つなぎ結びの細糸は 6
口にするには最適な、おそらく彼が予定していた温度よりは少し低いカップの中身を一口含む。
覚えているのと何も変わらないまるい味がして、ふ、とひとつカリアは息を吐いた。奇妙なくらいにほっとしてしまう自分がいるのを、自覚する。
そんなカリアの様子をリョウは、彼女の目の前で椅子に前後さかさまに腰かけて眺めていた。何を考えているのかは、今のカリアにはどうにも読めない。
二人の間に言葉はなく、ただ、室内は静かだった。
魔具師が部屋から去って行ったあと、とりあえず座るようにリョウから言われ、言われるがまま遠慮がちにベッドの端にカリアは腰をかけた。
そして、はい、と無造作にリョウからゆらゆら湯気のあがるカップを渡されて、……そして互いに何となく沈黙してしまい、今に至る。
「……ん?」
「ぁ、」
わずかに首をかしげたリョウと、不意に真っ向から視線が合う。
カリアは思わず、手を止めた。凪いだ黒色は室内光では、いつも以上に深く、わからないもののように見えた。
あたたかく湯気をたてるカップを、ぎゅっと両手でカリアははさみこむ。
手のひらは彼から与えられたものであたためられても、本当にカリアが求めて来たものは、カリア自身から口を開かなければ、手に入らない。
「……リョウ、」
「ん?」
「そ、の、……あの、」
いまさら、うまく言葉が出てきてくれないことが悲しくなる。喉もとで言葉がつっかえて、息をするのさえ苦しくなるような感覚を抱いた。
震える指先に、さらに力を込めた。
そうして、少しだけでも彼に言わなければならない言葉を――
「どうして、……おこら、ないの?」
「え?」
予想外な質問に、わずかにリョウが目を見開く。同じような声を、内心でほぼ同時にカリアもあげていた。
違う、何言ってるの私。言いたかったことは、伝えなきゃいけないのはそんなことじゃないでしょう。
そうじゃなくて、違って、……私は、ただ、
「あー、それなりには怒ってるというか、理不尽だとは思ってるぞ? なんだかんだでいじめられたり怒鳴られたり縛られたり地味に死にかけたりした上に、待てど暮らせどカリアは来ないし」
「……ぅ、あ、ご、……ごめん、なさい」
「でもまあ、逃げたくなるのも、正直めんどくさいとか思うのも、まったく分からないわけじゃないよ。俺も、カリアも、色々あるわけだし」
「で、でも、だからって」
「なんだよ、カリア俺に怒られたいの?」
「ち、ちがっ、」
思わず顔を上げた瞬間交錯した目線の、あまりに静かに凪いだ黒の色に上げかけた声が途中で消える。
声と同じく彼の顔は、大きな感情の揺らぎのないまま、ただ穏やかだった。少し笑みさえ交えて彼女へ言葉を向けてくるリョウが、どうしてか、ひどく遠いような感覚を抱く。
そもそも今、反射的にあげかけた否定は本当に「ちがう」のか?
