表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来は見果てぬ旅路の先  作者: 彩守るせろ
間奏B Vivace
114/189

 つなぎ結びの細糸は 5



 乱雑なのか整理されているのか、よく分からない部屋だった。

 机に詰まれた書類の小山はおそらく、彼が組織の長として、処理していかなければならない類のものだろう。妙な凹みが見える気がするのは、その上で彼が居眠りでもしていたからなのだろうか。

 しかし何よりカリアの目を引くのは、部屋じゅうあちこちに妙な具合に散っている紙切れたちだった。

 白さも黒さもまちまちなそれらに書かれているのは、カリアには全く読めない記号の羅列である。カリアのいる位置から最も近い場所にある一枚を拾い上げて眺めてみても、書かれている記号の種類がまず多すぎて、本当にそれが文字であるのかすら怪しい。

 しかしそれぞれの記号の書かれ方は、カリアがリョウから受け取ったカードに書かれていた文字と同じだった。少しばかり角ばって、右斜め上に記号が全体的にやや傾いていて、焦っていたのかきちんと書くのが面倒だったのか、ところどころ妙につながって区切りが分からなくなっている部分もある。

 彼以外には読むどころか、見知った文字を探すことすら不可能な文字の羅列。奇天烈珍奇な落書きにしか、彼以外には見えない紙切れたち。

 無論これらが情報として保持されているのは、見る者が見れば一瞬で目の色を変えて彼に詰め寄り始めるようなものの山なのだろう。

 だからこそリョウはおそらく、リョウの世界の、リョウの生まれ育った場所で使われている文字で、これらを書いたのだ。


「そういえば」


 拾い上げた一枚を手にしたまま、ふと、カリアは不思議に思った。

 どうして異世界の人間であるというリョウは、エクストリー王国をはじめとする近辺諸国の公用語であるリナクス語を当たり前のように流暢に、筆記も含めて操ることができるのだろう。

 この紙切れたちの様子やカードに書かれていたメッセージからしても、彼はどうやら喋るのみならず、「自国語」での筆記「も」可能であると推定できる。まあ実際に彼に訊ねてみたところで、そもそも彼がこの世界に来てしまった理由もいまだに分からないのだ。別に誰も困っていない部分に関してなど、余計に分からないような気しかしない。

 むしろ問題なのは、リョウの中には誰にも何も言わないまま、床にも壁にも紙が散るほど、ひとりで書き連ねるしかなかったことがらがあふれかえっているということだろう。


「……言ってくれて、いいのに」


 呟いて、考えて、何も言わなかったのは私も同じか、こんな、何回も約束を破ってしまうような相手に、大事なことなんて普通言えないか、とカリアは苦笑した。

 言うつもりのなかった内容は無論、別に隠すつもりのなかった言葉でさえ、時期を逃して伝えられていないものが多くあった。わけがわからなくなって、勝手に自分の感覚だけのために逃げ出して、避けて、それで、……いつの間にか、向かい合う以外の道がなくなっていた。

 まだ知らないことも、伝えていないことも多い、共に過ごした時間はあまりにも短い相手。それでも彼が大切で、失いたくないと思う感情はとても強かった。

 けれどカリアの保持する色々なものたちは、ただ何も考えずただ彼と友諠を結び続けることを許さない。

 彼は別格であるとしても、カリア自身もまた、参考となるに適当なものが見当たらない程度には、特殊な立場にある人間だった。

 だからこそカリアは、わからなくなった。どうすればいいのか、途方に暮れた。

 彼がカリアに何を望み、何を期待しているのか、そしてその逆はまたどうなのか。

 相手と自分の置かれた立場と責任、そしてついでに個人の感情は、きれいなまでに乖離した。いくらカリアが守ると誓っても、彼女が見逃してしまったた端から願いはすり抜けて混沌の様相を呈してしまう。

