P2-56 差し伸べる手のもうひとかたに
これから何を得るべきで、何を捨てるべきであるのか。自分は何がしたいのか、どこに行きたいのか。
考えているうち知らず意識の落ちた、そんなある意味「平凡」な昼下がり。
ふと目が覚めると目の前に、知らないおじさんが立っていた。
「……は?」
まさに意味不明な状況に、半ば反射的に素っ頓狂な声が椋の喉を突いて出た。
未だに夢でも見ているのかと、一度、二度、ゆっくりと椋は瞬きをする。
しかし非常に残念なことに、目前に広がる光景は何一つとして変化しなかった。瞬きの前にも後にも変わらず、椋がいるのはエネフの屋敷の一室であり、目の前に当然のように立っているのはまったく覚えのない、外国の彫刻のように彫りが深い顔立ちの壮年男性だった。
もしもこれが夢であるなら、どうしてせめて枕元に立っているのが美人な女の人じゃないのか、と。
非常にバカな下らないことを、思考の端で椋はそのとき思った。しかしやはり現在、椋の目の前にいるのは壮年の男性である。
どことなくどっしりした雰囲気や、落ち着いた穏やかな表情や目線はおそらく、女性の目からはそれなりに魅力的に映るのだろう。生憎のところ椋にはただ、さらなる混乱を招く要因にしかなってはいないが。
一体なにが悲しくて、目が覚めたら、知らないおじさんに枕元に立たれていなければならないというのか。
事実をなかなか事実として認識してくれない意識と微妙に格闘する椋に、少し困ったような声が不意に降った。
「すまない。起こしてしまったな」
顔や雰囲気そのままに低く落ち着いた、どっしりとした重さのある声だった。
若干苦笑じみて響いたその声には、やはり彼の顔と同じく、まったくもって覚えがない。もはや反応のしように困り、下手にベッドから身体を起こすこともできないまま椋は途方に暮れた。
いやまあ百歩譲って、目が覚めたら誰かがいたという事実は受け容れるとしよう。だが誰からの何の前振りもなしに、目覚めと同時に知らない人間と鉢合わせする展開はさすがに予想外に過ぎる。
もう少しばかり逡巡した後、ひとつため息をついて椋は己の上半身をゆっくりと起こした。
ひょいとわずかに後方へと退いた男へ、改めて正面から視線を向け問いかける。
「……どなた、ですか?」
タイミングからすれば非常に間抜けな質問なのは分かっていたが、本当にさっぱり分からないのだから仕方がない。
椋の問いかけに少しだけ目の前の男は驚いたような表情を浮かべた後、ふっとその相好をやわらかく崩した。
「そうだな、突然の来訪に加えて自分から名乗らぬなど、無礼を済まないね」
「……いや、ええと」
「そうだな、私のことは、ライゼルと。そう呼んでくれ給え」
「はあ……」
ライゼルと名乗る、彼から感じる、カリアともアノイとも、ヘイル夫妻のものともまた違う絶妙な押しの強さのようなものに若干ならず椋は引いた。
しかし異常な状況の中、いつまでもただ押されているわけにもいかない。
どうにも最初の混乱のせいで馬鹿馬鹿しい質問しかできていない気がしながら、またひとつのため息とともに椋は目の前の男、ライゼルへと問うた。
「ライゼル……さんは一体ここに、何のためにいらしたんですか?」
「ん? 何だ、君は私に名乗ってはくれないのか? 青年」
心外とでも言いたげに、わずかに眉を上げたライゼルが言葉を返してくる。
