P2-57 傾く天秤の宿す色
多方向性に走った衝撃と、握りつぶされた一枚の紙切れと、
咎めを止めてまでも走り出そうとする一人と、その想いの方向性を掴む/掴まない人々と、
再び椋が目を覚ましたとき、目の前にいたのはまた彼だった。ひどく楽しそうな目で椋を眺めるその視線に、どうしようもなく不穏なものしか感じられないのは確実に椋のせいではない。
さあここはどこだ。どうしてこんなに暗い、どうして身体が痛い上に動かない、ギシギシさっきから何かしら軋んでいるような音がするのは何故だ。
先ほどまでと同じようでいて全く違う自身の状況を感じつつ、ため息とともに椋は口を開いた。
「何してるんですか、あなたは」
「何、とは?」
いかにも、椋の言っていることが分からない、と言いたげな彼の声と表情。さらりと澄まし顔のライゼルは、本当に一体何を考えているのかさっぱり椋には分からなかった。
現況を少しでも理解しようと首や手足を動かそうとして、首以外の一切が全く動かなくなっていることに椋は気づく。後方に回された腕からギシリと何か軋む音と痛み、目線を落とせば下半身は足首、脛、大腿、そして骨盤とみぞおちの下あたりが何か、ロープのようなもので完璧に固定されてしまっていた。
少しずつ暗がりに慣れてきた目で、周囲を見やる。ひどく薄暗く天井が低く、ひやりと気味悪く湿った空気はなんともかび臭い。
決して狭くはないのだろうこの場を狭く息苦しく思わせるのは、あちこちに無造作に山積みされている、何が入っているのか分からない大量の巨大な木箱だった。めぼしい明りは椋の右上一メートル半くらいの場所でふよふよと浮いている半透明の頼りない光一つだけで、木箱に書いてあるのかもしれない中身の情報をまともに読みとれるかどうかも怪しい。
明らかに先ほどまで椋のいたエネフの屋敷ではないこの場所が、一体どこであるのかなど椋には知る由もない。
最後に椋が覚えているのは、彼と喋っていたらいきなりぐらりと視界が揺らぎ、目の前が白っぽくかすんだことだ。
そしてもう一度目覚めれば、なぜかこんな場所で、まったく動けないくらいにきつく何かで縛られている。どう考えても普通ではないそれらを可能にできる人物など、目の前で相変わらず平然としているライゼル一人しか絶対、ありえない。
もうひとつため息とともに、椋は不快に眉を寄せた。
「何で俺はいきなり意識を失って、気が付いたらこんなところで縛られて動けなくなってなきゃいけないんですか」
「随分とそれは今更な疑問ではないか? ミナセ君」
にこやかな、とでも形容できそうな調子でライゼルは椋へと言葉を向けてくる。
ああ、確かにこんな疑問は今更なのかもしれない。誰に断ることもなく勾留されているはずの椋の元へと赴いた、椋をあの場所に勾留するよう取り計らってくれた側の人間たちとは反対の場所に立つ人間がやろうとすることなど、古今東西ひとつふたつしかあるような気がしない。
何を考えてもため息しか出てこない椋に、何か与太話でもするような軽さでライゼルは続けてきた。
「君という存在はこの国において、他のどのような人間とも違う特殊な意味合いを持ちつつある。確かにあの子たちが君に目をつけるのも無理はあるまい。私もそう思ってしまえる程度には、君は我々の想像の範囲を越えている」
「……それは、どうも」
こんな状況においては確実に、彼の言葉は褒め言葉ではないだろう。
分かってはいるが他に何の言いようもなく、ついでに言うならただ黙りこむのも癪だった。自ずと目前の人物を睨むようなかたちになる椋に、つらりとライゼルはさらに続ける。
「しかし須らく、不確定要素というのはな。いつ何時どこへとその天秤を傾けるものか、誰にも分からぬものだ」
「……」
「だからこそ我々は今、君をこの場に誘おうと考えた。我々からすれば今更君がどちらへ皿を傾けたところで、いずれこの国へともたらされる結果に大した変化はないからな」
