P2-59 さらにひとつの訪いモノ
「……そうか」
ひそかな「影」の報告を聞き終え、相変わらず目の前に鎮座して欠片も減る様子も見せぬ書類を目前にひとつ、アノイは息を吐いた。
全くどうして誰もかれも、アノイの動けぬ間に一番面白いところを常に掻っ攫って行ってしまうのだろうか。
まさかのグライゼル本人が赴きリョウを連れ去ったというくだりで既に驚きだというのに、その「手」に誘い出されたカリアはグライゼルにある意味「勝って」見せたという。
やれやれ。お姫様を助け出す勇者のくだりなど、二人がそれぞれに切ったという啖呵も含めて、自分がその場にいられなかったことが心底残念でならない。どうせリョウは相変わらず訳の分からないことばかりを言い、カリアもまたカリアで、バカのようにまっすぐに己の叔父と対峙しようとしたのだろう。
全く王様というものは、何より面白い代わりに何より鬱陶しくややこしく、退屈な鎖だらけのものだとアノイは思う。
国王しか触れることすらできない王印をぺたぺたと書類に押しつけていきつつ、のらくらとそんなことを考えた次の瞬間、だった。
「――――――随分、」
ふわりと五ヵ所ではじけたのは、音もなく消え去る己の「影」。
それぞれが本当に人間であったなら、間違いなく赤い噴水と化していたことだろうとアノイはまたひとつ息を吐く。五つのどれもの側頭部、眉間、口、喉、心臓、両手足、背面。穿ち込まれた弾丸の数々は、しかし残念なことにアノイ当人にだけは当てることがかなわないままに場から強制的に存在を無へ反転させられた。
面倒くさい、つまらない。おなじような言葉ばかりが思考に浮く。
ふっと笑った相手の気配に、肩をすくめてアノイは続けた。
「珍しいこともあるもんだな。叔父貴殿」
「……そなたは相変わらずだな。口の悪さは健在か」
言葉にわずかの沈黙ののち、ぐらりと部屋の、一角が揺れた。
部屋の外では何人もが、昏倒あるいは永眠しているのであろうことがそれだけでもアノイには容易に知れた。正直なところ打算的な意味も多分に含んで後者であってほしくはないが、この相手がそんな「些細」なこちら側の事情を今更汲み取ってくれるとは思っていない。
まあこの事態に関して恨むべきはこの破天荒かつ誰もの想定外を引き起こすことをこのむ叔父であり、彼の前に倒れ伏した他の誰でもない。
この期に及んでまだすべての「抜け道」を潰せていなかったという事実に多少の驚きはあるが、久々にまたひとつが新たにこちらへ明かされたという事実それ自体が、彼らがそれだけの「価値」を今回のことに関して何かしら見出したという証左だ。まったくあちらもこちらもいつまでもどこまでも、正攻法から暗殺術までどこまでも唐突に実行してくるのは相変わらずである。
見据える先から真っ直ぐにアノイを見返してくるのは、彼と非常によく似た顔立ちをした、確実に年齢不詳の一人の男。
おそらくアノイと違う場所を挙げろと言えば、彼の目の色――男は完全な夜が訪れる寸前の夕闇の眼をしている――と、その身に纏わりつくどことなく暗い影と年月の経過による陰影の有無、その程度のものだろう。
「暇だから歓迎はしてやるがな、叔父貴殿」
幼いころには割合本気で、何故自分はこの男ではなくあの王の息子なのだろうかと思ったりもしたものだ。自分という存在を創り出した先王より、この男と自分が似ているというのもしみじみ、ただただ下らぬ詮索ばかりを生む、どうにも無用の長物である。
腕を組んだアノイは首をかしげて、相手へと笑ってみせた。
「どうせ訪ねてくるんなら、正式な手順を踏んでの来訪を頼みたいもんだが?」
「恐れ多くも多忙な陛下を、今の私が訪ねるなどまず、在り得ぬだろう」
妙に楽しげに、相手もまた笑った。
先王の腹違いの弟、アノイにとっては叔父にあたる人物。今はユヴェント領のとある屋敷で、静かに暮らしているという噂だけが独り歩きしている最も危険な男。
やれやれとアノイはため息を吐いてもうひとつ笑った。何がどうして本当にリョウは、良くも悪くも無茶苦茶な存在ばかりをやたらに無作為に方向性など一切考えずに引っ張り出してくれてばかりだ。
こちらの勝ちの決まった既に八百長の風情漂う中、一体この男は何が楽しくて何を考えてここに来る?
