P2-62 そして終劇に何を見る 3
「それで? おまえは、おまえ自身はこれから、その怒りを以てその女をどうするつもりだ? リョウ」
何の前触れもなく差し込んだ声に、一斉に自身へと集中する視線にふと小さくアノイは笑った。
ぱちぱちと絶えず体表で何か小さな泡でもはじけ続けているような違和感があるのは、ほぼ確実にあのオレンジ髪の男がこの場に施した何かのせいなのだろう。随分な人材を今までみすみす見落としていたらしいと、集中を続ける視線の先でアノイは肩をすくめる。
ピシリと凍りついたように沈黙した、その場の中で最初に動きを再開したのは、黒だった。
「……お!?」
そう彼が思った次の瞬間には、元から大した距離はなかったリョウとの距離が随分と詰められる。
駆けてきたのは、異質の黒。ひどく剣呑な光をこちらへ浮かべたリョウが、一切何をためらうような様子もなくアノイへ向かって拳を振り上げていた。
しかしいくら大の男とはいえ、残念なことにリョウは何の特殊な訓練も受けてはいないただの一般人である。アノイの動体視力と反射速度、筋力を持ってすればその拳を回避することはあまりに容易かった。
だがまあ、今回はさすがに事情が事情だ。彼に対して欠片も罪悪感を、アノイが抱いていないと言えば多少なりとも嘘になる。
一発くらいは許してやるかと、ニヤリともうひとつ、確実に相手にとっては挑発的な笑みへと表情を組み替えてアノイは目前の青年を見やった。自ら痛覚を抱く趣味がある訳でもないので、それなりに衝撃は軽減できるよういくつか簡単な術を身体へと張り巡らせる。
しかしそんな彼の頬骨に、次の瞬間一気に走り抜けたのは異様なまでに強い衝撃だった。
「……っ!」
ひどく鈍い音と、口の中が切れたらしい、ぱっと淡く鉄じみた味が口内に広がる。形容ではなく現実に目の前がぐらりと揺らいだ。
文字通りアノイの顔も、視界も歪んだ。それくらいの衝撃は心身双方に受けた。痛みと衝撃が強すぎて、同じ表情を保っていられない。
つい先ほどとはまた違う意味で、その場が完全に凍りついたのが分かる。
一息でアノイへ向かって拳を振りぬいたリョウは、若干痛そうな顔をしつつひとつ深く息をつき、彼を殴ったその拳をもう片一方の手で包んだ。
殴られた頬をつい、アノイは押さえた。痛い。予想していたより遙かに痛い。予想外に過ぎる過剰刺激に、殴られた以上に精神的な意味で目の前には星が散っている。
さて、殴られた衝撃で目の前に星が散るという体験など果たしていつぶりのことだろうか。
魔術など一切使えないはずの、実際魔術など使いはしなかった青年をまじまじと、改めてアノイは見やった。
「言っとくけど謝らないからな? アノイ」
視線の先のリョウがさらりと、先ほどの妙に痛そうな目の光も含めてこちらへ笑ってみせた。勿論目はばっちり笑っていない。
正直予想通りなのか予想外なのか判別に困るその言動に、まだ微妙にちかちかする視界に若干辟易しつつ薄い血の味をアノイは飲み下した。
仮にも一国の主を思いっきり殴っておいて何をと思われて当然のとんでもない暴言だが、まあ今回の諸々を踏まえるならリョウであれば、ほぼ確実に誰にであろうと面と向かって口にしてくるだろうものだ。異者をエサに多くのものを釣ったのはアノイであり、想定以上に釣果が上がりすぎて結果的に一番の見ものを見逃した。
しかし、だ。痛む頬をさすりながらアノイは思う。
今、普通ならあり得ないことを、当然のように、……こいつは。
「ようやく登場の王様に、随分熱烈な歓迎があったもんだな、リョウ」
「そりゃまあ。ただでさえおまえのおかげで、このところ色々たまりっぱなしだったしな」