そして彼が投げてきたのは、さらに椋が理解に苦しむような言葉だった。
何がだからこそ、だ? 基本がどうでもいいというなら、ただ何もせずに放っておけばいい話じゃないか――。
一層きつく眉を寄せつつ、ライゼルへと椋は口を開いた。
「やってもやらなくても変わらないなら、やらなくていいじゃないですか。まさか俺みたいなの捕まえて、縛るのが趣味ってわけでもないでしょう?」
「先ほど言ったことを忘れたか? あの子に追加点をやってもいいかもしれん、と」
「一応聞いてはいましたけど、それと今の俺の状況が、どうつながってくるのかが全然さっぱりだから言ってるんですよ」
一体何が悲しくて、こんな変な薄暗い場所で基本的には知らないおっさんに全身を縛られなければならないのだ。
不快を隠そうともしない椋に、なぜかふと面白げにライゼルは笑った。
「君の保持する特殊性が、これからこの場所に来る人物においてどう作用するかを見定めるためだ」
「……何ですか、それは」
「何を見ることもなく、何を聞くこともなく、何を言うこともないというのは気楽なものだとは思わんかね。ただ己が日常を守りただ庇護されるべき存在であり続けさえすれば、このような理不尽な非日常に巻き込まれることも決して、ないと」
「……」
どこか諭すようにも響く声に、返すための言葉はすぐには見つからなかった。決して彼の言葉が理解できなかったわけではない、分かるからこそ、椋自身考えたこともあるからこそとっさには言葉が出てこなかったのだ。
椋の沈黙を何と取ったか、さらに同じような調子でライゼルは続けてくる。
「君さえ動かずただ潜んでいれば、今回のような一切は決して起こり得なかったのだ。その程度は君とて分かっているのではないかね、ミナセ君」
「……」
「果たして君が何を救い何に手を伸ばせると思いあがっているのか、我々は知らない。だが君が今回のような不審であり、不信を煽り誰の目を通してであろうと異様である動きを続ける限り、我々は一縷の躊躇もなく、これからも君という存在をコマとして使い捨てようと思考および試行を繰り返すことだろう」
悪しざまに一言でまとめるなら、無茶な邪魔者はお呼びでない、と。
そんな言葉を告げる相手に、小さく椋は苦笑した。
「……あなたたちがやり続けてるっていう茶番が全部、終わるまで、ですか」
「茶番?」
「茶番じゃないですか。同じようなことを同じように願ってるはずの人間が、わざわざお互いを敵にして戦い合ってるなんて」
ざっくりと切り捨てる椋の言葉に、わずかにライゼルは眉をひそめた。その深遠な理想というやつも理由も理念もなにも椋は知らなかったが、何も知らないからこそすべては、本当に残念なことに椋には盛大な茶番にしか見えない。
下手すりゃ殴られるかな、などとも思いつつ。
椋は静かに、自分が思うままの言葉を続けた。
「俺にはライゼルさんたちがやってる、これからもやろうとすることの意味が正直、まったく理解できません。この国を大事に思うなら、わざわざあいつらの敵に回るんじゃなく、一緒に国を支えてやれば済む話じゃないかって、そういうことしか思えないくらいには本当に全然、何も分からないんですよ」
「それは君ごときが口出しするような事柄では、残念ながらないと思うが?」
「そういうことの一切も、わからないから言ってます。うちは結構親戚仲よかったから、非常に勝手に、なんか悲しいなあとか虚しいな、とかね。どうしても思っちゃうんですよ」
さらりと笑って、口にする。椋の親類は皆揃って、誰もが健康に自分の好きなことを好きなようにやっているような人間ばかりなのだ。
だからこそなのか、よくある昼のドラマのような滅茶苦茶も一切、なかった。それぞれが自由にやりたいように集まって宴会をしたりどこぞへ出かけたりと、何だか本当に思えば奇妙に、椋の親戚は皆仲が良かった。