隠す必要もない疑念を、目前の男へアノイは向けた。
「今回は主にあいつらのせいで、そっちが完全に筋書きをぶち壊された形だろう。すべて終わりかけてる中で、今更俺に、何をしに来たんだ?」
「これを、そなたに届けに来ただけのことだ」
「へぇ? 暇だな、叔父貴殿。今の俺に、手に入れられぬものがあると?」
「硬いことを言うな。是非ともご笑覧あれ、陛下」
「……」
表向きにはアノイへへりくだるような様子を見せながら、その実まったく彼はアノイを敬おうとなど、していない。分かり切っているので今更苛立ちなどと言ったものも、覚えようとはアノイも思ってはいない。
彼へと差し出されたそれは、おおよそ35シェノ(35センチ)立方程度の白い箱だった。
頼んでもいないのに男はアノイへと向かってその箱のふたを開き、そしてその瞬間、ばっちりと、
――――――中のものと、アノイの目は、合った。
「…………それで?」
表情どころか眉一つ動かさず、ひどく淡々と目前の人物へとアノイは問うた。
なんともまぁ、幕引きに下らない無意味に悪趣味な送りものなど寄越してくれるものである。先ほどまで確かに高揚していたはずの神経が一気に冷水どころか絶対零度の氷でもぶつけられた勢いで冷めた。
つまらない。ひどくつまらない。今更こんなものを、相手側の自己満足というただそれだけで身勝手に押しつけられてきたところで何の足しにもなりはしないというのに。
正直突き返すどころか投げ返したいような気分に駆られながら、ひどく適当に相手へとさらにアノイは問いを重ねた。
「俺にこれを見て、何を言えと?」
ブロンドの巻き毛、薄青の瞳。
報告に上がっていた、あげさせていた、リョウが今回の一件へ無茶な巻き込まれ方をする/させた原因。監視を命じもした人間の顔だ、知ってはいる。
こちらを見上げる彼女とて、さすがに、アノイの顔くらいは知ってもいただろう。まさか王への直々の目通りが、こんな無様で理不尽な形になるとは絶対に考えてはいなかっただろうが。
心底意外そうに、相手はひょいと眉をあげた。
「随分と異な事を言うな。それはそなたらの、すべての元凶となったものであろう」
「こんなちっぽけなモン程度を今更ひとつ潰してみたところで、結局何になるはずもないと分かり切っているからこその贈り物、か。さて、あんた、こんな遊びも好きだったか叔父貴殿?」
本心からひどく、げんなりする。敢えて笑顔を返してやる気にもなれない。どうして俺はこんなクソ面白くもない展開に、最後は付き合わなきゃならない?