 だから、空っぽの手のままカリアは彼から逃げた。

 せめて、せめて何かを、と。

 なにかまともなものひとつ、それがお詫びのかけらになるのかどうかすら分からなくとも、何かは完成させてからしか、リョウには会えないとカリアは思った。……その後でしか、それを渡すという理由をつけなければ、リョウと会いたくないと、彼女は思った。

 遅巧より拙速を貴ぶのは、何も戦に限った話ではないというのに、である。


「……ばかみたい」


 自身に対する失笑しか出てこない。このまま手にしていたら気づかぬうちに紙切れを潰してしまいそうな気がして、そっと元あった場所へとカリアはメモを戻した。

 そうやって自分を甘やかして、少しでも先のばしにしようとしていた結論は結局、とても単純だった。

 動こうとしなかったカリアを心配しすぎた周囲が、彼女よりも先にまず行動を起こした。

 結果としてリョウに、いつまでたっても完成しない言い訳の存在がばれてしまった。そしてカリアの子供じみた逃げすら見透かしていたかのように、とても簡潔な一文が彼からは寄越された。

 床にめり込みそうなほど平伏し体を縮めるエヤノから、一連のできごとを聞き、リョウからだという紙袋をカリアは受け取った。

 中にあった小さな紙切れの、少し角ばった文字列を見た瞬間、何かが底冷えて、凍って、すっと落下したような気がした。

 もとからそう好きなわけでもない、カリア自身への嫌悪に目前はちかついた。

 ねえ、何をしているの? ……どうしてただ何もしないでこんなところにいるだけなの、あなたは?


「……っ」


 上着のポケットに思わず右手をやる。小さく硬い感触に、ほんの少しだけほっとした。

 彼女の指先に触れたのは、ようやく完成した「言い訳」だった。

 「長」としての彼のため創った徽章(きしょう)。ポケットからビロードの小さな袋を取り出し、ひっくり返して中身を手のひらにあければ、机の明かりに反射して、きらりと嵌め込んだ輝石が輝いた。

 灯りに小さく陰影をつくる、ひやりと手のひらに冷たい徽章。

 ふ、とひとつ息を吐き、カリアは俯き目を閉じた。

 願いはある。祈りは、ある。いつの間にか動かせないような位置にそれらはあって、そして、そんな感覚は、すべてカリアのただの我がままでもある。

 拒絶は怖い。先ほど怒っているのだと、ただ一言静かに告げられただけでも全身が凍り付いた己を感じている。

 けれど無関心の方が、もういらない、と言われてしまう方が。

 きっと、ずっと比べようもなく、どうしようもないほど、恐ろしい――




「――――なんというか。君たちはお互いにいくつなのかと、ついつい言ってからかいたくなるような紆余曲折をたどっているものだね」




 その声は静かな室内において、あまりに唐突にカリアの耳朶を打った。

 彼のものでも、自分のものでもない声に、びくりとカリアの肩は震えた。声の方向、この部屋の唯一の出入り口へ視線を向けると、半分くらい開いたままだった扉に寄りかかりながら、半ば闇にとけこむように存在感なく、その人物はカリアを見据え、佇んでいた。

 室内には見合わぬ長いローブに、目深に引かれたフードという出で立ち。

 その(なり)に加え、腕組みより大気にさらされた左手首の腕輪を見れば、それが誰であるのかはカリアにも明白だった。

 腕輪は、枷だ。物理的にも魔術的にも、決して壊すことなどできない、この人物を拘束するための、楔だ。

 だからこそカリアはぞっとしない感覚を抱く。なぜ、そんな人物の気配を、こんなに近づかれるまで一切察知できなかったのか。思い、ほぼ同時に今でも目前の人物の気配を感じることができない己にカリアは気づく。

 彼女がこちらに何かしているのか、或いは彼女自身に何かを仕掛けているのか。

 わけがわからず、ただ震えた唇が言葉の切れ端を空気に震わせた。


「ど、うして、」

「なぜ、か。そうだな。敢えて言うなら、少しばかりの世迷言をあなたに告げに来た」

「……っ」


 レジュナリア【傀儡師】から受けるような言葉なんてない。

 反射的に口をつきそうになった拒絶の言葉を、吐き出す寸前でカリアは呑み込んだ。ただでさえ自己嫌悪に苛まれる今、そんな言葉を口にすれば本当に自分が最低な人間になるような気がした。

