主のすぐそばで、彼女を守るために自分は力を使ってゆけばいいのだ、と。
強くしなやかでかつ可憐な、優しい彼女を、見守るためにすべて、捧げることができるのだ、と。
「……俺、これで何度目かなんですよね。本当にそれでいいのか、本当に、おまえ自身がそうすることを望んで、その意思は絶対に揺らがないのかって、聞かれるの」
長い話を続けながら、ふっと小さくリベルトは笑った。ついつい、落ちてしまった笑みに、やや怪訝そうな目を向けられた。
だから、自分の最初の動機は、不純であったとリベルトも思う。心底から治癒魔術というものに傾倒しているのかと問われれば、少なくとも魔術学院に進学した当時は、確実に首をひねってしまっていたことだろう。
主が近くで守れるなら、多分それだけでよかったのだ。
己の適性もある場所で、彼女が彼女らしくあるのを守れるなら、それだけでもリベルトは満足だったのだ。
「だっていつも、リベルトはわたしにつきあってついてきてくれてしまうから」
「そりゃ、俺はピアレティス様の従者ですからね。まあ今回に関しては、「そんなこと」だけで決めようなんてしたら、ホント容赦なしにあっちこっちからぶっ飛ばされそうな予感しかしませんけど」
ピアの言葉に笑って応じる。まずあの「上司」、リョウからして、今すぐ戻れと真顔で言ってくれてしまうことだろう。
たくさんの秘密と彼本人にしかわかりようもないことを、山のように考えたり考えなかったり忘れたりボケたりしながら。だって俺は、きっと変なことしか言わないししないし、あいつが望んでるのも確実にそういう事なんだろうから、なんて言って。
けれど、当然己の意思で、リベルトは元の場所に戻るつもりはない。――考えていると、リベルトの笑みをどう思ったかジェイがため息を吐いた。
「当たり前だろう、そんなことは。……今以外に言う機会もなさそうだから言ってしまうが、君たちが担当した症例は、軒並み患者の満足度と祈道士への信頼度が非常に高かったんだ。回復速度や怪我・病気自体の治り具合といったところでは他に劣るところがあっても、君たちふたりはその部分で、おそらくこの場にいる誰よりも優れていたんだよ」
「え?」
「でもね、だからこそ惜しいとも思うし、得体の知れない、何をするのかも誰にも分かってないような場所で誰も知らない実績も何もわからない人物についていくことが、本当にあなたたちのためになるのか疑問なの。ルルドさん、エピ君、あなたたち、ふたりとも、まだ自分たちが祈道士としてだけでも、知らない術式や治療法、病気や呪いがたくさんあるってことは分かってるわよね」
思わず顔を上げたリベルトたちに、チアンがさらに言葉をついできた。言葉を発さずとも他の仲間たちの考えも同じなのだろう、じっと二人を見据える視線が、どうなのだと問いかけてくる。
尊敬すべき先輩方に、褒められるようなことができていた自分たちのことは嬉しい。そして「役職つき」の祈道士はおろか、目の前の先輩たちにすら、ひとりの祈道士としての能力は敵わないのだということは、悔しい。
学ばねばならないことは、彼のもとでなくともどうしようもないまでに多い。
だが。
「少なくとも、分かってはいるつもりです。でも、」
「ならば、そのような未熟な者が、あなたたちの言葉を借りるなら、「不可思議の理論で、私達とは異なる視点で、神霊術と創生術、いずれに偏るのでもなく双方を組み合わせ治癒を行っていく」という人物のもとについたとして、あの方になにを提示できるのですか? 本来祈道士として学ぶはずであった知識と技術は、どこで、誰から学ぶつもりなのですか」
「エルネッタ様……」
「さらに言うなら、仮に私たちからは学ぶことのできぬ類のものを、多くあの方が持っている、あなたたちに教え伝えることも可能であるとしましょう。しかし何を、二種の相違をいかに学んだとしても、実際に創生術を使用するには、私たちの誰もが知っている通り、神霊術とは比較にならないほどの多量の魔力が必要になります。少しでも何か間違えば、本来は救えた命を救えなくなることも、あるかもしれません。……それに」