波がないから、つかめないから、だからこそ彼がどこに「在る」のか分からなくて、どこまでも不安が終わってくれない。自分の揺らぎと彼の凪の差が怖いくらいで、不安になっている、――ああ、そうだ、ただ、それだけなのだ。
違うことなど、なにもない。
少しばかりの沈黙の後、カリアは首を横に振った。
「ううん。違わない。だってあなたが怒ってくれなきゃ、私は、あなたに何から謝って、何から償って変えていけばいいのかも分からない」
「カリア」
本当にしようもない言い訳に、少し驚いたように呼ばれた名前に、カリアは自己嫌悪のままに思わず俯き胸元を握りしめた。
怒っていると言いながらも彼女の目の前の相手は今はただ淡々としていて、その起伏のなさが余計に、彼女の内側に自己嫌悪の感情をつくる。
わからない、わからなかった。なにも、何一つだって。
だから逃げた。だからこの場に、彼の前に現れたくなかった。
だって、どうしても怖いのだ。彼に何の利益をもたらすこともできない自分が、むしろカリアというものが持つ多くのもので彼に何かしらの害悪を与えてしまう、それだけである自分を、いらないと言われてしまうことが怖い。
大切にしたいと、思っている。願っている。でも。
リョウが口を開いたのは、自身のふがいなさにカリアの胸元のこぶしが震えた、そんなときだった。
「あのさ、カリア」
「……っ」
少しの沈黙の後の声は、先ほどまでの凪に加えて少し困ったような風情を漂わせていた。
顔を上げられないままのカリアに、リョウは、ふ、と苦笑する。
「そこまで思いっきりビビられてたら、俺だって怒れるもんも怒れないよ」
「……」
「そもそも俺が怒鳴って喚いて暴れまわって、それで何か好転するならともかくさ。今ここで俺がそうしても、ただでさえ萎縮しきってるカリアが、今よりもっと引っこんじゃうだけだろ?」
ぎ、と、リョウが逆さに座っている椅子がその時小さく音を立てた。
どこまでも冷静で客観的で、感情と言えば現在のカリアに対するものだけでしかない彼の言動に、思わず深々とカリアはため息を吐いた。
なぜかものすごく負けたような、そして同時にどこかに風穴があいてしまった気分になってしまう。それは違和感とただ呼ぶには、ずいぶんとひんやりした心地の良くない感覚を伴っていた。
ため息とともに吐き出すように、カリアは言葉を口にする。
「……私の馬鹿さも相まって、今までにないくらい、あなた、大人みたいね」
「なんだそりゃ失礼な。これでも俺、23だぞ。俺のとこでだって、もう社会人してるヤツの方がずっと多いくらいのトシなんだぞ」
「ごめんなさい。……でも、」
大層不本意であったらしいカリアの言葉に、目を見開いたリョウが少しばかり彼女の方へと身を乗り出して反論してくる。もう一つ小さく苦笑して首を横に振ると、カリアはわずかに目を細めた。
カチリと、何かがはまった音。今の彼の表情を見た、その一瞬で、つい今しがたの冷たさを、何かに穴が開いてしまったかのような感覚の正体をカリアは理解した。
だってさっきまでの彼の顔は。カリアがどこまでも下手を打ったがゆえに、彼に、させた表情は。
彼自身そのままの感情の、発露した結果として生まれたものでは、なかったのだ。
「あなたにそんな風に、笑ってほしくないの」
「え?」
「いろんなこと、全部ひとりで完結させて、私の馬鹿とか、いろんな場所からのたくさんのものとか、全部ひっくるめてあなたひとりだけで背負って、……でも、それが自分は「別」の場所の人間なんだから当然なんだ、って、思ってほしくないの」
「……カリア?」
「私なんかがこんなこと言っても、あなたが困るだけだって分かってる。……でも、ごめんなさい、やっぱり、すごく嫌、」
訝りの表情で首をかしげるリョウに、小さくカリアは首をまた横に振った。
カリアの知る彼はいつであろうと、自分の願い、夢、そんな名前のつけられるもののために一生懸命だった。愚直で青臭いと笑う人間も、決して少なくないほどに、「異なる」自分が動き出したことで生じ始めたすべてのことに対して何とか彼なりに向き合おうとしていた。
だからこそ今、カリアは恐ろしかった。このまま何もせず何も言わないままいれば、彼は不意に何も言わずに、誰の手もすり抜けてどこかに行き去ってしまいそうな気がした。