 渦巻く感情を押さえこみ、目の前の人物をカリアは見据える。

 それは先日リョウが捕えた、おぞましい二つ名すら持つレジュナリア【傀儡師】、で、あったものだ。彼に「腕」を与え、更なる技術の可能性を与え、おそらくこれからもそういうものとして、枷によっても彼女自身の意思によっても、リョウの傍にあるのだろう女。

 届く声には目的意思が見えず、ただ淡々と向けられる言葉はどこか迂遠に戯れめいている。

 声だけを聞いたなら誰もが少年と思うだろうこの元レジュナリア【傀儡師】と相対するのは、カリアには初めてのことだった。静かに凪いだ相手の気配は、相変わらず察知ができないまま、薄ら寒い感覚だけをカリアに与え続けてくれている。

 思わずぎゅっと体を縮めた彼女に、何を思ったか女は小さく笑った。


「そう緊張せずとも、あなたを捕って食うようなことも、あなたから彼を奪うようなこともするつもりはないよ」

「な、っう、奪う、って」

「まあ、しかしリョウ君は随分と人気者のようだからな。私でなくとも競合者は少なくないと思うぞ」

「……何の話よ」

「割合真面目に言っているんだよ、焔のお嬢さん」

「申し訳ないけれど、そんな風にはどうやっても聞こえそうにないわ」

「ふむ、確かにあなたには、持って回ったような言い回しは不要なようだ。ならば簡潔に本題だけ、言わせてもらおうかな」


 フードの奥の、半分だけの表情でにこりと彼女はカリアへ笑みかける。

 何とも言えない不快感に思わずカリアが眉を寄せた、次の瞬間のことだった。

 不意に、くらいフードの奥で、相手の目がひやりと鋭い色を宿したような、気がした。


「なあ、焔のお嬢さん」

「……なに」


 応じるそのとき抱いた感覚は、例えるなら、ナイフの背で皮膚の上をなぞられたかのような、あと一歩進めばあっさり何かが切れてしまうような異様な冷たさだった。

 ぞわりと立った鳥肌を無視して、表面上は何の変化もなくカリアは返す。更に彼女は、同じように続けてきた。


「あなたがその感情の捉えかたはどうであれ彼を大切に思い、彼の奇抜さが招き得る破滅を回避したいというなら、あなたはもっと、今より強く彼を拘束しなければならないよ。でなければおそらく彼は、これからも容赦なく何を知ることもないまま、その意味を理解することもないままに多くのものを拾い上げ続けるだろう」

「……え?」


 何のことをどう言われたのか、一瞬カリアには理解ができなかった。

 長台詞はどこか歌い上げるように淡々として、予言のような奇妙な余韻めいたものを伴ってカリアの耳朶を打った。

 同時に言葉は、忠告にも似ているように思えた。嘆きのようにも、ただ事実を述べるだけの言葉のようにも、どこか願いのようなものを含んでいるようにも、聞こえた。

 大切だから、破滅を防ぎたいと思うのなら彼を拘束しろ?

 彼はきっとこれからも、他人は路傍の石と断じるものも宝の原石としてひとりで、ひとりだけでその責任を負おうとしながら拾い続ける――?


「どうしてあなたが、そんなことを私に言うの」


 思わず眉を寄せた。どこまでもやはり訳は分からず、カリアができるのは相手へ問いかけることだけだった。

 途方に暮れたような声が出てしまい、思わず舌打ちしそうになるのを押さえこむ。

 彼が危ういことなど、知っている。彼があえてこの国に、留まる必要はないのだということも。

 したがってカリアは、彼女が分からない。向けられた言葉自体にはある程度の納得ができてしまうからこそ、敢えて今ここで彼女がカリアへと言葉を向けてくる意味がわからなかったのだ。