親戚に年下ばかりだったうえ、彼らに何かと懐かれていたのも椋が子ども好きになった理由の一つだ。
だからこそ親戚の不仲などという話を聞くと、逆にそれを不思議にも面倒にも残念にも、思ってしまうのが椋という人間だった。
「確かに君は、大した苦労もせずに育ったような顔をしているな」
そしてそんな椋の言葉に、ざっくりと返してきたライゼルの言葉はなかなかに辛辣だった。辛辣な上にそれなりに的を得ているのが、何とも残念なところだと思う。
親兄弟にも親戚にも、友人にもかなり今まで椋は恵まれてきた。勿論ある程度の苦労ならばしたことはあるが、今こんな状況下で思い返してみればそれらはどれも結局、「どうしようもないほどに重大」な事態を引き起こすようなものではなかった。
基本はそれなりに順風満帆、改めて深く考えずとも、随分幸せな生活をかつての椋は当然のように享受していたのだ。
すべて過去形にしかならないのが、何とも滑稽なことだともそして、椋は思う。
「その分今、かなり周囲に迷惑かけまくってますけどね。情けないことに」
だからこそ椋は、目の前の男に向かって肩をすくめ、ようとして身体は動かず、ただギシリと何かが軋む小さな音だけが聞こえた。
医者のいない世界に放りこまれてもなお医者になりたいなど、本当に自分でも馬鹿げている夢だと思う。そんな夢が引き起こした、この世界との食い違いによるあの最低な光景は決して頭から消えない。
けれど結局のところ椋は、どう考えてもそこにしか辿りつくことはできない。
少しでも自分がやれることはと、思うのならばひとつしかない。何度考えてみたところで、椋にできること、やりたいと願うことは、医療という一点にしか決して存在してはいないのだ。
いくらアノイ直々の許可をもらってしまっているとはいえ、本当に水瀬椋という人間は面倒な上に鬱陶しい。困ったことだ。
眉をひそめたライゼルが、怪訝に椋へと、問うてきた。
「事実としてそれを分かってなお、その口をつぐみ、自他の安定を願おうとは君は思わない、というのか?」
「思いませんし、思えないんじゃないですかね。というか、そうなったら俺は、ある意味俺じゃなくなるような気がします」
何しろどんなに目と耳をふさいでみたところで、怪我や病気は絶対になくならない。患者は減ることはあっても、決してゼロになることはない。
人間が完全無欠の不老不死、何があっても傷ひとつつかない存在にでもならない限りは無理な話だ。しかもそんな状態にまでなってしまったひとというのは、正直なところもう人間と呼ぶことはできないのではないかとも思う。
そんなことを考えつつ、笑ったままで椋はライゼルへと言葉を続けた。
「もし俺に関わりたくない、これ以上自分たちに関わらせたくないとも思うなら、誰も傷つけない、誰も病気にさせないようなうまい方法でも考えて下さい。そうじゃなきゃきっと俺はこれからも、どんなに誰が、俺自身が頑張ろうとしたって今回みたいなことを繰り返すと思います」
――そして確実にこれからの自分は、多少の無理無茶を押し通してもそう「できる」ための力を求めなければならない。
何とも面倒なこれからに、笑う。それがトンデモ以外の何でもないと、分かっていながらあえてそんなことを椋は口にした。
なにを馬鹿なと言うのなら、まずはこんな世界に椋という医学生を放りこんでしまった誰か、もしくは何かなのか知らないが、そういう類のものに文句を言えと椋は思う。もっと御しやすいものを入れておいたなら、きっとライゼルはこんな顔をしなかった。
勿論「そんなもの」が本当にあるなら、まず一番に文句を言いたいのは椋であるが。
せめてあと二年三年は後の、医師免許を取ったあとの人間連れて来いよと、まずはそんな感じで。