思わず笑ってしまっての言葉にさらりとまた暴言が返る。アノイは国のためにけなげに奔走しただけだというのに、まったくひどい言い草もあったものだ。
まあそんな言葉を口にしようものなら確実にもう一発また別の拳を甘んじて受ける羽目になるだろうことは目に見えていたので、あえて彼はまだ痛みに痺れる頬を押さえたままでやれやれと落胆するように肩を落としてみせた。この国そのものに対する愛着など確実に途轍もなく薄いリョウに、国への忠誠、国民のため云々を説いてみたところで無意味なのは分かり切っている。
無論先ほどからのリョウの言動は、そのどれ一つをとっても不敬罪で即座に彼を極刑に処すことも可能な程度には過激なものばかりだ。全く本当に今日も絶好調な異者の、啖呵の切りようがしみじみ見てみたかったものである。
しかしそんな、予めアノイも理解していたような異常とは、まったく方向性を違えた異質をたった今リョウはこちらに示した。
リョウ以外の全ての人間が、完全にその場に凍りついたままでこちらを、正確に言うならリョウを凝視し続けているのが、よい証拠だ。
「一応、何か弁明は? アノイ」
「弁明? まあ、そうだな」
今敢えてアノイが痛みを頬に残したままでいるのは、自己治癒の魔術でも使おうものなら本気でリョウが怒り出すだろうことが目に見えているからだ。
だからこそ今この場の異常を最も端的に表す一言を、にっこりと笑顔を向けてやりながらアノイは彼へと向かって口にした。
「普通に痛いな。おまえも男だったんだな、リョウ」
ヒュウ、とどこかひどく場違いな口笛がその時聞こえた。
感嘆の含みがうかがえるそれとは裏腹に、あからさまにリョウはアノイの言葉に嫌そうな顔をした。そのあけすけな反応に、やはりリョウは何も分かってやっているわけではないらしいと重ねてアノイは確信する。
わかっていないというのなら、無意識だというなら余計に放っておくわけにもゆくまい。
なぜなら今、――アノイの魔術は一切、リョウという存在に対して効力をなすことができなかったのだから。
「俺をなんだと思ってるんだよ、おまえは」
もう一発殴られたいのかと、馬鹿正直なその顔には書いてある。できるならせめてもう少しその部分にも突っ込みたかったが、これ以上下手な藪をつついて完全に玩具にこの国から背を向けられてしまっては本末転倒もはなはだしい。
何しろ本当に良くも悪くも、コレは他国に渡せるような存在ではないのだ。人間を救うということが結果的に何に繋がっていくか、そのあたりまで考えて動くような打算的な性格ではこいつはまったくないのだから、余計に、である。
今日も変わらず絶好調な異者は、何をどこまで考えているのか正直本当に全く分からない黒の眼でこちらを見据えたままだ。
だからこそアノイも笑う。先ほどまでレジュナリア【傀儡師】に対して起こしていた、数多の異常言動も含めて、笑う。
「何を今更なことを言っているんだ? おまえはこの国の異者だろう、リョウ。俺が無茶を推進してやる、かなり数少ない存在だぞ」
「……自分から率先していろいろ無茶苦茶やって楽しんでる、トンデモ国王が何言ってるんだ」
「仕方がないだろう、生憎俺は忙しいんだ。そうそうおまえにばかり目をかけているわけにもいかん」
「こっちから願い下げだ、そんなの」
ひどくげんなりした表情で、リョウが首を横に振る。
確かにアノイが目をかけるということは、この国の抱える数多の悲喜こもごもの中心渦に巻き込むこととほぼ同意義だ。それを考えるのならまあ、リョウなら拒絶も無理もない。
そんな同意のかけらは無論胸中だけにほいと押しやり、ただしれっと笑って目前の青年へとアノイは応じた。
