P2-58 祓焔
存在した次には奪われた。駄目だと思いながら次ができて、またその次も奪われる。
向けられてきた刃の数など知らない。存在を跡形なく消し去るため組み立てられた数多くの方法を、もう今更一つ一つ挙げるような気力も興味もない。
けれど彼、或いは彼女が、最後にこちらに向けたものと、
「…………カリア?」
彼が今、当然のようにこちらに向けてくるもの。
呆然とこちらを見つめてくる、黒い瞳。
なぜかその色を見た瞬間、カリアは泣きたいような気分になった。
テレパスト邸より跡形なく、リョウの姿が消え去った。
その情報がカリアへともたらされたのは、ニースの独断で動かすことを許していたマオシェ【影鳥】の数人が瀕死の重傷を負い戻ってきた仔細を詳らかにせんとしていたときのことだった。彼に連なる者たちに対する、ニースの独断専行を、その詳細を紛糾する暇も、残念なことに彼女にはなかった。
リョウ周辺の護衛監視役として、三人派遣していたマオシェ【影鳥】全員が倒れ、異変に気づいた他の者がエネフの屋敷に向かったときには既に、遅かった。
リョウを軟禁するためいくつもの特殊な加工がなされた部屋のドアは開かれており、中には果たして、誰もいなかった。
代わりにマオシェ【影鳥】が持ってきたのは、たった一文だけの短い手紙。
差出人も宛先も書かれてはいないそれの、意味をしかしカリアは決して取り違えるはずもなかった。
――メルヴァスにて、異端の黒を独り望め。
メルヴァスとは、王都アンブルトリアの西端にぽつりとある、とうの昔に廃墟となった地下神殿の名だった。そもそもがメルヴェ教会より邪教と断定された宗教の神殿だったうえ、一切人の手が入っておらず老朽化が進んでいるために、普通ならば入ることはおろか、近づくことすら不可能な場所である。
リョウがいなくなったその跡に、放置されていた手紙に書かれた「黒」が彼以外を指すはずがない。
彼を返してほしければ、メルヴァスにカリア一人で来い――。見知った文字が綴るそれに、しばしカリアは呆然とした。
「幾分早い到着だったな。彼をその手の内よりこちらに連れ去られている時点で、既におまえたちの失態は如何ともし難いだろうが」
「……」
廃墟のはずの空間に、一体いつからいつまでの間、どのような手段を用いて彼らは。
疑念ばかりが渦巻く脳内では、うまい返しも思いつけない。カリアはただ、静かに目前の人間を見据えた。
万全とは言えずとも、現状における最善は尽くしたはずの状況でリョウを連れ去られてしまった。今目の前に悠然と立つ彼女の叔父が通常の規格の外も外、代々国でも指折りの優秀な魔術師を輩出し続けているラピリシア家の歴史を紐解いても、確実に上位五名のうちには入るほどの魔術の使い手であることが分かっていても、それでも守るべきものを奪い去られたことへの言い訳にはならない。
なぜ彼自らが「今」リョウのもとに赴き、彼をこんな場所にまで攫ってきたのかなどカリアは知らない。否、彼というものに多少の因縁を覚える理由くらいならあるだろう、だが、何故それが敢えて「今」なのだ?