リョウを使い倒してやろうとした、ツケでも回ってきたと言うのか。いやいや人の恨みなど、既にあいつの比ではない数と重さでアノイは喰らっている。
だからこその、王座なのだ。この頭に戴く王冠なのだ。今更甘いことも甘い顔も、どこにしてやる道理もアノイにはない。
そもそも目の前のこの男に、首狩りの趣味などあっただろうか、と。
それなりに真剣に考えるアノイに対し、ただ目前の男は首をかしげて笑って見せるだけだ。
「言っている意味がわからんが?」
「先王弟殿下。ある程度なら遊びも結構だがな、ここは俺の国だ。俺が守るべきものだ。いい加減にしてくれんと、俺も遮二無二、迷惑千万にあんたらを怒らざるを得なくなるんだがな?」
「随分恐ろしげな口を当然のように叩くようになったな、そなたも」
「知るか」
ひどく適当に言い捨てた。あぁ、本当にこの叔父貴殿はアノイとよく似ている。
だからこそ過去には慕わしくも思ったし、今となっては本当にどうしようもないくらいにまだまだ高い壁となって目前に立ちはだかってもくれている。
もう一度だけ見下ろした箱の内側からこちらを見上げてくる生気のない目に、これからのまた面倒ないち展開をアノイはげんなりと思った。しかしリョウを貶めるためにこれが使われなかったという事実だけでも、今はまだ良しとするべきなのかもしれない。
リョウという異端をどこまでも拒絶し続け、それゆえに最後には自滅することとなった愚かな女。凝り固まってしまった思想と思考の今際に、何をこの男が見せてやったのかなどというのは知りたいとも思わない。
あの黒に触れたからこそ命を落としたのか、あの黒の存在、実在を認めなかったからこそ死んだのか。
おそらく答えは、――どちらも、だ。
「それより」
もう、死んだ箱へ視線をやることはしない。
そもそもどうせ、こんな時間はすぐ終わるのだ。終わらせるのだ。そもそも終わらせなければ、動けない。
まだもう少し続くであろうリョウたちの告げる「終幕」に、多少なりとも噛んでやるくらいの役得はもらえなければ正直、やっていられない気分に現在のアノイは陥りつつあった。
またひとつため息とともに、だから彼へとアノイは続ける。
「なぜ、あんたはここにいる。いい加減答えを寄越せ、俺もそれなりに忙しいんだ」
「それより、とは。うら若き乙女がひとり命を落としたというのに、また随分と冷淡な言い草があるものだ」
「あんたに言われる筋合いはないと思うがな。……今更何をどうしたところで、こちらの勝ちに変わりはないはずだ。本当にあんた、何しに来た? まさかこれを届けに来ただけとは言わんだろう」
「いや、随分とそなたが退屈していたようだったのでな。仕方がない、少しは動いてやるかという、気も少しは起こしてやったというだけのことだ」
「面倒な戯言と迷惑はいい。で?」
本当に何とも、不毛な会話ばかり続く。ざくりとまたしても切って捨てれば、ふわりと目前の相手は目を細めた。
少しだけ低くなった声が、相手の本題を、告げていた。
「レジュナリア【傀儡師】を、そなたらはどこへやった?」
ひやりと、不意に白刃をこちらに突き付けるような調子へとおちた声に。
アノイはただ、小さく喉奥で笑って見せた。あぁ、と。
「つけてたモンが、全部引っぺがされたのか。なるほど」
「驚かぬな」
「驚く要素がないからな」
「ほほう?」
とある一人のレジュナリア【傀儡師】を、今回の彼らが使い殺そうとしていたことは既に知っている。そしてよりにもよってそんな面倒なレジュナリア【傀儡師】に、リョウが関わりを持っていたらしいことも。
黒き異者であるリョウのことだ。絶対に何か無茶を相手へと吹きこんだであろうことは、その無茶が何か、普通なら絶対に不可能であろうなにかを相手の内側で煽ったであろうことは想像に易い。そもそもあいつが目をつける相手が、ただのレジュナリア【傀儡師】風情であろうはずもない。
まあ詳細は無論リョウ本人の口から聞きださないことには色々な意味で始まらないが、そのためにもとりあえずは目前のこれをどかさないことには、何もアノイには、できない。
だからこそアノイは、笑った。
笑って、彼もまた相手へと白刃を突き付け返す。
「だからこそあんたが邪魔なんだ、ラズ。俺はさっさとあいつらの場に踏み込んで、かっこよく王サマとして最後の幕を綺麗に、裏側であんたたちに大泣きさせられながらまとめてやらなきゃならないんだからな」