こちらに応じてくれてはいるが残念ながら会話にはなっていない彼の言葉に、もはや椋は苦笑するしかなかった。なぜならそれは明らかに、こんな場所でこんなタイミングで椋に会いに来るような人間のものではなかったからだ。
これが夢でないのなら、椋は諸理由によって現在、この部屋に軟禁状態にある。そんな椋をわざわざ訪ねてくるような人間が、訪ねる相手の名前程度を知らないわけがないのだ。
この人は何がしたいんだ、ざわざわと微細に粟立つ肌に非常な気色悪さを覚えつつ。
とりあえずは素直に、彼の言葉通りに椋は名乗っておくことにした。
「水瀬、椋です。職業はきっと、ライゼルさんがご存じの通りです」
「うん?」
「それで? 俺に一体、何の用でしょうか、ライゼルさん」
ひきつりそうな笑顔で問う。ついでに少しでも相手にきっちりと己を見せるべく、ベッドの上で椋は居住まいを正した。
ベッドの上という時点で全然恰好がつかない気もするのだが、結局は椋自身の気分の問題である。誰が許可したのかは知らないが、とりあえずはこの意味不明な男の来訪目的を知りたい。
また少し予想外そうな顔をしたライゼルは、片手を顎に当てて何か考え込むような仕草をした。
その様子にちらりと何かが脳裏を閃いたような気がしたが、それが何であるかを椋が明らかにする前にまた、ライゼルは口を開いた。そうだな、と。
「ただ君に会いに来た、というだけでは、まあ説明不足だろうな」
「そうですね。ものすごく」
「だろうな」
あっさり肯定を返して見せれば、ライゼルもまた椋の答えを予測していたのだろう。さらなる肯定を椋へと重ねてきた。
本当にこの人は「何」なんだ。確実に自身とは遺伝子レベルで顔の彫りの深さや骨格の違う相手を眺めながらまた椋は考える。
椋の非常にぞんざいな敬語やざっくりした相手への姿勢にも気分を害すような様子はなく、ごくごく「普通」に応じてくれているのがまず分からない。椋はものの真贋に詳しいわけではないが、そんな彼の目からでもライゼルは明らかに「本物」に見えた。
それは身につけているものが、という、ただ単純な意味だけではない。
アノイに会うと特に強く感じる、椋の元々いた世界ではまず出会えないだろう類の「人の上に立つもの」と相対しているような感覚がライゼルにはあるような気がするのだ。
今ここでどんな大声を椋が張り上げたところで無駄としか思えないような気がするのもおそらく、同じような理由に起因しているのだろうとも思う。
「まあ、そう時間もないことだ、端的に言おうか」
若干取り留めもなく考えているうちに、そんな言葉とともにライゼルがふと椋に向かって笑った。
どこかその笑顔の向こう側に、ぞっとしないものをわずかに感じた、刹那だった。
「――なぜ君は、このような場所にいるのだね?」
ライゼルは表情を全く変えず、ただ声に乗せる温度の一切だけをすっぱりと消し去った。
笑顔でしかし淡々と、なぜか咎められているような感覚さえその瞬間の椋は覚えた。
「……え?」
「私は君が、不当に拘束されている事実を正確に理解している。だからこそ、私は君に会いに来たのだ」
淡々と、ただ淡々と。
当然のようにそんな言葉を、椋という人間を知らないはずの相手は口にした。
ただでさえ分からなかった目の前の男に対し、ピースが外れ同時に組み上がっていくような無茶苦茶な感覚にさらに椋は混乱した。なぜ本当に一部の人間しか知らないはずの「事情」を、あたかも知っているかのような口ぶりでこの男は言い切る?