 カリアの戸惑いをどう取ったのか、小さく喉奥で彼女は笑う。


「私のようなものの言葉など聞き入れたくはないのかもしれんが、本当に彼を想っているというなら尚更、きちんと考えた方がいい。誰も、何も、どこも、どれも変えぬということは、結局は今回とまた同じようなことを、彼が繰り返すということに他ならない」

「そ、……れ、は」

「お嬢さん。あなたは今の彼の姿を、哀しいとは思わないか。彼は、彼であるがゆえに、私のような出来損ないを抱え、私というものに付随するすべての罪への咎と(あがな)いを、その一手に引き受けさせられた。何のいわれも、落ち度もなしに、不当な蔑み、危険に遭い、しまいには望んでもいない権力を背負わされこの国に拘束され、それでも彼は、彼の信念故にどこまでも、おそらくひとりで、足掻き続けようとしている」

「……っ」


 同じように淡々とただ紡がれた言葉に、咄嗟にカリアは何も返せなかった。

 空気を揺さぶったのは静かな自虐であり、彼への哀れみであった。

 視点を多少、ゆがめた上での、たしかな事実、でもあった。


「……あなたは、自分がきらいなのね」

「そうだね。この呪いが死を許すのであれば、いつでも命を絶ちたいと考える程度には」


 ぽつりと思わず零れたカリアの言葉に、小さく彼女はただ薄笑った。

 自分が好きなレジュナリア【傀儡師】などが、リョウのような人間に自ら下ろうとするはずもないのか、ともカリアは思った。

 フードの奥に片方だけ見える、彼女の目がふと細められる。

 視線は先ほどまでの鋭さをひそめ、奇妙に曖昧に、遠く見えた。


「なぜ彼があれほどまでに危ういのかは、私には分からないが」


 そして紡がれる疑念の言葉。リョウ自身どこまで自覚しているのか、非常に怪しい部分だとカリアも思う。

 彼を駆り立てているもの、彼を、あの酒場一つだけに留めておけなかった所以のもの。

 時折、彼は焦ったような、困ったような、どこか迷子の子どもにも似た目をしていることがある。カリアより七つも年上で身体も大きく、なによりこの場所で彼自身が積み重ねてきた誠意と行動によって、既に多くのひとからの信頼をその一身に受けているはずなのに、だ。

 彼は自覚していないのかもしれない。気のせいだと、ごまかしであるいは本心で、問うたところで一言で返されてしまうものなのかもしれない。

 けれど。


「けれど今のままでは、いつまでも彼は、ひとりだ。たとえ何に使命を感じ、適性を見出し、そのためだけに生きることを自身に定めたとしても、自分を平気で削るような、自分というものをまるで顧みないような行動はするものじゃあない」


 自分の身を、存在を削る。

 その結果の最たるものが、今カリアの目の前にいる自分であるとおそらく、彼女は言いたいのだろう。過ぎる自虐は廻り廻ってリョウを貶めることに他ならないからこそ、彼女は今、概念としてのレジュナリア【傀儡師】という色眼鏡を外せないままのカリアに、言葉を向けているのかもしれない。

 リョウは確かに、ある意味ではずっと、きっと絶対にひとりきりだとカリアは断言してしまえる。

 なぜなら彼は、もともとこの国どころか、この世界にすら存在していなかったはずのひとだからだ。

 こことは全く異なっている、別の世界の別の場所で、この世界の、この国の、カリアたちの何を知らずとも平和に、彼のもともと望んでいた道を歩んでいたひとだからだ。

 一度も訊ねたこともなければ、彼が自分から口にしたこともないけれど。

 きっと、深いところでは、元の場所に帰り着くことを強く希っているはずの、ひとだからだ。


「……っ」


 当たり前でしかないはずの事実を改めて胸中で反芻したとき、なぜかちくりと、痛みめいたものを胸の奥にカリアは感じた。

 思わず動いた手で、胸元を押さえる。その感覚は、エヤノの報告を聞き、リョウからのあの短い手紙を受け取ったときに抱いたものと似ていた。

 ゆるゆると、その感覚ごと吐き出そうとするようにカリアはため息をついた。

 ついで、のどを震わせる。


「わかって、るわ」

「ん?」


 予想していた以上に、低く、揺れた声が出た。

 かれがひとりだということも、これから彼が背負うことになるものゆえに、その孤独はさらに著明となり増大する可能性があるということも。

 彼女の言を聞くまでもなく、カリアには分かりきっていたことだ。実際、遠くなった気がして、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまったのもカリアだった。