「随分と楽しげな顔をしておいて、良く言う。それに、なるほど。そういうことか」
「なんだ、そこまであんたたちまで、あいつを気に入ったとでも言うのか?」
首をかしげて問うてやれば、くく、と喉奥でラズ――先王弟にしてアノイの叔父であるその男、ラズクリフ・オークレイス・フェイターレンは楽しげに笑った。
本当に楽しげにしか見えないその表情にこそ、何とも形容しがたい嫌な気分を覚える。なぜならアノイ自身がそんな表情を、本当にとっておきの玩具でも見つけたときにしか浮かべたりはしないからだ。
分かりすぎるというのもある意味困りものだ、と思う。
彼の正しさを証明するかのように、ラズが返してくる言葉は本当にどうしようもなかった。
「今回は私と言うよりは、主にライのほうが、だな。……私も近々、この目で確かめてやろうとは思っているが」
「は、精々平和的な手段でも考えてくれ。無理な話だろうが」
ライという呼び名が誰を示すかなど、今更すぎて何かを論じてやろうという気にもならない。
だからこそ返した適当な言葉に、さらにその顔に浮かべる笑みを深めてラズは続けてきた。
「おまえが一言譲ると言えば、事態は最も手早く済むが」
「あーあー知らん知らん。本当にあんたは根っから底抜けの善人だな、ラズ」
「何を今更分かったように。やはりまだまだ若いな、そなたは」
「若かろうと何であろうと、俺が王様だってのはただの決定事項だ。今更揺らがせるつもりもない」
「ふ。それでこそ我が甥というものだ、アノイ」
「俺もしみじみ、俺はあんたの係累だと思うよ、ラズ」
肩をすくめて笑って見せる。そして彼の敬愛する叔父も、その表情をそのまま鏡返しにするかのようにまた笑う。
そして笑った顔のまま、ゆらりとその場に歪んで、消える。
本当に面倒だと改めて思った。さてはて、まったくこれから俺は、とりあえずヤツに何を与えヤツから何を奪ってやれば一番コトは早く進むんだろうか、と思う。
アノイ一人きりになってしまった空間の中で、持ち帰る気などはなからかけらもなかったのだろう無残な若い女の生首を傍らに、彼は軽く腕組みをした。
教会というものに対して、そう遠くないうち大鉈を振るう必要があることは分かっているつもりだった。しかもその必要性は今回の一件が、その鉈を直接に振るう人間とその方向性に関しても含めて、おそらくこれ以上ないほど明確に示してくれた。
無論目の前のこれは、生きているときはマリア・エルテーシアと呼ばれていた存在は、その改革の足掛かりとするにはとてつもなく極端に過ぎたものであるというのも分かってはいたが。
こんな切り捨て方をされたところで、まったくもって「こちら」が嬉しくなどあるはずがないのだ。だからこそラズは彼女を誘い、おそらく救いや何かという安っぽく光り輝く甘い餌でもちらつかせて、その光輝にまぎれて彼女が持っていたはずの「先」、すべてをあっさりと断って見せたのだろう。
今更そんな手腕を唾棄する清廉さを持ってなどいないが、何もかもを救えるような力など誰もが持っていないからこそ、自身もまたどこまでもみっともなく、足掻き続けねばならない存在であることも知っているが。
ただ、しみじみ面倒だ、と。
また同じようなことを、アノイは静寂の部屋の中、思う。
「……ったく」
もうひとつ独りで息を吐く。遙か彼方を見通すまなざし。ひと、もの、すべての動きを予測しその糸を引いて見せる先見の明。すべてを見霽かし場を時を、国をひいては世界を動かす、力。
今回の件に際して、果たしてそれは誰がどこまで持っていたものだろうか。誰が何に読み勝ち、俺は果たして、何を読み違えた? どの意思がどのように読み違えられ、誰の持つ何の感情がどのように踏み躙られ/あるいは改めての光を発して明確に顕現した?
己を不完全と言いながら、それでも動くひとりの異者が。
今回もまた、誰もが目を瞠り元来の計画からは大それた方向へと動き出す、そんな巨大で色すら判別のつかぬ渦の中心点となって、回転を始めている感覚がある。
「……とりあえずは、行くか」
全く何の気もない口調で、だからこそ「大それたこと」をさらに彼の双肩へと積ませるべく。
さらにひとつ息を吐いて、それまでかけていた椅子から、ゆっくりとアノイは立ち上がった。