可能性があるとするなら、それは。
俄かには何も返せない椋へ、更にとばかりにたたみかけるようにライゼルは続けてきた。
「なぜ君は、自ら現状を打開しようと動かない? 聞けば君はここに来てから、抵抗の一つもしていないというではないか。所詮は庶民は何をしようと無駄だと、既に諦めてしまっているのか?」
「……」
「なぜ逃げない? なぜ叫ばない? なぜ許しを乞わない? 今の生活から、抜け出したいとは思わないのか」
「……」
目も、耳も、正常だ。
さりげなく手の甲をつねれば普通に痛いし、いい加減にこれを夢と片付けるには、ありとあらゆるリアリティがそこらじゅうに溢れすぎている。
思考も正常、意識は清明。彼の言っていることが、理解できないわけではない。
だからこそ、余計に混乱するのだ。理解できるからこそわからない。彼が誰にも告げることなくここに来た理由も、普通の来訪であったなら、当然のようにあるはずだろう屋敷の使用人の椋への前触れがなかったことも、何一つまともに分からないまま、このどことなく怖い壮年男性と向かい合うことを余儀なくされている、己の現状についても。
何が一番わからないと言えば、ライゼルが椋に今ここで求めようとしているものがわからなかった。
しかし混乱による沈黙すら許さないとでも言うように、ただ淡々とライゼルは椋へと問いを続けてくる。
「さて、なぜ君は何も答えない?」
決して沈黙を許さない、それは視線であり言葉であり声だった。
怖い人だと、そのとき椋はふと思った。少しでも何かを間違えれば、即座にきっとこの人は、どんな相手であろうと切り捨てるのだろうと、考える。
そんな感覚は当然ながら、生まれてからこの方今に至るまで一度も椋は他人に対して感じたことがなかった。
しかし理性よりも本能に近い椋の中の「何か」が告げる。今ここで下手な受け答えをすることは、自分の死へと確実に直結するということを。
思考する。考える。何を言うべきか、感情のない瞳を前にして必死に椋は意識を巡らせる。
ああ、本当に、まったく、なぜ。
俺はどうしてこんなところで、こんなに必死になってるんだか――。
「……あなたが、」
そして思考の帰結する場所は、結局最初と変わらない。
他に選ぶ言葉も見つけられない椋は、ただ自身にとっての「事実」を口にするしかなかった。
「あなたが俺に、何を言わせたいのかが分からないからです」
即ち、何もわかってはいないと。
だからこそ何も答えられないと、素直に事実から目をそらすことなく相手へ告げるしかない。何をどう考えてもおかしい現在の状況でそんな態度が彼へどう作用するのかなど、椋自身既にまったくわかっていない。
分かるとするなら、わずかにいくつか。ここでは嘘偽りの一切が役立たずだということ、そして、
――目の前にいるこのライゼルという人間は、椋という「個人」に会いに来たのではないのかもしれないと、いうことだ。
「……ほう?」
向けられる目はどこか、値踏みするようなそれだった。だからこそ余計に確信する。最初からこの男が本当に「椋」に会いに来るつもりだったのなら、いつまでたっても誰も中の様子を見に来ようともしないような状況を作るのではなく、正面からこの屋敷に入って正規の手続きを経れば良いはずなのだ。
どうして現在の「椋」に会いに来ようとする人間が、「この部屋の中で」「第三者の目も何もなしに」椋と会話ができるというのだろう。
おそらく第八騎士団の人間だろう騎士たちから、改めての事情聴取、と、おそらく彼らは呼ぶのだろうものを重ねて受けたとき、ここではない場所に椋は連れて行かれた。
理由を聞けば、エネフはわずかに苦笑して肩をすくめて言った。不便だとは思うが、それがこの国の決まりだ。きみの現状を考えると、これ以上の譲歩はさすがにこちらも不可能でね、と。
だからこそこ椋がここに勾留されて以降、椋と椋の世話を任された特定の使用人、そしてエネフやクレイ、ジュペスなどといったごく限られた人間以外はこの部屋の内には立ち入っていないのだ。結局はおまえの身を守るためだのなんだのと懇々と言い含められてしまえば、どうにも物知らずな椋が下手な反駁ができるはずもない。