既に真実を詳らかにする手はずはほぼ整ったような段階で敢えて彼を攫い、今カリアをこんな廃墟へと単独で呼び出す理由など。
知るわけがない。――ぎしりと脳内で軋む景色と、今目の前で展開する景色は、違う。
「……お久しぶりです。グライゼル叔父さま」
どうにも嫌な予感しか覚えられない中、だからこそカリアは淡く、自身の叔父へと向けて笑ってみせた。
思えばほぼ一切の他人の目を交えず、彼と相対するのは随分と久しぶりだった。決して二人きりというわけではないが、リョウはある意味極めつけの例外だ。
何をここでカリアたちが面倒に迂遠に口にしたところで、おそらくその内容の半分も、結局満足に何を知らせることもできないままこんな状況に陥らせることになってしまった彼は理解できない。
何も知らないからこそ、リョウは今回のような事態を起こしてしまうこともあれば、カリアの友人であり続けてくれるのだということも分かっている。
けれどそれは、本当に守ることなのかとも同時にふと、思った。同時にざらりとまた思考に雑音。ただ大切に守ろうとした、そのままであって欲しいと思った。あぁ、良く考えずとも、そうだ、この状況は――。
カリアさま、と。
彼では決して有り得ない声がいくつも、連なって重なりはせずに彼とは全く異なる声で脳裏だけを緩く突くように撫でる。
「おまえと会うのは、宮廷での新年祝賀以来か。少し見ぬうちに、垢抜けたな」
「おほめの言葉をありがとうございます、叔父さま。……ですが残念ながら私にはあまり時間がありませんので、単刀直入にお伺いします」
別に笑いたくなどないのに、顔に実際に浮かぶのは笑みだ。あまりに薄っぺらくてカリア自身嫌悪している、彼のような手合いに相対するときの表情。
逸る心臓に言い聞かせる。今は過去のどれとも状況が違う、自分も彼もなにもかも、いくつもの類似点はあっても多くのことが違う――。
わずかに目を細めこちらを見つめる、リョウの視線を感じながら。
あくまでグライゼル一人に視線を据えてカリアは言葉を続けた。
「彼をこのような場所に抑留拘束したうえで、私一人に何のご用でしょうか、グライゼル・シェンディーリフ・ユヴェント殿」
グライゼルがリョウを使い、カリアに何かをさせようとしていることは分かる。じわじわと足元から這いずり上るように蘇ってくる過去の凄惨な光景と状況を併せて考えれば、彼がこれからこちらにやらせようとしているのだろうこともおのずと知れる。
けれど。
ふたりの会話はドア越しに、カリアにもわずかに漏れ聞こえていた。
グライゼルが一切リョウを「従え」られてなどいないことは、彼の言葉の端々を聞くだけでも彼女には容易に知れた。それは今までのどのときにおいても、有り得なかったことだった。
どこか不敵にすら聞こえた彼の台詞は、状況の異質さをさらに彼女に実感させた。
それは或いは彼だから、なのか、それともただグライゼルの罠でしかないのか。分からなかった。むしろ後者であるのかと、この場に踏み込むまでは思っていた。
しかし現実は、これだ。リョウはただ、縛られているだけだった。彼は彼のままで、そんな彼をグライゼルは面白がっているようにすら見えた。
何事につけても実力が第一と考えるグライゼルは、安易に身分で人間を見るわけではないが、自身が非常に優秀である分他人への評価も相当に厳しい。
一切の肉弾戦および魔術戦の能力を持たない代わり、人、国、世界すら容易に一段飛ばして思考する能力を持つリョウは。
かつてのカリアに対するのと同じように、グライゼルにもまた、何を虚飾するでもないリョウそのままの思考をまっすぐに彼へと、向けていた。
「なに。このたびの事態では、随分とおまえたちが予想外な動きを見せてくれているのでね」
「……?」
