劔を持て、と王は言う
地図一枚を引き出すのに、他者の力が必要になる。立場の違う人間を相手に、自身の考えをひとつの意見として伝える、それが当たり前にできない。
何もしてはいないのに、反論の一つも許されずに犯罪者の烙印を押される。満足な情報も自分の力だけでは集められないまま、何もかもに後手後手に回らざるを得ない。
未だにわけも分からないまま、投げ出された異なる世界は折に触れて椋には理不尽だった。決して厳しいばかりではない、かなり恵まれた環境にあるのだろうことも分かっている、それでも、不条理はどこまでも彼にとっては、ただひたすらに不条理でしかなかった。
だからと新たな一歩を踏み出すことが、果たしてもとの場所へ戻る、すべてを総合的に見た「前進する」ということを示すのかどうかは知らない。踏み出そうとするこの足は、結局は後退しかしないのかもしれない。
しかし、それでも椋は考えることを止められなかった。さまざまなものを、ひとりで天秤にかけた。何もしない、このままの自分。「彼女」を見殺しにすることになる自分。第二、第三のかの少年を、生み出しうる現場を放置する自分。何を多角的に知ることもできないまま、自分の視点でのみ動くしかない自分。そしてもう一方で、多くの責任を負うことになる自分、誰かの上に不完全の身で立たねばならない自分、動けなくなるかもしれない自分、本当に色々な意味で「ひとり」ではなくなってしまう自分。
誰に何を尋ねようと、絶対に正しい答えなどないことは分かっている。
それにあのとき「医者」という視点から不完全な手を伸ばしてしまった時点で、
結局のところある程度は、彼の先行きなど決まってしまっていたのかも、しれない。
「……なんだこれ」
紙上にずらっと並んだ文字の羅列に、思わず椋は眉を寄せた。
現在の椋は、まだ空も薄暗いような早朝から呼び出された挙句、細かい文字のぎっしりと並んだ書類を延々と見せ付けられている状況にあった。まだ相当な眠気を訴えている頭には、読んで分かれと言われても、普通なら内容などほとんど何も入ってこようはずもない。
しかし今目の前にある書類には、どうにも看過できないような単語がいくつも、まるでそれが当然であるかのように鎮座していた。なによりアノイが直々に椋を呼びつけて書類を読ませているという事実だけでも、ただ事でないと判断するのはあまりに容易い。
ただでさえ、リーのおこないに対する処断と、それに直接関与する椋の「変化」が決定した昨日からの今日である。
未だにまとまりきらない思考や寝不足も相俟って非常にローテンションな椋とは対照的に、アノイはいつもと何も変わらないような表情で軽く肩をすくめて笑った。
「そう言われても、読んで字の如く、としかこちらも言い様がないな。おまえは表向きには俺専属の「癒士」で、俺直属の組織「カーゼット」の長として、治癒全般に関する研究や、有事の際の治癒初動を率先して担ってもらう」
「……」
椋が言葉の内容を反芻し、まともに咀嚼しきちんと飲み込むまでにはやや時間がかかった。
……こいつ専属の医師になって、ひとつの組織のトップにもなって、治癒に関する研究して、何かしらの異常事態が起きた時の対処もしろ、と?
「……アノイ」
「うん?」
「とりあえず、全般的にいろいろと突っ込みどころがありすぎる。俺が組織の長って何だ。ていうかそもそもその組織って何だ。それにおまえ専属の医師なんて、それこそ現時点でも山のように抱えてるんじゃないのか?」
前半については要するに「アイネミア病のときに椋がやったようなことを、今度何かが起きたときにはその組織単位でやれ」という意味なのだろう。それはまあ何となくなら、嫌々ながら椋にも分からなくもない。
しかしこの組織、カーゼットが椋がこの王から投げられた「名」の一部を冠していることからも分かるように、アノイは当然のように、椋に「今までは存在しなかったまったく新しい組織」の長になれと言っているのである。組織の動き方や理想、構造云々以前に、そんな実績も何もあったものではない滅茶苦茶な組織に、自分から加入しようとする人間がそうたくさんいるとも椋には思えなかった。
そして後半に関しては、アノイへ問うた通りである。
半分以上は椋の勝手なイメージではあるが、さすがにアノイとて(色々と趣味と根性が捻くれ曲がっているとはいえ)一国の主なのだ。それこそ常日頃から体調管理には気をかけねばならない、本当に些細な不調であろうと見逃せば大事になりえる人間なのだから、王様だけを診る医者が、複数存在していても当たり前なのではないか、と彼は思う。
のだが。
「いや? いないぞ」
「は?」
あまりにあっさり当然のように返ってきたのは、非常にざっくりとした否定の言葉だった。
しかも問いの前半は、完全に総スルーされている。何となく新たな疲労感が生じてくるのを感じつつ、椋は続けた。