そう。今日ライゼルに会うまでの、ここ数日の束縛条件には何がしかの「理由」があった。
それが椋の納得できるものであるかはさておき、守るべきこの国の「法」がそこには確かに、あった。
だが目の前のライゼルは、当然のようにこの部屋の中で、平然と椋へと向かって声をかけてくるのだ。
普通ならば不可能なはずの状況を平然と手中にし、椋の言葉に若干憮然めいた光をその目にちらつかせながら、ライゼルはふと小さく息を吐いた。
「先ほども言った通り、私は君が、不当に拘束されている事実を正確に理解している」
そして紡がれるのは揺るがぬ声、淀みない言葉。
これから彼が話そうとしていることはしかし、果たしてさきほどの椋の言葉への応えなのだろうか。
かたちから判断するならば確かに笑顔であるはずのその表情が、まったく笑顔と思えないのは、果たして。
「私なら君を、今すぐにでもここから連れ出してやれる。君の罪を、問わぬことも可能だ」
その言葉だけをなぞるのなら、絶対に椋の意識を引いて仕方のないような内容ばかりを彼は口にしている。
しかし「事実」と「理想」をいくら並べられても、椋の内に湧きあがってくるのは目前の人物への不信感ばかりだった。
明らかに正規の手段を踏んでいない、踏もうともしていない人物が持ちかけてくる、椋にとっての「正論」。……先ほどから本当に寒気がひどい、異様な感覚に肌がざわつく。わからない、本当になにもわからない。
すぐにでも外に出られると、ありえないことをライゼルは言う。
絶句する椋の何を取り違えてか、もう少しだけその表情をやわらかいものへと彼はふと、変えた。
「君は一言お願いしますと、私に頭を下げれば良いのだよ。リョウ・ミナセ君」
――ああ。なるほど。
そこまでざくりと言い切られて、何かが妙に椋の中で腑に落ちた。
ただの自分の感覚が事実として現実に嵌めこまれる、何かがすとんと落ちるのにも似ている感覚に小さく、椋は苦笑した。理解で思考は落ち着いても、その理解の方向は残念ながら決して、椋にとっては心地よいとは言い難いものでしかない。
やはりこの男にとっては初めから、水瀬椋という個人の意思など別段「どうでもいいこと」なのだ。誰かから何らかの手段を通じて知った「椋」という存在が、結局は何であるという取り分けた思慮なしにおそらくライゼルは、ここにいる。もし実際の椋がどんな人間であったとしても、この人はおそらく、今ここにいる椋とまったく同じ顔と声と無表情を、一切の変化なしにその「相手」へと向けたのだろう。
真っ直ぐに椋を見据えてくる彼の眼には、誠実さと穏やかさ、そしておそらく自信という存在に対する自信はあっても椋への、椋という個人に対する配慮はない。声と言葉には一切の嘘偽りがなくとも、同時に目の前の相手と「会話」をしようとする意思が見受けられない。
ライゼルはきっと、結果を疑っていないのだろう。自身の行動の対価として得られる反応がどんなものであったとしても、最終的に自分の力が導く成果は何も変わりはしないと、信じて疑おうとしていない。
そんな人物が複数人、この国には存在しているのだと椋は聞いたことがあった。
彼らの起こす全てのことには、須らく意味があるのだと。
そしてその中の一つでも、対応を間違ってしまえば自分たちの地位は容赦なく確実に奪われるのだとそう、笑っていたのは。
「申し訳ありませんが、お断りします」
「なに?」
ライゼル、……グライゼル・シェンディーリフ・ユヴェント。
かつてはグライゼル・アイゼンシュレイム・ラピリシアという名であったという、男。カリアの父であり自身の兄でもある人間とラピリシアの当主の座を争い、最終的にはカリアの父へ家督を譲り、下賜名持ちの一角であるユヴェント家の、婿養子になり傾きかけていたユヴェント家を立て直したという、傑物と呼ばれる人間だ。
目の前の人物が名乗った名前があまりに分かりやす過ぎるのには、逆に嘘なのではないかと妙な勘繰りをしたくもなる。が、基本的にカリアの協力者であるエネフの屋敷に断りもなく入ってくるような人間はどうにも、「そちら側」の人であるとしか椋には考えられない。