それでもやはり、彼の目的が分からない。なにがしたい、何がさせたい? この場の方向性を捉えることができないまま、なぜか機嫌がよさそうにも見えるグライゼルを見据えてカリアは眉をひそめた。
彼と単独で向かい合い試された記憶はあっても、その時分に彼がここまで上機嫌だった印象など一度もない。
だからこそ先ほどから次から次へ、カリアの背筋を這い上ってくるのは振り払い難い怖気にも近い感覚だけだった。この廃墟も、普通なら何もないがらんどうのはずの場所に運び込まれた大量の異物も、この場にリョウがいる、一番太い柱に彼が縛りつけられ、先ほどは敢えて「ただ」と言ったが、実際は彼が無魔であるという事実を鑑みればおおよそありえない強度と数の身体拘束術が、拘束具すべてに施されているという事実もまた、その怖気を助長する要素にしかならない。
いくら違うとわかっていても、チカチカと目前に過るのは、今とは違う、はずの今と酷似した過去の景色。
彼と出会う前の、リョウと出会う直前の。彼の宿す黒とは違うどす暗い闇に押しつぶされそうになった原因の――。
しかしカリアの感覚など知らず、グライゼルは滔々と流れるように言葉を続けた。
「私が彼を捕らえたことはともかく、彼という存在を見出し、全ての糸を繋ぎ真実へとたどり着いたことは、素直に称賛に値する」
「……」
こんな場所を設えたのが、ただ称賛のためというなら。
とうの昔にカリアは、彼という存在を討ち果たすことができていただろう。
ぎゅっと拳を握った。震えは無視してただ目前を見据えた。
今更ここから逃げ出すなど、絶対にないのだと自身へ、言い聞かせる。
「だからこそ、私は手ずからおまえをここに呼んだのだよ。カリア」
ニースに、アノイへの言伝は頼んだ。カリアの出立より十五フィオ(十五分)ののち、ここメルヴァスへ確実に使える兵を向かわせるように、と。
こんな場所で死のうとは、かけらもカリアは思っていない。グライゼルの望み通りの選択肢を、選んでやる気も決して、ない。
同時にリョウを見捨てて何もせず、この場に訪れないという選択肢もまた、カリアにはなかった。
そのようなどうしようもない、最低な選択肢を潰すためだけにずっと、カリアは己の力の研鑽を続けてきたのだ。そもそも今回の一件で、カリアは既に一回彼を使ってしまった。最低なことをした。そんな事態などもう二度と、自分に許したくはなかった。
過去の後悔と絶望を、無理やりに糧として飲み下して常にその痛みに苛まれながら。
それでも何としても、少しだけでも前へと進むことしか決して彼女には、許されなかった。
「カリア。今この木箱に入っているのは、おまえたちが捕捉していないこの国に存在する人形のすべてだ」
「……っ!?」
「さらに言うならこれらには、あと三フィオ(三分)で王都の民の虐殺へと向かうよう、一体残らず命じてある」
「……なん、ですって?」
性質の悪い冗談としか思えないグライゼルの言葉。しかしそれを覆すだけの何も、今の彼女は持っていなかった。
なにしろこの部屋いっぱいに乱雑に重なる、箱はただ「目線」を遣ったくらいではカリアの力をもってしてもその内側が決して透かせない。ただの無造作な木箱を装いながらその実この場にある全てに施された術式の量、そしてその術式に耐えうるだけの材質とそれに見合う内容を考えれば、おおよそ彼の述べるような、ろくでもないものしか想定することなど不可能だった。
それでも敢えてわずかの詠唱とともに「目」を開けば、一斉に魔術の気配に応じ、こちらを「視」返してきたのはひどい空虚。
カリアの配下たる第四魔術師団の団員達も、今日だけで決して少なくない数を相手取ったモノだった。
「分かったかね?」
天気でも尋ねるような調子で口を開くグライゼルに、カリアに返す言葉はなかった。
いったい、なんて数の眼だ。本来、存在してはならないもの。存在そのものを葬られるべきであるもの。人の手によって造られた人をものを国をすべてを毀すニセモノの山なのだ。