「……まったく本当に、君という人間は不可解だな。不愉快とまでは言わないが、俄かには理解に苦しむよ」
「分かってもらおうとも思ってませんよ? 別に」
わずかな沈黙ののち、小さなため息とともにライゼルが吐き出した言葉に椋はまた笑った。
さすがに誰にもかけらも理解してもらえないとなるとそんな意志も維持するのは難しいかもしれない。だが椋が少しでも分かってほしいと思うのは、分かった上で一緒に突っ走ってくれればと願うのは、どう間違ってもライゼルではないのだ。
笑った顔のまま、椋は淡々と続ける。
「どんな建前があったとしても、あなたたちは大勢の人を苦しめて、苦しませて最後には死なせた」
「……なに?」
「そんな人たちを相手にして、無魔でしっかりした技術もない、計画性だってない。それなのに誰かの助けになりたいなんていうバカで無謀でどうしようもない俺の我が儘を聞き入れてもらえるとは、初めから思ってません」
静かに告げる本心に、ライゼルから返って来たのは同じようなため息だった。
ひょいと目線を上げてみれば、やれやれとでも言いたげに腕組みをしたライゼルの姿がそこにはあった。
「やはり随分なところまで、君は知っているようだな」
「俺をこんなところに連れてきたのは、そういう理由づけで俺を殺すため、ですか?」
「何の罪もない人間を、むざむざ手ずから殺すような人間では私はないよ」
しれっとそんなことを嘯く、ライゼルに思わず椋は苦笑した。
まったく苦笑するしかない。一体誰のどの口が、そんなことを言えるというのだ。
「あんな病気をばらまいといて、よくそんなこと言えますね」
「だからこそ私は、いや、我々は今この場に君を連れてきたのだよ、リョウ・ミナセ君」
「?」
「我々が、君という異分子を潰すのはあまりに容易い。君を潰すための大義名分を我々は保持しており、君という個人に対する何が特にあるわけでもない」
淡々と続くライゼルの言葉は、まあ納得は別として理解することは決して、不可能なほどに不可解なものではない。
今になって彼らがアイネミア病に関する後処理をせざるを得なくなったきっかけを作ったのは、椋がアノイたちに渡したあの地図だ。椋が生き物でありこれからも同じようなことをするかもしれないと自ら公言してしまっている以上、予め不安要素を潰しておきたいと思うのは、計画を立てる人間ならある意味では普通のことだ。
しかし椋にはだからこそ、今更そんなことを言い、敢えてあの場所で椋を殺さずにこんな場所まで引き連れてきたライゼルの意図が分からない。
不可解に眉を寄せていると、ふっと不意にライゼルが小さく笑った。
「だがそれは果たして、彼女に対しても同じことが言えると思うかね?」
「え?」
唐突に出てきた彼女というのが、誰を指す言葉なのかが理解できない。
理解できない椋をさておき、椋以外の方向へとおもむろに彼は視線と声とを向けた。
「そこに居るのは分かっている。いつまでもただ立ち聞きなど、随分と趣味が悪いとは思わんか?」
「え?」
やはりライゼルの言葉は理解できないまま、彼が唐突に放った視線の先へと椋もまた目を向ける。闇に慣れてきた目には、そこにドアがあることは分かるもののそれ以上はまったく何も分からない。
わずかな沈黙の後にカタンと、小さく、何かの音がした。
次いで開いたそのドアと、そこに現れた人影の姿に椋は思わず、目を瞠った。
「…………カリア?」
彼女が手にした明りに照らされ、椋にも見えるのは金と銀。それは椋の友人でありライゼルの姪にあたる人間であり、本来ならこんな訳のわからない場所に、一人で出向くことなど誰にも許されるはずのない少女が持つ色だった。
状況がさっぱり分からないまま、彼女の名前を口にする。
それと同時に何かがガタリと、一斉にわずかに動いたような奇妙な音が、聞こえた。