そうしてもう二度と、この国には、カリアの前には現れない、戻ってこないように思えて、ならなかった。
彼、リョウ・ミナセという青年はきっと、「ひとり」で「唯一」であることを、ある程度は当然として呑み込んでしまえる。
気持ちに嘘がつけないくせに、彼は妙なところで要領がいい。そして同時に何につけても、与えられるものに対する許容量が変に大きすぎるのだ。
だって今までカリアは一度も、彼の抱えるあの不安定なひかりの理由を聞いたことがない。
そんなこと、おまえに話して何になる――考えると同時に滲んだ声を消そうとするように、カリアは腰かけていたベッドから立ち上がった。
「そんなふうに、遠くで笑わないで。何もかも呑み込もうとなんてしないで。……おねがい、」
みっともないくらい声が震えた。どうしてこんなに感情が駆り立てられるのか、胸が苦しくて、焦ってしまうのかもわからない。
わからないまま、見上げてくるリョウへと一歩歩み寄った。
椅子の背もたれを抱えていた彼の手のひらを、どうしてかこれも震えている手でカリアは握りしめた。
「きらいに、ならないで、……離れて、遠くに、いかないで……っ!」
なんてむちゃくちゃなわがままだと、思った瞬間膝が崩れた。自己嫌悪で死ぬことができるなら今はまさにその時かもしれないと、どこかで考えたりもした。
触れた瞬間、びくりと驚いたようにカリアの手の下でリョウのそれは跳ねた。リョウの動きかあるいはカリアのせいか、カタンと、何かが近くで倒れたような音がした。
ばくん、ばくんと、自分の心音だけが耳元で異様な大きさで聞こえる。心臓が胸をせりあがって、息を吸うのも痛くて苦しい。
そんななかでリョウの手は、しばらくカリアになされるがまま、静かに握られたままだった。
決して短くない沈黙の後、ややあって、不意に一つ笑うような息をリョウが吐いた。
「……そういうこと、あんまりホイホイ人に言うと誤解されるぞ。カリア」
「もうあなたに誤解されてるのに、誤解されるようなことしかできてないのに、これ以上誤解されるものなんてあるわけ、ないじゃない」
「あー、いや、……だからさ、」
今目の前の彼のことは、触れたままの手のひらの温度でしか俯いたカリアには分からない。リョウの発した言葉と、彼の逡巡の表情を、その意味することを今の彼女は知りようもなかった。
また少しの沈黙の後、今度はなぜか、どこか観念したかのような息を深々と彼は吐き出した。
するりと彼の温度が消える。同時に聞こえたきしんだ音は、彼が椅子から立ち上がったゆえのものだ。
思わず顔を上げた瞬間、今まで彼女が見て来た中の誰より黒い色と真っ向から視線が合った。
「カリア、とりあえずほら、ちゃんと立って、もっかいベッド座って。そのままだと膝痛くなるぞ」
「え、っあ」
「まったく、ホントめんどくさいな。俺も、カリアも、どっちも」
「リョウ……?」
彼は何の訓練も受けていない一般人だ。掴まれた腕を払いのけることなど、無理やりにカリアを引っぱって立たせ、もう一度ベッドの上へ戻そうとするリョウを、拒むことなど彼女にはたやすいことのはずだった。
しかし、思っても彼女の体は動かなかった。なされるがまま再度ベッドの上に座らされ、ぎしりとまたベッドがきしむ音を聞いた。
ただ馬鹿の一つ覚えのようにリョウを見ていることしかできないのは、めんどくさいと一言で自他を言い切る、リョウの呆れ笑いの表情ゆえなのか。端的なその一言が、あんまりにもぴったりと現在の状況にはまりこんでしまったからなのか。
よっ、とひとつ声とともに、カリアのすぐ隣が彼の重さできしむ。二人分の重量を受け止めるように作られたわけではないシングルベッドが、ギイッと抗議するような音を出した。
声が出せないままのカリアに、もう一度やれやれと言った風情で息を吐き出して笑ってリョウは口を開いた。
「別に俺は、何も変わらないしどこにも行かないよ。そりゃ変わらなきゃいけないところもこれから山のようにあるんだろうけど、でも、変わらないし、変われない。だからここ以外、どこにも行けない」
「どういう、こと?」