「望まれなかろうと何だろうと、俺はこの国の王様だから仕方ない。……それで?」
「“それで”?」
すいと目を眇め問うた言葉の、意味を俄かには掴みかねたらしいリョウが怪訝そうな顔をする。
つい先ほどまで吐き続けていた言葉を、まさか忘れたとは言いはすまい。同じような笑顔を口許には浮かべたまま、ついでに殴られた頬の痛みがわずかにその笑みのせいで響くのを感じつつアノイは続けた。腕を組む。
「俺たちの法に則るなら、即座に極刑に処すべきであるのがそこの女だ。俺としても一国の主としての立場だけ優先するなら、さっさとそこのレジュナリア【傀儡師】には、二度とこの国に何もできんくらいにはして然るべきだな」
「っ!」
「だがな、リョウ。俺は今、それなりに気分がいい。おまえの素っ頓狂な願いのひとつふたつ聞いてやろうかと思うくらいには、な」
「……アノイ?」
こちらの言葉の意味を、相変わらずに図りかねているらしい声がアノイの名を呼ぶ。
アノイにとっては「当然」の、そうする打算もある事実をリョウへと告げた際、大きく動揺したのはむしろリョウよりレジュナリア【傀儡師】のほうだった。滅多なことでは絶対に感情など動かさないはずだろう女の肩が震えたのを確かに、彼の眼は捉えていた。
しかし今のアノイにとっては、別段それはどうでもいいことにすぎない。
この女一人の生死のその先に、何かしらの価値を見出し得るのはリョウしかいない。いるはずもない。なぜならあのレジュナリア【傀儡師】は、今も過去もリョウの言葉に応じ、その分類は知らないが、何かしらの情を既に、この黒へと向けている。
でなければ本来真白であるはずの仮面を汚し、自身を様々な意味での危機にさらすような愚を、レジュナリア【傀儡師】として「彼ら」がこの国へ導き入れるようなモノが犯すはずがない。
リョウがおそらくひどく無造作に、当然のように投げ与えたのだろうなにかを、女は「夢」と呼んだ。
自身が造った破滅の人形が、完全にこの国から消え去ったという事実に対して、清々した、などとあっさり、嘯いた。
「先ほどおまえは言ったな? リョウ。そこのレジュナリア【傀儡師】に対し、ただの客観的な事実ではなく個々人の感情を吐け、と」
青年を見据え、口にする。リョウとて気づいているはずだ。既にあのレジュナリア【傀儡師】は、自身の未来に対する指向を願いをリョウへと向かって口にしているということに。
改めて確認するように先ほどの彼の言葉を反芻してやれば、驚いたように黒色の双眸が見開かれた。
「アノイおまえ、……どこから聞いて」
「それで? 仮にあれがおまえに全てを伝えたとして、おまえに助命を嘆願したとして」
無造作に親指で女を指す。レジュナリア【傀儡師】もまたリョウと同じように目を見開いているのが分かった。
ニースとカリアは、既に先ほどまでとは違う意味で言葉を失ったまま、場の傍観者に甘んじている。特にカリアは言いたいことも多くあるだろうと思ったが、残念ながら今現在は、個々の感情を拾い上げてやるような生易しい場ではない。
そしてあとひとり、魔具師のほうは、無関心を装いつつ、面白がるような何かを期待するような光をリョウへと向けているようにも見える。何を期待しているのかなど、同じ好奇心で動くアノイが今更問いなおす必要もなかろう。
さあ、答えを弾け、リョウ。
すべてを混乱の渦の中へ、また深く深く、たたき落とせ。
「おまえはどんな無理難題を、あの女へそして、この世界すべてのものに向かって突き付けるつもりだ?」
おまえはこの絶望だらけの女に、破滅しかもたらすはずのない技術に向かって何を見はるかす?
あのふたりさえも破って見せた、異者は果たして、なにを齎す?