レジュナ【傀儡】。
その名の持つ意味を限界まで引き出そうとするかのように、落ちかけた場の沈黙を破ったのは――笑い声だった。
「――っ、は、ははは」
それは決してこの場には、そぐうはずもない声だった。
もはや軽やかですらあった。知らず下げかけていた視線を思わずまた目前まで引き上げその声の発信地、彼を見やる。カリアのみならずグライゼルからも送られる怪訝の視線にも、リョウは揺るがなかった。ただ、笑っていた。
ぎしぎしと、笑いというその動作のたびに彼か或いは柱か、何かが軋む音が耳障りに同時に聞こえる。それでも彼は笑う。笑っている。怖くないのかと一瞬思って、ないはずがないと即座にカリアは断じた。
だって、状況は未だに何も変えられてはいないのだ。
けれどどんな怖さがあっても、それでも前に進むのが彼だというなら、それはひどくリョウらしいではないかともどこかで、思った。
「あーあー、なんだ、やっと分かった。なるほどね。結局そういうことなのか」
「何がそんなにおかしいのかね、君は」
私の話はまだ終わっていないのだが、と。
静かに告げるグライゼルに、ふてぶてしいまでの視線をリョウはまた向けた。
「話も何も。やっぱり俺を殺すつもりでここに連れて来たんですね、ライゼルさんは」
リョウの表情の中で目だけが、決して笑わずにグライゼルを睨み据えている。
わずかにグライゼルが、ふわりとリョウを見据えてその双眸を細めた。目前で互いを睥睨する二人の表情はそのいずれもカリアが見たこともないようなもので、もはやどこから何に驚いていけばよいのかも彼女にはよくわからなくなる。
そもそも彼は、何を狙ってそんなことを敢えて口にしているのだろう。彼は増援の存在を知らない。さらに言うならこの場にある人形たちは、一度「時間」が訪れ目覚めさせられてしまえば、おそらくカリアの力をもってしてもすべてを相手取るのは困難だ。
誰を何を模し、何を襲い何を壊すのかなど知りたいとも思わないが。
模すものが最悪であり招来するものがただ災厄と禍であるということだけは、もう既に嫌というほど似たような、過去の現実の事例をもって彼らは示してくれてしまっている。
「さて。誰が、君は決して死ぬことはないと言ったかね?」
「詭弁でしょう、そんなの」
静かに笑って告げる彼へ、ケッと斜に笑ってリョウが言い捨てる。
このグライゼルを相手にして、なぜ彼はここまでの暴言を口にすることが今でも許されているのだろう、結局それだけ、グライゼルがリョウに、異界の者だという彼に興味を抱いてしまったということなのかもしれない。
この場で一番の異端者は、さらにとばかりに言葉を続けた。
「要するにあんたは、最初からカリアに選ばせるつもりだったんだな。俺とこの国の人間と、どちらかを」
「理解が早くて助かるよ。まあこの子がそのいずれの選択肢を選ぶとしても、君という人間が生存できる可能性は至極低いと言わざるを得んがね」
笑みをほとんどそのままにこちらへと一瞬だけ向けられ、キン、とその刹那、カリアの頭はひどく痛んだ。
グライゼルがリョウを攫いさらにカリアだけを呼び出した時点で、分かり切っていたことに対しての改めての、正直なところ馬鹿馬鹿しいとさえ思う痛みだった。最低な現実をリョウもまた理解してしまっていることに対しての、結局本当に間に合うかも知れない己への、忸怩と後悔にも似た痛覚だった。
思考を止めるなと、意識の端が警笛を鳴らす。そんなことは分かっている、時間はない、取るべき術もそれへの反発も彼女の内側で勢いよく渦を巻く。
しかしそんな醜悪な最低の中でも、リョウはどこまでも言葉を止めなかった。
「ライゼルさん、片手だけでいいんで拘束解いて下さい。というか解け、一発殴らせろこの野郎」
「随分と勇ましいな、君は」
なに、いってるの、あなたは。
どうして笑ってるの、リョウ?