そもそもいきなり部屋の中に入ってきた知らない人間にとんでもない甘さでむせかえりそうな話を目の前でちらつかされれば、とりあえず少しは疑ってみたくなるくらいの理性は椋とて、保持していた。
「結構です、と言いました。あなたの提案を、俺は受けません」
だからこそもう一言続けて言い切って、何やら妙にすっとした。まったくただの医学生ひっつかまえて、このひと何しようってんだろ。思う。
いい加減自身のこの世界における異端が「ただの」とは片付けられないことなど椋とて分かっていた。自分の行動がどこに繋がっていくか分からないという事実をここまでまざまざと見せつけられてしまった以上、何を知らない、俺には関係ないと喚いてみたところでそれがただの無責任でしかないというのも、知っている。
それでも今ここでまた同じことを考えずにはいられないのは、まったくもって彼が椋に接触しようとする意図が理解できないからだ。
相変わらず部屋のドアは開く様子がない、誰もこの部屋に入ってこようとしている様子はない。どうしてそんな状況をわざわざ作ってまで、この男は椋に会いに来ようとなどしたのか。
おそらく椋の返答は多少は予想外だったのだろう、わずかにライゼルは片眉を上げた。
そんな彼に小さく笑って、椋は言うべき言葉を続けた。
「なぜ俺がここにいるのかと言われれば、それはきっと、俺が「何もしていないから」です。……本当に俺は良くも悪くも、今まで何もしてこなかった」
指を組んで、もうひとつ笑う。ああもう、本当に何から何まで訳が分からなくて笑うしかない。
あまりの凄惨と理不尽に、ある瞬間からずっと目をそむけ続けていたものがある。ジュペスを治さなければならない。ジュペスを復帰させたい。その願いで半ば押しつぶすようにして、一切の片をつけることを放棄したものが、椋の中にはある。
目をそむけて心身のいずれもそこに向けなければ、勝手に終わってくれるのではないかとどこかで期待していた。
いったい何をしたわけでもないのに、どうして自分が責められなければならないのかと無関係な第三者へ逆ギレもした。そんな自分が嫌で、次に目の前に降ってきた事象へと全力で椋は、自分という存在を投下した。――逃避した。
向き合わなければならないことが、そのためにまず、向き合わなければならない人間が確かにいた。
にもかかわらず、椋は逃げ、何もしないで他人へ逃避した。あの目からあの声からあの意識から強大絶対な拒絶から何としても離れようと無意識にも意識的にもおそらく、画策し。
無様なことにその結果が、これだ。
まあ椋だけが「彼女」、マリア・エルテーシアという少女とまず向き合おうとしたところで、マリアの方が椋をどうするかに関しては全くの別問題だったのだろうが。
「……他人の着せる無実の罪を、君は受け容れるというのかね?」
わずかな怪訝を乗せた声が、椋へと向けて発される。
それまでの的確さとは打って変わって随分と的外れな物言いに、椋はもう一度笑って首を横に振った。
「まさか。冗談じゃない」
無論返すのは即座の否定。椋は死にたいわけでもなければ、この国でずっとただ安穏としていたいわけでもない。
今更夢を諦めるには、かつての椋の居場所は彼の夢の実現にあまりに近過ぎた。せめてまねごとだけでもとこんな場所でも願ってしまうほどにその夢は椋にとって馬鹿馬鹿しいくらいに絶対で、友人がいる、大切に思ってくれる人間がいる、似たようなことならできる可能性がある。それだけで簡単に諦められるほど、日本という国の中で、現代という時間軸の中で椋が抱いていた感情はまた生易しくもない。
ジュペスを助け、動かして。
その結果がどう、椋のこれからに作用してくるのかは知らない。進まなくなっていた物語の軸を進める、それが果たして元の世界へ戻る足掛かりになるのかどうか、椋には判断のしようもない。
だが既に、椋には何もしないでどこかの部屋の片隅で膝を抱えているという選択肢はないのだ。
今から少しだけ前のあの時、アイネミア病に関わろうと決めたあの時点で、もう「この世界での平凡」など、そこいらに椋はぽいと放り捨ててしまった。いくつもの手を、最も無茶な道を、その先には明らかに異様な荊しかないことを知りながら椋は取ってしまったのだ。