「俺はただイシャになりたいってわがままをかなえたいだけの馬鹿で、動き続けてる理由なんて、ホントにただそれだけでしかない。無茶も、無謀も暴挙も色々、俺自身にもどうしようもない。……そういうこと知ってて、その上で何かしら俺に言ってくれるような人がいてくれなきゃ、俺なんてすぐどっかでぺしゃんこだからさ」
軽い調子で肩をすくめて、リョウは気の抜けた表情で笑う。それは確かに彼にとっての事実で、そして一部以外には確実に、これからはおいそれと口にできなくなる類の言葉だ。
声もなく見上げるカリアに、その表情のまま、彼は続けた。
「そもそも俺はもともと、大してすごくも器用でもない。今はただワガママ勝手ばっかり言って、で、その言葉の方向性が変な風に状況に当たり続けてるだけだ。そういう変化球しか当たらないような、状況がたまたま、連続して俺の目の前にあったってだけだ」
「でもリョウ、結果としてあなたは」
「だって実際、この世界はこれまで、ずっと異端がなくても、普通に、当たり前に進み続けてただろ」
思わず反論しようとしたカリアを、リョウは片手で押しとどめて更に言葉を紡いだ。
とりあえず全部言わせてくれ、とでも言われているような気がして、またカリアは何も言えなくなってしまう。リョウは続けた。
「でも俺は、今ここにいる。それはもう仕方ないことだ。で、微力でも、何かできるかもしれないってことも、まあ、それなりに確かだ」
「……うん」
「それに、それこそここ最近だけそういう「常識」が通用しないことが起きてるんなら、もしかしたら俺が戻るための方法なんかも、そのあたりにぽろっと、落ちてたりするのかもしれない。そう考えたら、案外これからの立ち位置も、悪くないんじゃないかなとも、思えてきてさ」
「えっ?」
その瞬間彼が発した言葉を、カリアは理解することができなかった。
しかしリョウは変わらぬ調子で、やはり言葉を紡ぐのだ。
「やっぱりさ。誰が、どれだけ何を言ってくれても、ここで俺が学ぶべきことがどれだけあっても、……それでも、俺は戻りたい。今の中途半端なままでイシャとしての俺が止まったままなのは、どうしたって凄く嫌なんだ」
「……っ」
さらりと当然のことを口にするような口調でなめらかに告げられた内容に、もはや声もなくカリアは目を見開いた。目の前が真っ白になるような、何かひどく冷たいもので頭を殴られたような感覚が全身を走り抜ける。
戻る。戻るための方法、……この世界にいる自分のままでは、嫌なのだとリョウは言う。
異なる世界のひとである彼が、自分の場所に帰りたいと言う。
そのための方策を探す手として、この国に、この世界の表舞台に出ることもありなのかもしれない、と言う。
当たり前のことじゃないかと、思考の端でささやく声があった。一介の酒場の店員と国王直属の組織の長、入手できる情報量などもはや比べるまでもない。
むしろそれにショックを受ける、必要性がどこにある?
今まで直接に「彼」自身に関するこれからのことを、彼が語ってくれたことはなかったから、そぶりを見せることもなかったから、だからだと?
「まあ、これはあくまでも俺の希望であって、どこにも何の根拠もないんだけどさ。……だから俺は、どこにも行かないよ。そういうことを抜きにしても、そうそう、カリアたちみたいな奇特な人たちが他にもいるとも思えないし」
カリアの動揺などいざ知らず、いや、知っていても変わらないからか、どこまでもリョウは静かに己の思考とこれからの方針を告げて、カリアの方をまっすぐに見る。
どうしてか、先ほどまで感じていたものとは少しだけ種類の違う動悸と息苦しさを彼女は感じた。
非常に納得できる内容であるし、少し前のカリアであれば、一も二もなく協力すると笑顔で言い切れていたであろう、ことだ。なのに、わかっているのに、それでも心臓のあたりに覚える、奇妙な感覚が消えない。
指先が冷たい。痺れてしまったかのように、自分のものでないかのようにうまく動かせない。
同じように口も動かせず、声の出せないカリアをどう見たのかリョウは苦笑した。
「ああ、ごめんな。びっくりするよな。……今までこんなこと、誰にもちゃんと言ったことなかったもんな」
「……う、ううん」
「これまで割とこのこと、考えないようにしてたというか考える時間がそもそもなかったからなあ。どこから何をどうすりゃいいのか、全然見当つかなかったのもあるし」