「いやでもさすがに、一人もいないってことはないだろ?」
「いいや。一人もだ」
「……は?」
「必要性がなかったからな。元々流行り病にかかるようなやわな鍛え方はしていないし、毒の耐性に関しても我ながら結構なものだと思うぞ。傷の治りに関しては正直、誰かに術を使わせるより自分でやったほうが絶対に早いしな」
更にしれっと続けてくるアノイに、何かこいつばかなんじゃないのかという思いが俄かに椋の内には湧いた。
彼が多方向に滅茶苦茶な人間であるのは理解していたつもりだったのだが、どうやらまだまだ椋は認識不足だったらしい。驚くのにもそろそろ飽きてきたと思ってしまうような頃合である。
やれやれと、ひとつ椋はため息を吐いた。
「じゃあ俺だっていらないだろう、それ」
「だから表向きには、と言ったろう? おまえの「癒士」という身分は、おまえが今まで関わったような治癒関連の異常事態の分析、原因究明及び傷病の快癒に関する行動すべてに対して、基本的に「俺が命じてやらせている」という大義名分を与えるための手段。おまえを頂点にした組織を作るのも、有事の際の人手の確保が主な目的だ。ああ、勿論その人員についても、おまえの好みに一任してやるから心配するな。誰彼構わず募集をかければ良いようなものでもないからな」
つらつらとよどみなくつっかかりの欠片も見せず、長台詞を言い終えて見せた男の様子を椋は見やる。
嘘や冗談を言っているような顔には見えないが、ことアノイに関してはそうとも一概には言い切れないのが面倒だ。そもそもアノイが自発的になにか仕掛けてくる場合、目的をすべてこちらに正確に伝えているかどうかも椋には分かったものではない。
が。
「……それこそ俺みたいなのが頂点に立って、まともに組織なんてもんが成立するとは思えないんだけど」
この際周囲の思惑、特にアノイが考えているような類の損得利害については少しだけ脇においておこう。もしもアノイが言うとおり、本当に祈道士も治癒術師も関係なく意見を戦わせひとつひとつの事象を追い、すべての治癒についての最善を模索することができるようになるなら。
より多くの眼、視点と、より多くの手。うまくいけば「チーム」にもできるかもしれない、未確定要素の塊。
様々な要素がうまくはまれば、「全員」を救うことはできずとも、誰か一人は多く救えるかもしれない、という考えは、
――ただの椋の未熟でばかな、世間知らずな浅はかな思い上がりでしか、ないのか。
「なんだ、随分乗り気だな」
もっと色々渋ると思っていたらしい。ひょいと眉を上げどこか面白がるような目を向けてくるアノイに、椋は肩をすくめて応じた。確かにそうかもしれない。一月前の椋なら、確実にもっと悩み拒絶の風情も見せたことだったろう。
悩みの根本など勿論、変わらない。自分が正しい自信などどこにもない。新たな知識は得られず抜けていく一方で、未熟さは当然この場に放り出されたときのまま、臨床を知らない、手技を何も持たないなにもかも中途半端すぎる人間が、そんなものの組織の長などというものになるなどおかしい、と思う。
しかし。
「俺一人だけじゃ、できることなんてたかが知れてる」
「……ほう?」
興味深げに、ひょいとアノイが片眉をあげた。
そんな彼の様子に、ふっとひとつ椋は軽く息を吐いた。
医者一人「だけ」がかけずり回ったところで、結局は救えないものなど無数に世の中にはある。先だってのジュペスの治療にしても、椋ひとりだけの力では、絶対に彼の命を救うことはできなかった。
だから、もう。それこそこの王様からあんな「二つ名」などというものまで貰い受けてしまったのだ。何だかんだ言ってみたところで所詮、椋は病人怪我人を目の前にしてじっとしてなどいられない人間なのだから、ある程度のことから逃げるのは、諦めよう、と思った。
果たして最後にどれだけの、後悔を積み重ねることになるのかは予想のしようもないが。
それでも。
「いつまでも一人でかけずり回っても、客観性は皆無だし、多様性にも柔軟性にも絶対的に欠ける。見落としだって、確実に山のように出てくる。何が間違ってるのかも、知らない。……偽善者とか調子に乗ってるとか言われるのは別に構わないけど、実際にやることなすことがただの独りよがりになるってのは、嫌だ」
このまま行けば、可能性が高すぎる仮定未来に我ながらげんなりする。だからこそもう一歩、面倒な道へと動きださねばならないのだとも、思う。
前途多難は確実な、そもそもそんな「理想」など、この世界で椋の勝手で実現してもいいものなのかどうか非常に怪しいものなのだが。
考えることが多すぎて、胸中がもやついてひどく重い。
思わず深々と息を吐き出した椋をどう思ったのか、アノイはまたどこかひどく面白そうに肩をすくめて、笑った。
「言ってることは分からなくもないが、相変わらずの自己評価の低さだな。おまえは」