 だからこそ、彼女が口にできるのはそんな単純な言葉だけ。

 言葉を発すると同時に感情が軋むのは、……たぶん、もはやどうしようもない。


「少なくとも今の私なんかじゃ、あのひとにはぜんぜん足りないことなんて、もう、わかってる」

「……どういうことだい?」


 問いかけてくる彼女の声は、作っているのか、本心なのか。

 キシ、と瞬間、何かがきしむ音がした。手のひらに載せたままの徽章を、もう一度カリアは握り締めた。

 今の音を作ったのは、カリアでも目の前の彼女でもない。部屋の外にもうひとつ別に生じた、軋みの音を作った主が息をひそめた気配を感じながら、何となくひとつカリアは息をついた。

 同時に少しだけ笑ってしまったのは、この状況で中に入ってくるのではなく隠れて様子見に入ってしまう、そんな行動がどこまでも彼らしいと思ったからだ。

 そう、彼らしい。やはり、リョウはカリアの知っている彼以外の何であるはずもなく、……だからこそ認めたくなかった。そんなことはないと思いたかった。

 自分の気持ちに、ばかみたいに強かった気持ちに気づいたのは、認めざるを得なかったのは、周囲が、彼がカリアより先に動いてしまった後のことだった。

 彼が異端であることは理解できても、それゆえに何から守れば良いのか、どう生かすことができるのか。

 リョウは常に、異者(イシャ)でありたいのだと言う。物理、あるいは魔術を用いた力を振りかざすのではなく、権力によって何を従わせるのもなく、何らかの力の波紋より生じる、病、傷、苦しみ、痛み、そんなものたちを一つでも多く除くべく、存在する人間でありたいのだと。

 そう思う自分に、自らの感情に、ねがいに背きたくないのだと言って彼は笑う。

 だからこそカリアは彼にとって、最も大切な部分に関わりきれない。――そう、できないのだ。事実は事実として、もう、いい加減に認識しなければならない。

 なぜならカリアという少女は、資格も義務も能力においても、最前線の戦場で、戦うことを望み望まれる人間なのだ。

 幼い頃からそれ以外の、何をもカリア自身が願わなかったがゆえに。どこまでも。


「私には、治癒の魔術適性はない。使えないわけじゃないけど、極められない。あのひとが見つけていくことも、それによって変えて行くものも、きっと私よりもっと、的確に正確に正当に評価して、理解してあげられるひとに、……これからあのひとは、きっとたくさん会っていくんでしょう」


 静かに述べる事実の言葉に、なぜか相手が動揺したように肩を揺らすのが見えた。

 先ほどまで寸分の隙も見せぬとでも言いたげな鋭さを宿していたはずの隻眼が、揺らぐ。揺れて、細められる。


「お嬢さん、それは」

「それこそ、ただの事実でしかないことよ。分かり切ってるじゃない、そんなの、誰にだって」

「いや、……しかし、」

「それを止める権利もなにも、私は持っていないしね。むしろあのひとに対する理解も同調も反論も諫言(かんげん)も、あのひとがはじき出すものの有用性についての色々な戦略だって、生半可なものじゃ絶対、だめ。ただ、誰かにあのひとがつぶされて、それでおしまい。あのひとがいれば救えたかもしれないなにかが、なくなって、おわり、だもの」


 続けながら、カリアは苦笑する。胸元を押さえる手が外せないのは、自分の言葉でまたしても自分の胸が痛むからだ。

 並べる事実はどこまでも、彼の必要とする人間は自分ではないとする言ばかり。ずっと彼の前に出られなかったのは、そんなことたちを認めたくないと思う感情が、強烈にカリアの中で引っかかってしまっていたのも多分にあるのだろう。