「そう、なのね」
「でもまあそういう個人的な不純な理由もありつつ、何とか俺なりにやりたいと思ってる。また変なところから要らない迷惑、カリアにはかけることになっちゃうかもしれないな」
何を何だと言ったって、俺も俺で色々めんどくさいぞとリョウは笑う。己の特殊性ゆえに、想定外の事態が発生するのはなにもカリアに限ったことではない、と。
わかる、のに、胸中のもやは消えない。
異様な動揺の余韻はまだ、彼女の体の中に残ったままだ。しかもただ違和感と呼ぶには、それには奇妙に痛みめいた要素が強かった。
言っていることは理解できるのに、それに対する自分自身がわからない。
すっきりしない感覚を振り払うように、カリアは彼の名を呼んだ。
「リョウ」
「ん?」
ポケットに手を入れる。指先に触れたそれを外に出す。
やけに心臓の音がうるさく息苦しさも孕んで自分の中で響くのを感じつつ、手のひらの上の小さな袋を、その内側から引き出した装飾具をカリアはリョウへと差し出した。
「それなら余計に。これを受け取ってほしいの。これからも、私があなたと一緒にいてもいいのなら」
「もしかしなくてもこれ、エヤノたちがくれてたあれの完成版?」
「ええ」
「改まって言ってくるってことは、これ、結構特別なモノなんだよな?」
「そうね。一族以外には、ラピリシアの当主が認めた者だけしか渡すことはできないものよ」
事実を告げたその瞬間、カリアの方へ伸ばされかけていたリョウの手が中空で静止した。停止したままの手を前にも後ろにも動かさないまま、じっと彼の黒い目がカリアを見つめてくる。
彼は静かに、問うた。
「カリアはそれでいいの? 俺、今、自分の為だけに表舞台に出てくって言ったんだぞ?」
「構うはず、ないわ。ただ私がそうしたいと思ったから、私は私の手で、私だけの力でこれを創ったの。あなたさえいいなら、貰ってほしい」
「特別なものとか渡したら、それ使って何か悪いことするかもよ? 俺」
「本当に悪だくみする人は、自分からそんな申告したりしないわ」
少しだけ冗談めいた光を宿した彼の目に、先ほどのもやごと掃うように笑って、おそらく彼の予想するものと大して違ってはいないだろう答えをカリアは返す。それもそうか、とリョウもまた笑って、ひょいと軽い所作でカリアの手のうえからそれを攫った。
それの重み以上の何かが、一瞬で彼にさらわれていったような感覚が、あった。
同時に少しだけ心臓のうえの違和感も軽くなったような気がして、まだ残ってはいるそれも錯覚とごまかしてしまおうと、「それ」のための説明台詞をカリアは並べ立てた。
「ラピリシアに連なる者であれば、これが何を示すのか分からない者はいないわ。私は、「ラピリシア」としての私も全ても以て、あなたを信じる。ラピリシアは、あなたという個人を全面的に支持し、求められれば相当の援助も惜しまない」
「な、んか、……ものすごいな」
「だってリョウ、色々な情報が必要なうえに、あの方たちを殴り飛ばさなきゃいけないんでしょう? そのためのもの、くらいに考えてくれればいいわ。それなりの術式は色々と織り込んでおいたから、市場によくある「お守り」よりは使えるはずよ」
「え、……いや、いいのかよそんなんで」
少しばかりぽかんとした後、思わずといった様子でリョウは吹き出した。カリアがあえてここで持ち出したのはもちろん、グライゼルに相対したときのリョウが彼に向かって言い放った台詞を受けてのものである。
彼の笑顔に、カリアもつられてちいさく笑った。やっとあの奇妙な感覚が、無視できる程度になったのに同時にほっとする。
大切にしたいと願う相手が、望みがあると言う。
だったら私に、それをかなえない道理などないと思った。思った瞬間にまた生じたもやは、気にしないことにした。
ひとしきりふたりで笑った後、リョウは改めて彼が手にしたそれ――細い銀の鎖に菱形のトップをあしらった、ペンダントをまじまじと見下ろした。
「すごいなこれ。石の中に何か刻み込まれてる?」
彼の瞳に今映っているのは、複雑にカットされ研磨された薄黒藍色の鉱石の内側に、金に、銀に透明に、閃いては消え廻る、「彼」を示す華であろうか、それとも劔、或いは羽、翼だろうか。