静かに流れていたエルネッタの長広舌が、そこで何か言いよどむように止まった。
わずかに空気に沈黙が流れ、だれも、何も言えなくなる。向けられるのが正論であるがゆえに、下手な返答などふたりにはできるはずもないのだった。
ややあって重い空間を破ったのは、いつもみんなの後ろで無口に微笑んでいる同期の少女だった。
「ねえ、……二人とも、本当に、戻っておいで、よ。……ねえ、どうして、そんな、難しい方に自分から、わざわざ行こうとするの」
「ユーシィ」
「そう、だよ。……そうだよ、さっさと、戻って来いって本当に。つーかリベルトおまえ、おまえさ、普通に学院の創生術実習のとき、一発簡単なのやっただけで死にそうな顔してたじゃねーかっ」
「そ、それにもももし二人がいろいろ知って、経験も積んでさっ、修行とかもやっちゃって創生術使えるようになったとしても、実際に治療に祈道士が創生術を使いだすなんて、きっと上が黙ってないよぉっ」
「い、いやそれ絶対だろそうだろ! 上に、創生術がキライだって人多いの、二人とも知ってんだろ? もしかしたら、いやもしかしなくても、何かあっても、なくてもさあ、ふたりの祈道士の資格を取り上げたりとか、そんなことまでされるかもしれないんだぞ!」
「というか二人がいないと、なんかうちら、うまく回り切らないんだってば! ホント、お願いだって、ふつうに、一緒にやろうよ! その方が、絶対幸せだし、平和だし、楽しいよ!」
ひとりの、ユーシィの言葉により、同期たちの声が一気に堰を切った。勢いにただただ圧倒されて、言葉と、感情がぶつけられるのを見ているしかできない。
もともとここに来ているのは、三人のカルネリア【詞紡】含め、リベルトたちに友好的に接してくれていた一団だ。彼らが向けてくれる声、視線、表情は、ただただ純粋にリベルトをピアを必要としてくれていて、二人のことを心配してくれてもいて。
だからこそ、最後に耳に入った言葉が妙に、リベルトの耳には引っかかった。
彼、あるいは彼女らと、もとあったように祈道士として、
順々に様々なものをこなして過ごしてゆくほうが幸せで、平和で、そして、楽しいこと――?
「そういう、ヴェールでくるまれて、自分の術で、誰かが、死んでも?」
今では随分見知ってきた、同じ組織の仲間ともなった少年の絶叫が意識によみがえる。
リベルトがリョウというひとを知ることになった理由、神霊術が猛毒となった瞬間の筆舌に尽くしがたい異様の光景が、真っ青な顔で震えていたリョウが、何もできず、何が起こっているのかすらわからずにただ状況を傍観しているしかなかった、少し前の自分の姿がまざまざと思考に浮かぶ。
ぞくりと、ひどく嫌な寒気が背筋を逆走った。知っている。あとで思った。吐きそうになった。あの手は、彼に死の恐怖を叩きつけたのは、猛烈な苦痛を穿ったのは、少しでも何か違えばリベルトであったかもしれないのだ。
もしもあの場に、リョウがいなかったら。
もし、だれも何も知らないまま、彼があの場所に放置されたままだったとしたなら。
「リベルト?」
「俺は、……俺が、嫌だ。そんなこと、絶対にしたくない。そういう可能性があるのを、もう、俺は知ってるから、知らなかったままでしか進めないとこには、俺は、戻れない」
不足がある。分かり切っている。独学には限界がある。特に治癒という分野は、勉学はもちろんのこと経験も大いにものを言う。
けれど予めリベルトの目の前に用意されていた轍をそのまま踏んでいけば、リベルトはいつかどこかでジュペスを見逃すのだ。見逃し、いたずらに辛苦を長引かせ、挙句の果てには殺してしまうかもしれない。