アノイの問いへと返ったものは、しばしの凍りにも似た沈黙だった。
リョウだけにひたすらにまっすぐ向けた彼の視線を、しかしリョウは怯むことなく真っ向から受け止めた。何かに逡巡するようにわずかに眉をひそめながら、アノイから彼が目をそらすことはない。
そのまましばらくやや重く続いた、沈黙を不意に、破ったのは。
「……は、っ」
その声はリョウのものではなかった。それは笑い声にひどく似ていた。
どうにもこの場には確実に、似つかわしくない声だった。
場違いに楽しげな吐息を漏らし、彼女はしかし、こちらを見据えて笑う。
想定外の事態に一気に己へと向けられた視線の中でただひとりだけと、女は最後には視線を合わせる。
「リョウ君」
「……なに?」
そしてリョウがしたのと同じように、女もまたひどく気安く彼の名を呼んだ。少し硬いリョウの応答も含めておもしろいと彼の表情を見れば、声そのままの硬い表情で、相手をバカ正直にリョウは見据えていた。
なぜここであえて女が笑うのかなど、おそらくリョウも含めてこの場の誰も分かってはいまい。
まあ立場を逆にして考えてみれば、アノイが今しがた黒に向けた言葉も含めてこの場には異常がある、どころか異常しか転がってはいないわけだが。
「先ほど君は言ったな。私が君に何を望むのか、と」
「……そうだね」
わからぬリョウが相手に身構える。相手の笑顔とは対照的に、ひどく硬い表情をリョウは崩さない。
まだ幾分痛む頬にもやれやれと思いつつ、目前を見やっていれば。
静かに、どこか淡々とさえしているような声で、女は次の言葉を紡いだ。
「それなら私を殺してくれ、リョウ君」
「……は?」
「君の手で、私というものをこの世界から消し去ってくれ。――それが私の、たったひとつの願いだ」
その言葉はどこか、愛の告白にも似て瞬間、場に響いた。
笑顔で口にするには、明らかに異様な言葉だった。
「君にこんなことを頼むのは、ひどく惨いことだと分かってはいるが」
それでも私を殺してくれ、と。誰もを救いたがるリョウに、女は笑顔で言葉を向ける。
そしてさらに言うならば、その言葉はリョウが何を認め何を認めなかったところで、さっくりとアノイが許してやる訳にもいかないような事柄を含んでいた。だからこそ女は「リョウに」自分を殺せと言っているのだろうが、まさかリョウがその理由の、何を知っているとも思えない。
レジュナリア【傀儡師】という存在の面妖さは、無限にその手からすべての傀儡となるものを造り出し続ける以外に、その身体に刻み込まれた、レジュナリア【傀儡師】としての技術の特殊さにもある。上から下へと流れるように、継がれ続けるその「技術」は、生前に誰にも技術を継がず、そのものが骸となった後も長らく残るのだ。
しかも亡骸に纏わるその「技術」は、その気さえあれば非常に簡単に凡人であろうと拾い上げることができてしまう。「技術」に触れたその時点で、その人物はまた新たなレジュナリア【傀儡師】となる。
そうして、また新たなレジュナ【傀儡】がこの世界に落とされてゆくのだ。
過去にレジュナリア【傀儡師】が徹底的に教会に狩られた理由は、そこにもある。それらの身に纏わる「技術」を消すには、非常に特殊な技術と魔術が必要となるということに。
さらに面倒なことに、その技術は教会によって管理されるものなのだ。レジュナ【傀儡】による被害は表向きには世界的に撲滅されたはずの昨今、どの程度の人数に技術が受け継がれているのかは正直、アノイにも分からない。
そんな程度のことは、他の誰でもない自分自身のことだ。確実に分かっているだろうに、なぜ敢えてこの女はこんな言葉をリョウに向かって投げつける? しみじみ何を考えているのか、或いは何も考えてはいないのか。
腕組みをしつつ、沈黙の中目前の景色をアノイは眺めた。言葉を投げつけられた瞬間の衝撃から何か考え込むような表情に変わったリョウは、この手づまりの状況に何を持ってくる、生を与える役目を担いたがるおまえに、死を望む存在へ何をもたらす、その先に、如何様な景色を見る?
しばし凍りついていた黒の眼は、ややあってわずかに細められた。
そして。
「……わかった」
ひとつ、しずかに頷いた。そしておもむろにアノイの方をその目が向いた。
有り得ないはずの肯定にまたさらに凍りつく場の中、青年は口を開く――。