もはや混沌の思考の中で、純粋にそのときカリアは不思議に思った。どちらも異常だった。すぐに死者となる人間には、何を言われたところで別に気にはしないとでも言うつもりだろうか。
グライゼルの周囲の人間が耳にすれば即座に彼の首をはねようとするだろう言葉をリョウが口にしても、ただグライゼルは楽しげにわずかにその口許をゆるめて笑うだけだ。余裕の態度を全く崩さない彼は、何とか身体を少しでも動かそうとするリョウを横目に、不意にカリアをまた改めて振り返った。
深紅の瞳と、視線が合う。
リョウに向けたのと同じように、楽しげに笑ってグライゼルは言った。
「さて、おまえも何か言ってみてはどうかね、カリア」
こうして話をしている間にも、刻一刻と時間は過ぎて行っているのだぞ、と。
自身がこの場の絶対主であるという認識を揺らがせぬ彼は、言う。カリアという人間を識り、リョウという人間を識り、二人のいずれも詳細には決して知らぬこの国の「悪」を総括して担う者の一端はそう言う。
時間がない? 知っているそんなこと、分かりきっている。余裕だってない。動機は今にも息切れを併発しそうで、腹の底で揺らぐどろどろとひどく強く熱いものが巡る混沌の中でぱちりと弾けて火花を放つ。
もう二度と返ることのない呼び声の数々を、改めて思う。
ふらりと揺らぐ、目の前で脳裏で閃いて精神を苛む過去の景色は消えない。希望が絶望に染め変わった瞬間、確かに伸ばされたはずの、取れなかった手の数々。届いたと思った、それすら幻想だった、泣いても喚いても何をしても絶対に戻ってなど来てくれないのだと、巻き込んでしまったのだと、おまえのせいなのだと――痛い。指先が、痺れる。
だからこそ、ただひとつの名前だけを今。
決して目前のグライゼルには応じることなく、カリアは唇にのせ、呼んだ。
「――リョウ」
「ん?」
全体を照らし出すには足りない光の下では、こちらを見つめてくる彼の瞳は完全な黒であるようにカリアには見えた。
決して邪悪の闇ではなく、やわらかな夜を思わせるその目に。
成功率は決して百ではない、ただひとつの可能性をこの手掴むための言葉を、カリアは口にする。
「信じて、……くれる?」
一ではなく、百でもなく。百一を選ぶ方法をただ一つだけカリアは知っている。それはあの日を繰り返さないために、もう一度自分という存在を立てなおした後のカリアが得た、得るためにカリア自身が多少なりとも死にかけたひどく危険な方法だ。
ごめんなさい。一昨日にも向けようとした醜悪な自己満足の言葉を内側で握りつぶした。またこんなことしかできないと思った。ひどいと改めて思った。それでもカリアは「それ」以外の方法を知らない。
彼女の手にひとつだけある「それ」は、少しでもカリアが失敗すれば、間違いなくリョウが無事では済まない方法。最も危険にさらされるのは彼であり、何の保証もしてはやれないのもまた彼だった。
同時にグライゼルに支配されたこの場を、ただ一瞬だけでも覆し得る唯一の方法でもそれはあった。天秤の両腕が掲げた皿の上をすべてさらうための、たったひとつの理不尽じみて、どうしようもなく貪欲なやり方。為す術。
ほんのわずかでもこの男、グライゼルという相手に一撃を喰らわせるがための方法。
不確定のすべて思わず震えた拳をぎゅっと強く握り込んだカリアに、返ってきたのはやわらかいリョウの声だった。
「カリア」
「……リョウ?」
ふっと、リョウはそこで笑った。先ほどまで彼がグライゼルへと向けていたのとは違う、どこか悪戯っぽさもその目に光らせた邪念ない笑みだった。
少し首をかしげて問えば、彼はその笑顔のままにカリアの予想外なことを、言った。
「よろしく」
――分かった。信じる。
彼の言葉に連なり響く、その言葉を受けたのが一昨日のことだとは到底信じられなかった。
随分あの夜が遠いような気がして、しかし今この場においては、別にそんなことは結局はどうでもよかった。
ふっと、淀みがわずかにだが吹きはらわれるような感覚があった。ぱちりとまたひとつ、身体の内側で火花が弾けて光が舞ったような気がした。