込めることを願ったすべての形を、石の内側で互いに反発させず調和、相乗させてゆく作業は地味なうえに膨大な時間と魔力を必要とする。ラピリシア領でしか採集できない特殊な鉱石であるそれ、セラピス描魔石の扱いにおそらく一族の誰より長けているカリアであってもだ。
まあ今回の完成の遅さには、カリア自身の精神状態というものも大いにかかわっていたのであるが。
何にしてもリョウには、些事である。だからカリアは彼の言葉にただ頷いてみせた。
「ええ。この石、ちょっと特殊なの。術式の種類とか、かける順番で、いろんな模様が石の内側に織り込めるのよ」
「へー、……うっわ、ホントに細っかいな。羽? と、剣? と、おぉ、まだある」
「気に入ってくれたら嬉しいわ。私なりにだけど、がんばったもの」
「そっか。ありがとう。……ところでカリア」
「なあに?」
「ごめん、これ、どうやってつければいいの?」
首をかしげたカリアに、やや困ったような顔でリョウはペンダントを差し出してきた。
一瞬何を聞かれているのか分からず、ついまじまじとカリアはリョウの困り顔を眺めてしまった。どうやってつければいい、どうやってって、普通に、ごく、ふつうに。
そこまで考えたところでようやく、リョウにとっての「普通」とカリアたちの普通が、こんな些細なところでも食い違う可能性にカリアは気づいた。推論に妙に納得もしてしまう。
「あ、ああ、そうよね。えっとね、ここの部分をこうやって」
「ああ、なるほど。……ん? あれ?」
「やってあげましょうか。そうしたらあとひとつ、おまけの守護もそれに追加できるし」
「あー、……じゃあお願いするかな。よろしく」
不慣れにもそもそとペンダントをいじる手を見かねて声をかけると、微妙な逡巡のちリョウは手にしていたペンダントをカリアへ差し出した。渡されたペンダントがずいぶん温い気がするのは、彼の手の温度がこれに移ったせいなのか。
なんとなく視線を上げた瞬間、真っ向から彼の黒と交錯した。
思わず両目を見開いたのは、言葉どころか声も失ってしまったのは、果たしてどちらが先だったろうか。
「……っ」
妙な息苦しさを気のせいだということにして、視線はわずかにそらしてしまって、そしてリョウのほうへと、カリアは己の手を向けた。
当たり前ながらカリアより太く、血管や喉仏のくっきりした肌の色も違う首許に鎖を回す。一方の端を回転させてからもう一方の端に噛ませ、また回転を戻して固定する。
回転の各々には小さな術式を声なく紡ぎ、半分ずつをひとつに組ませることでカリアは守りを完成させた。少しもこれらが役に立たないような、ただ彼の首許を飾るものでしかないような未来であってほしいと、そう思いながら。
そして鎖から手を外してから、ふと、ここまで近い距離で改めてリョウの顔を眺めるのは初めてなのだということにカリアは気づいた。至近距離にいる理由はもうないのに、鎖から手は離してしまったのに、なんとなくリョウがこちらに視線をよこさないのをいいことに、そのままカリアは彼を眺めてしまう。
顔の彫りは浅めだが、目鼻立ちや顔のパーツ全体のバランス、凛々しくもなれる目許にはそれなりに、人目を惹きうるものがあると思う。彼独特の緊張感のなさや変化に富んだ表情がそれを壊していることを、リョウ本人が気づいているのかどうかは別の話であるが。
もう少し全体的にしゃっきりすれば、きっとあちこちから今よりもっと、彼には声や視線を向けられるようになるはずだ。
そしてこれから彼が向かう時間と場所には、そんなしゃっきりした彼の表情ばかりを目にする、
一番リョウがリョウ・ミナセとして輝くときを目の当たりにする人間が、きっと老若男女問わず、あちこちにたくさん、いるのだろう。
「……カリア?」
「うん、やっぱりあんまり派手にしなくてよかった。よく似合ってるわ、リョウ」
また何となく胸中に生じたもやは気のせいだと思うことにして、動かないままのカリアに訝る声をかけてくるリョウにカリアは微笑んで見せた。
どこまでも自分の気持ちに鈍感なお嬢様と、そんな彼女に対し諸々の境界線を引きあぐねるへたれの進展は果たして、いつの日となることか。