だから確かにここにいる、水瀬椋という人間は。たったいまその目の前にいる、男の差し出す手を取ることはできない。
小さな笑みを浮かべたまま、椋はライゼルへと己の言葉を続けた。
「俺は、俺の友人たちを信じていますから。あいつらならきっと、ほんとうのことを、あの日、実際には何が起こったのか明らかにしてくれるはずです」
「……ほう?」
「あいつらを信じて、俺は俺で、ここでやらなきゃならないことを片付ける。これからのことについても、考える」
「……」
「それが今の俺にとっては、一番やるべきことなんですよ」
どこか不機嫌そうなライゼルの声も、もう今更だ、気にはしない。最大の拒絶は先ほど放ってしまったのだから、その後にどんな小さな拒絶を迂遠にも直接にも重ねてみたところで、特に状況に変わりなどないだろう。
カリアはきっと、椋がこの部屋に捕まったあの日の言葉を実行すべく今も必死になってくれている。クレイもクレイで若干独断専行めいた調査までしてくれているらしいし、ジュペスもまたクレイとともに、本当に完調というわけでもないだろうに、椋のため動いてくれている。
ヘイたちに関しては、正直、わからない。なぜヘイが今もリーと行動を共にしているのかについては知らない。だがヘイは基本的に自分の利益になることに対してしか動かない男だ。あの男が椋をいつまでも自分の家に留めてくれているのは椋の思考が彼の創作意欲を刺激するからであって、根本的には、人情や何といったものではない、…と少なくとも本人は言い切るだろう。今更そんなのは本心な気もしないが。
きっとヘイはまたヘイで、何か妙なことをしでかそうと椋には俄かには理解のしがたい作業を今でも続けているに違いない。リーに関しては正直なところ、わからない、のひとことで思考を止めてしまっているんだろうと思う。――誰かを何かを陥れるための人形を、あの手が作っているのでなければいいと思う。
「……はは」
「……なんだね?」
気づけば妙な友人が、随分ここでは増えていた。思わずもれた笑いに、ライゼルがひどく怪訝な顔をする。
しかしまったく本当に、笑ってしまう。笑うしかない、他にはどうしようもない、状況は決して良いとは言えないのに、もはやどこかで愉快ですらある。
本当にどうしてこんなにも、創作世界というのはめちゃくちゃでわけがわからないものなのだろう、と。
笑みを消さずに、さらに椋は自身の言葉をついだ。
「そもそもあいつらとは違って、俺は凡人ですしね」
何しろ彼らは荒唐無稽をしでかす予定の、礼人の物語の主要人物たちだ。
魔術も貴族も滅茶苦茶な理論も、何でもありの世界の傑物たちに比べれば椋など本当に些細な存在にすぎない。こんな妙な場所に放りこまれてしまったことを除けば、椋と同じような医学生など全国全世界に何千何万人存在すると思っているのだ。
椋が言わんとすることの予測がつかないのか、不機嫌と怪訝を半々にしたような視線をさらにライゼルは向けてくる。
その視線へと肩をすくめて、ふっと少しだけおどけるように椋は笑って見せた。
「勿論、戻りたいとは思っています。願っています。当然ですよ、ホントに俺はなにもしてないんですから」
「……」
「でも、そもそも何もしてないのに、勾留されてる場所から逃げるなんて馬鹿げてるじゃないですか。そんなことしたら、今度こそ本当に俺は犯罪者になる。脱走犯だ」
何もしていないならしていないで、胸を張って前だけを見ていればいい。
それがここにいることを椋が承諾した、もう一つの理由だった。まあこの世界に放り出された当初に同じような状況になったならまずどうあっても逃げようとしただろうが、今は幸か不幸か、あのころとは結構に状況は違う。
だからこそ今はただ、自分なりの方法で先に進もうと足掻くしかない。
結局それしかできないのだから、この唐突に目の前に降って湧いたどこか怖さを煽る男の手には決して、乗らない。
「質問への返答は、これで足りますか?」
「……合格点をやるには、やや足りないと言ったところかな」
椋の質問への彼の答えは、しばしの軽くない沈黙ののちにどこか、奇妙に淡々ともたらされた。