身体の震えは止まない、指先のしびれは引かない。それでも、もう彼女の身体は完全に硬直してはいなかった。おそろしいという形容が結局今でも一番に来てしまう叔父を目の前にしても、風が吹く。
知らずふわりと、彼女の表情はその刹那ほころんだ。
痛みはある。残っている。それらから目をそむけ忘れようなんて思っていない。
救えなかった、犠牲にしたものを忘れる権利など自分にはない、……けれど今、何より大切なのは、リョウがカリアを信じてくれるということだ。
彼は操り人形ではない、そんなものにはならない。
誰かの何かの傀儡となり、動くことなどきっと、できない、――させない。
「ええ」
成功、させてみせる。
彼への応えとともに、半ば無意識のうちに彼女の表情は笑みを形作った。
それなら早くこれを解いてくれとでも言いたげに笑み返してきた相手の目線に、妙な心地よさすら一瞬覚えてしまった自分はおかしいのかもしれない、と思う。何も事態は変わっていないのに、それこそグライゼルが一つ手を動かせば彼の命が奪われかねない状態は何も変わっていないのに、それでも彼女の胸には既に焔が灯っていた。
しかし二人の空間を無遠慮に裂くように、淡々としたグライゼルの声が次には、響く。
「さて、どうするね、カリア。いくらラピリシアの当主といえど、ここに存在するモノ全てが動きだしてからその全てを相手取るのはまず不可能だ」
さらに言うなら、現在のリョウを束縛する厭味かと言いたくなるほど精巧すぎるモノ全てを解き切るには、確実に一フィオ(一分)以上の時間がかかるだろう。彼のすぐ傍らに今もまだ立っているグライゼルが、みすみすそんなことをカリアに許してくれようはずもないことも分かっている。
だからこそカリアは、百一を選択するための魔術をこれから使う。
今まで一度も実際に使用したことのない、代々焔使いとして国内外に名を馳せるラピリシアの血統においても数度しか使用された記録の残っていない術式をこれから、構築する。
「……【閉じた天地に果てはなく、終わらぬ夜は加速する】」
「ほう?」
グライゼルの言葉には応じず、彼女は笑ったまま目を閉じる。聴覚も閉じる。感じるのはただ己の血潮、その最中で全身をめぐる己の魔力だけでいい。
引き出す力、過去に紡がれたものを今現実のものとしてカリアは組み立てていく。胸の内に宿る焔は、過去に一度目にしたそれとは同じようでどこか違っているように思えた。
何が違うかは知らないが、その差異は決してカリアにとって不快なものではない。そしてカリアの「悪あがき」を、見届けようとでも思っているのかグライゼルが敢えてなにかこちらに仕掛けてくるような気配もない。
魔力を練り上げ収束させてゆく、その作業の中でふと純粋な黒の目線をカリアは感じた。
絶対成功させて見せると、言葉はないまま、その色に誓った。
「【しかし無明の最中にて、我は焔を諸手に宿し、闇の砕破を願う者なり】」
やはりおまえは、そちらを選ぶか。
どこか呆れたような声が、意識の端を上滑りするのがわかった。その言葉にもうひとつカリアは笑った。どうやら彼は彼らしくもない、勘違いをしてくれたらしい。
さらにさらにと、紡ぐべき術式をカリアは続けた。
宿る焔が光を増す、強度を、輝度を、熱を螺旋させ膨脹し、疾駆し巡り回り廻り、互いに干渉しさらなる高みへと上り詰める。
「【暁を降ち陽を導くは、千年の祈り、救済の願い。我は今其の鎖を手繰り、光天の焔を寄せる者】」
カタリ、と。
何かが動き出す奇妙な音が聞こえたと同時、カリアは閉じていた瞼を見開いた。告げる。
「【開け光焔、放てよ閃光】」
リョウと目が合う。彼がどこかひどく不敵に笑う。
カリアもまた彼に笑み返し、最後の一節を高らかに紡ぎだした。
「――――【我が眼前の邪悪を滅し、闇を掃いて曙光を誘え】!!」
術式が完成する、その瞬間。
あまりに眩い、目を焼くような光が室内を何一つの例外もなく埋め尽くした。
音もなく満ちるその光は、しかし見開き続けるカリアの視界の中でふわり、ゆらりと揺らいだ。全身を喰らい尽くす熱も風も感じない、ただゆるやかな熱波の毛先に触れたときのような、やわらかなものが全身を撫でていくような感覚だけがあった。
だが外見と感覚がどうあれ、それは確かに、焔だった。彼女の意のままに全てを守護すべく包み、全てを灰燼すら残らぬ無へと帰す絶対のしろがねの焔だった。