ただ恐怖だけ植えつけられて、そのうえ、ふたつの治癒魔術を混合したがゆえに目を瞠らずにはいられない速度で回復したジュペスを見た後で。
もとに、戻れるわけがないのだ。……追放されてしまうかもしれない、資格が失われるかもしれない、今、目の前で心配してくれている友人たちとも言葉を交わすことすらできなくなるのかもしれない、分からない、結局はすべては不確定の未来にしかない、仮定だ。
だが、やはり不可能なのだ。意志は、未来に向く方向は、既に彼を向いている。
ぐっと両の拳を握りしめたリベルトを見つめ、ゆっくりと、傍らのピアもまた静かにうなずいた。
「……そうね」
「ピアさんっ!?」
一度閉じた美しい碧眼を、ふわりともう一度彼女は開く。
そして小さく、文言を唱えた。それは既にこの場に張られている、盗聴を防止するための術式をさらに強化するためのものだった。
ほとんど音もなく強化を終えたピアは、集中する視線たちに向き合い、改めて口を開く。
「ここから先はどうか、本当に絶対に、ここだけで留める話としてくださいね。……以前のアイネミア病の件でも色々とみんなで意見し合ったことでもありますが、やはり神霊術は、万能の術式とは言えないのです」
「そ、……れ、は」
治らない病、悪化する症状。
何が悪いのだと、それこそ本当に毎日毎晩、この場にいる全員よりさらに大人数で様々な意見を交わした。しかし疑念は淡い疑念のまま、光の王様の帰還により、ぷつりと完全に断ち切られてしまった。
まだまだ直近の出来事だ、場のだれもの記憶にも新しいのだろう。顔を曇らせる面々と、唇を引き結んだピアの顔をリベルトは見比べる。
瞬間、ぱちりと彼女と視線があった。頷かれた。
ふ、と一つ息を吐いて、リベルトも彼女に、頷き返した。
「マリアはあのとき、神霊術によってひとりの少年を殺しかけたんです」
「な、……え、えっ!?」
「そして少年の命を救ったのは、俺でも、ピアレティス様でも、他のどの祈道士様でもありませんでした。その場に居合わせたヴァルマス【劔】とその護衛騎士の咄嗟の機転によって、場に召喚されたカウルペールの長、ヘイル癒室長閣下だったんですよ」
もはや言葉もない、とは、まさに今目の前で口を開いたまま絶句する皆々の形容だろう。
そして彼らへ紡いでゆくこと、それ以外の言葉も真実もリベルトにはないのだ。
「俺たちは、そのすべても、そのあとも、その少年がどのように病を乗り越えて回復していったのかもすべて見ています。だから、もう俺たちは、……俺、リベルト・エピは、神霊術だけでは何が足りないのか、創生術はいかに使用するべきなのか、そういうことをすべてヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】から学ばないうちは、ただ祈道士として神霊術を学び使用していく者には、戻れない」
「……そんな、」
「無茶苦茶で、到底信じて貰えないようなことだってのは、もちろん俺たちにも分かってます。だからこそこんな、皆が来てくれたのは、びっくりしたけど嬉しかった」
「けれど、申し訳ありません。もうわたしは、わたしたちは、それぞれの意思で、あの方を支え、学ぶことを選びます。そうすることを、選びたいのです」
きっとどれだけ言葉を重ねてみたところで、すべての真実を詳らかにできない限りは、いや、事実すべてが語れるようになったとしても、たいていの人間はあのとき起こったことを、そして、あの黒色のヴァルマス【劔】のことを信じてはくれないのだろうけれど。
それでも意思は変わらない。最後に根本に残るのは、もう理由も明確には言葉にできない「そうしなければならない」という衝動なのかもしれない。
長い、重い沈黙が、場に居る全員へと落ちた。
最終的に祈道士たちが、若い仲間たちがふたりへと出した言葉とその意味については、……また語るところがあれば、別のところで改めてお話しすることとしよう。