 寂しいの、だと、思う。悔しさもどこかであるのかもしれない。つい最近まですぐ会いに行ける場所にいたはずの友人が、この短い間で彼自身が望んだがゆえに、ずいぶん不可思議で高い遠い場所にまで登って行ってしまったのだから。

 しかし何を拒絶したところで、所詮、カリアはカリアでしかない。同様にリョウという人間もまた、どこまでもただ、リョウでしかない。

 それぞれがそれぞれにやれることは、自身がやるべきと定めたことは、得手・不得手とするものは、望みとするたくさんのことは決して変わらない。彼と自分とは「戦うこと」を決めた場所というものがそもそも異なっていて、今更その根本を曲げる理由も、どこにもない。

 だからこそ、考えて行けばいくほどに、結論はしっかりと見据えられてしまうからこそ。

 みっともなく格好悪く子どものように駄々をこね、逃げるだけの自分は終わりにしなければ。

 情けない誰にも誇れない、彼だけでなく周囲の誰にも迷惑をかけるだけの存在でしかないなど――もう、嫌だ。


「私が今ここにいるのは、私個人のわがままを、叶えたいと思ってるから。それだけよ」

「わがまま?」

「ええ。……でも私、本当にあのひとに対して、ばかみたいなことしかしてないから。あのひとがそれを、私に許してくれるかどうかはまた全然別の問題ね」


 けれど、そのわがままの中身は、彼一人にだけ向けるべきものだ。今カリアの目の前にいる、この魔具師に向かって口にするためのものではない。

 先ほどから入る頃合いを逃して、ドアの影に所在なさげに身を縮めて盗み聞きを続けている彼を思う。

 これ以上の言葉を続ける気はないと小さく笑って口をつぐんだカリアに、応じるように魔具師もまた、ふと笑った。そして。


「……だ、そうだよ。リョウ君」

「ぃっ!?」


 カリアだけでなく彼女もまた、扉の外の存在には気づいていたらしい。反射的にだろうあがった彼の声は、いつもの通りに緊張感がまるでなかった。

 たぶん、彼なりには懸命に、気配を薄くしようと努力していたのだろう。

 残念ながらその程度は、少し修練を積んだものであれば容易にわかってしまうくらいの些細なものだ。それこそ笑うしかないくらいの、である。

 わずかに落ちた沈黙ののち、どことなく気まずげに顔だけを扉の隙間からリョウが出す。

 妙に間の抜けた様子に改めて吹き出してしまったのは、室内の二人、同時だった。


「そういうことなら邪魔者は、さっさとここから退散するとしようか」

「えー、と、あー、うん。是非ともそうしてください。というか、そもそもなんでリーさん、ここに……って、あ!?」


 リョウからの咎めめいた言葉などまともに聞く様子なく、この場からの立ち退きすれ違いざまに、ひょいと彼女はリョウの手にした盆からカップを一つさらう。

 彼が制止する間もなく無造作にカップへ口をつける、彼女の表情はさっきまでの短い時間の中でカリアの見た、どの笑顔よりも楽しげで自然な笑みだった。

 おいおい、と困ったように眉を下げたリョウに、彼女は小さく肩をすくめてまた笑う。

 あなたを捕って食うようなことも、あなたから彼を奪うようなこともするつもりはないよ。

 なんでリョウの前でだけ、そんな顔――ぼんやりカリアが思った瞬間、ふと先ほど彼女から告げられた言葉が脳裏によぎった。なんだか矛盾しているような気がする。


「決まっているだろう、年長者特有の鬱陶しいお節介だよ」


 カリアの内心など知らぬ彼女は、言い置いてひらりと空いた方の手を振り、自身の言葉をたがえずこの場から去っていく。

 まったく、と呆れたように笑って、……そして彼は、おもむろにカリアのいる方へと向き直った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