しばしたゆたい室内を満たした、光がやがて消え去ったとき。
そこに変わらず残っていたのは、二人の人間だけだった。
『……レジュナ【傀儡】のみを焼き尽くしたか。見事なものだ』
そして声だけがカリアへと降る。やはりとも言うべきかグライゼルは、せっかくの術の完成と成功を実際に目にしてくれることなく、どこかへと瞬間転移してしまったらしい。
先ほどの焔によりすべての拘束具を焼き尽くされたリョウが、どさりとその場に膝から崩れるのが見えた。続いて響く小さな呻き声に思わず目を見開けば、彼は苦笑して首を横に振った。大丈夫だ、とでも言おうとするかのように。
しかし振られたのは見えても、足は勝手に走り出していた。
持てる魔力のほとんどを、つぎ込んでしまった身体はもはや逆に軽い。
気づけばカリアはリョウの傍へと駆け寄り、自分よりも大きな彼の身体を両腕で思いっきり抱きしめていた。
「……っ!!」
肌を通して、伝わる相手の感覚。過去と現在の隔たりを何より鮮やかで明快なものとしてカリアへ伝えてくるそれに、ぐっとひどく瞬間、胸が苦しくなった。
びくりとリョウが腕の中で身体を震わせたのが分かったが、カリアは決して腕の力を緩めることはしない。できない。魔術のせいでへんになってしまったのか、身体は、どうにもただ理性で考えるだけではまともに動いてくれなかった。
強く彼を抱きしめたまま、決して少なくない疲弊を訴える身体を無視したまま、
既にどこに転移したとも知れない相手へ向かって、カリアは声を張り上げた。
「いつまでも私が、何の力もなく決断するための選択肢も持たぬ、孤立無援の小娘だとはお考えになられませんよう、叔父さま」
『ああ、確かにそうかもしれんな。……まったく本当に、随分、面白い事態になってきたものだ』
どこにもいないその声は、今でもどこか楽しげだ。
彼の声と同時に不意に、ひらりと目の前に一枚の紙切れが落ちてくる。片手を伸ばして掴み中身を見れば、それはたった今灰燼すら残さずカリアが焼き尽くした、この場につい今しがたまでは確かに存在していたはずのすべての、詳細な取引目録だった。
思わずカリアは唇を噛む。要するにカリアが予想外の結果を出したことへの、これは彼らからの「褒章」とでも形容するつもりのものなのだろう。
結局のところまだ私は、彼に手を届かせることはできない。
考えたそのとき、不意に腕の中のリョウが声を上げた。
「……ライゼルさん!」
『何かね?』
至近距離で鼓膜を揺さぶる彼の大声に、半ば反射的にリョウの顔をカリアは見やった。どこにもいない彼に向けての声を、誰もいない天井のある一点を睨み据えて発するリョウの目には確かな、意志の光がそのときのカリアには見えた。
強い光を宿すまま、彼は先ほどのようにどこか不敵に笑う。
「俺の意思は、変わりませんから。それにもう一つ、今回でやらなきゃならないことが増えました」
『ほう?』
「絶対いつか、俺はあんたを一発殴りに行きます。相当痛くしてやりますから、今から覚悟してて下さい」
『……おやおや』
なんとも無謀すぎるリョウの言葉は、今は妙に心地よかった。
少し困ったようなグライゼルの声が聞こえ、その声が消えると同時に完全に彼の気配もまたこの場から消えた。少しでもあの焔が彼という存在の端だけでも薙いだことを祈るしかできない今の自分はまだ本当に色々と不足しているが、……それでも、今度は。今は。
後に残ったのは何もなくなった部屋とカリアとリョウ、ただ、本当にそれだけだったけれど。
けれど、間に合った。成功した。
それに、守ることができた。
目の前にある事実があまりに嬉しくて、もう一度ぎゅっと力を込めてリョウへとカリアは抱きついた。自分とは違う鼓動が聞こえる、自分とは違う体温が腕の中にある。何を言葉にされるよりも明確な他人の感覚は、今のカリアにとってはただただ、本当にうれしかった。
しばらくあーだのうーだのと、呻いたりなんとか身体を動かしたりしようとするリョウの気配があったが。
すべて無視して抱きついていれば、ひとつ大きなため息とともに彼は、優しくカリアの頭を撫でてくれた。