「当たり前だろ、小市民なんだから。そもそも俺みたいなのが、自分だけが正しいとか思い出したら色々終わりだよ」
「俺から持ち出しておいて言うのも何だが、相当に珍妙な組織が出来上がりそうだな? リョウ」
「何だよその期待に満ちた目。そもそもそんなムチャな組織に入ってこようとするヤツの気が知れないよ、俺は」
さらにげんなりしつつアノイの言葉に応じれば、さも予想外とでも言いたげな目でアノイは椋をまじまじ見た。
その視線がどうも不快でさらに眉を寄せると、またしてもアノイは笑って言う。
「ん? ピアレティス・ルルドとリベルト・エピの二人には既に話をつけてあるが。二人とも二つ返事で了承したそうだぞ」
「はっ?」
「ちなみにおまえの警護については、第八騎士団からクレイトーン・オルヴァとジュペス・アイオードが快く引き受けてくれるそうだ。良かったな」
「んな、」
完全なる身内の名がぼろぼろと出る。ついでに言うとこの組織「カーゼット」には、実験と監視の意味合いも含めてリーの所属が絶対条件であると先ほどの書類には書かれていた。さらにはヘイが無茶苦茶なのが、この間のニースへの暴力によってアノイにも露呈してしまったわけで、……ほぼ確実にその関連で、ヘイもまたこちら側へと巻き込まなければならないのだろう。結果的に。
思わず椋は頭を抱えた。頭痛が痛いと言いたくなるレベルだ、ついでに胃まで痛い気がする、一言で片付けてしまうなら本当に非常に非情なまでに面倒くさい。
思わず開いた口からは、唸るような声が出た。
「……っああそうだよな、どうせおまえは最初から俺に拒否権なんか与えないよな……!」
「当たり前だ。何のためにリョウ、おまえにヴァルマス【劔】の名を与えたと思ってる」
あくまでもしれっと人を食ったような態度を崩さないアノイに、ぷちっとその瞬間椋の中で何かが切れた。
おもむろに顔を上げ振りかぶった拳は、しかし。
「……っと、何をするか」
見事にひょい、と空を切った。もう一度その頭をめがけて腕を振ってみるが、結果は同じことだった。
思わず椋は盛大に顔をしかめた。苛立ちをぶつける場所がない。腹立たしい。
「避けるなバカ、このクソ王」
「うーん。生憎だが痛いのはごめんだ」
「ならとりあえずいっぺんどっかで死んで来い、アノイ」
「無茶を言うな。来月隣国で行われる慶事に、おまえたちを組み込むために今四苦八苦してる俺の心遣いを少しは汲んで欲しいもんだな」
「……は?」
ものすごく憎たらしい言葉に連続して、何か今とんでもない言葉がさらっと吐かれたような。
なんとか一発くらい入らないものかと振るい続けていた拳が止まる。口の端が微妙に引きつるのを感じつつ、椋は目前の王様へと問いかけた。
「ちょっと待てアノイ。今、何て言った?」
「だから、来月から隣国レニティアスで行われる慶事におまえを連れて行く。カーゼットと、ヴァルマス・ノイネ・カーゼット【朝闇の劔】の名を受けたおまえの初舞台だ。派手にやれよ」
「な……っき、聞いてないぞそんな話!」
「当たり前だ。今初めて喋った」
「アノイ、おまえ……!」
理不尽とムチャ振りだらけのアノイの言に、もはや逐一声を上げることすら面倒になってくる。
もう一度椋は頭を抱えた。何だ隣国って、そこで俺に何をどうしろと? というか何でこうまで徹底して、この王様ってやつは他人をおちょくって遊ぶのが好きなんだ。ウザい。ウザすぎる。
そして更に何がウザいと言えば、そんな椋の反応を至極楽しげにアノイが眺めているということであり、
「だからこそ、あれだ、リョウ」
「どれだよもう!」
「まあまあ、そう怒るな。だからな、さっさとカリアの機嫌を直してやれってことだ。あいつは本当に昔から壊滅的にそういうときの立ち回りがヘタだからな、おまえが動いてやらんと、どうにもならん」
「……」
別の話題にまた、会話の内容をすり替えてこようとするところである。
今回の分の五発くらいはまたあとで入れてやろうなどと思いつつ、もう一度、椋は深く重くため息を吐いた。
昨日確かに目にしたはずなのに、どうしてかひどくぼやけて遠くにしか思い出せない金と銀の色彩が脳裏にちらりと、閃いた。
――その部分の膠着が解けるまでは、まだ、もう少し、
いつも拙作をご愛顧いただきまして、誠にありがとうございます。
拙作は本日(2013/2/15)、無事に投稿開始より一年と相成りました。楽しくマイペースに自分の楽しい物語を、をモットーに、ここまで長く書き続けることができているのは、海より広いお心をおもちの皆様のおかげです。本当にいくら感謝の言葉を述べさせていただければ足りるものなのか。
まだまだ先は長い、曖昧なペースの更新の物語ではありますが。
どうぞ気長に先をお待ちいただき、拙作を楽しんでいただければ筆者は幸いでございます。