改めて目前の男を見やれば、ライゼルは何とも判別に困る不思議な光を椋へと向けていた。その表情を見てさらに確信する、ああやっぱりこの人は、「俺」の感情や思考なんてものを端から考えてはいなかったんだろうな、と。
というかそれにしてもしなくても、カリアの「敵」にこんな堂々と真っ向から反発してあまつさえ挑発して大丈夫だったのだろうか。
明らかに大丈夫でないような気がしたが、まあ結局椋自身の言葉はそういう方向にしか向かないのだから今更どうしようもない。一応色々と考えてはいるつもりではあるのだが、どうにも椋にはまだまだ思考の深さと遠さがまったく、足りないようだ。
やれやれ、とでも言いたげに、深々とため息をひとつライゼルが吐いた。
「どうにも予想外に、君は理性的な人間だったのだな」
「一応それは、褒め言葉として受け取らせてもらいます」
ここまできてしまえばもうままよと、若干ひきつりそうになる頬を叱咤してさらに椋は笑ってみせた。ハッタリも演技も苦手なのに、なんでこんなわけのわからないことになってしまっているのだろうか。
椋の表情そして言葉を眺めたライゼルは、またしばしの沈黙の後不意に表情を変えた。ふっと、小さくどこか楽しげな息の音。
彼がなぜかその時、笑ったのだ。
「……なるほど、なるほど」
笑みとともに紡がれるのは、どう聞いても確実に笑っている声だった。
唐突な豹変がさっぱり理解できず言葉を失う椋に、この場に現れた当初椋へと向けてきたものとはどこか違う笑みをライゼルが向けてくる。
「変わり者と聞いてはいたが、まさかここまでのものだとは」
「あー、……まあ、はい」
推定が正しいならライゼルはカリアの叔父さんのはずなのに、さっぱりその思考回路が椋には分からない。
いや、知っている人間の親類だからこそ余計に分からないのかもしれないが。そもそも親族と言うだけで、一概に似ているものと決め付けるのも何か違うような気もする。
反応に困ってぽりぽりと頬をかきつつ、妙に間抜けな気分になりながら椋は言葉を口にした。
「まあ、そんな感じで今は、俺はここにいますから。あなたの申し出は受けるつもりがないので、今日はお引き取り願えませんか」
確実に断られるだろうことを予想しつつ発する言葉というのは、なかなか珍妙に空しいものがある。
しかもライゼルは椋の予測を、まったく裏切ってはくれなかった。
「それは少々、無理な話だ」
「……ははは」
切り捨てられ具合はいっそ潔かった。予想通りではあったので、椋の喉から出たのは若干かわいた風味の笑い声だけだった。
楽しげな笑みを浮かべたまま、ライゼルは椋へと問うてくる。
「君は今、自分の置かれている状況をきちんと理解しているのかね?」
「あー。いや、おそらく、……わりと、全然」
もはや理解したくもない、のかもしれない。どこに逃げようにもこの部屋にはドアが一つしかないうえ、ベッドの上に座った椋よりライゼルの方が確実に早くドアには辿りつけることだろう。
目の前のライゼルが非常に楽しそうなところから既に椋にはさっぱり理由が分からないのだが、今更積もりに積もって中途半端に脇に追いやった疑念の山を、ひとつひとつ崩していく気にもなれない。彼が応じてくれそうな気もしない。何ともしがたい状況に現在の椋は置かれていた。
ものすごい手詰まり感を感じつつ、ホントこの人帰ってくれないかなあと椋は頬をかいた。
確実に鏡をのぞきこめば非常に奇怪な表情をしているだろう椋をどう思ったのか、ふとどこか別の方向へとライゼルは視線をやり、また笑った。
「しかしまあ、そうだな。今回は少し、君という異端に免じて特別点をやっても良いかもしれん」
「えっ?」
またひとつ、椋にとって訳の分からないことが増える。
しかし彼の言葉の意味を問いかける前に、椋の目前は不意にぐらりと揺れた。えっと思ったときには目前が不自然に白んで、かすむ。一応椋なりに行儀よく座っていたベッドの上へ、倒れ込んでいく自身の身体を、どこか、他人事のように感じていた。
座った状態から倒れ込んでも、後ろに落ちたりしないのは無駄に広いベッドのおかげとでも言っておくべきなのか。
下らない思考ばかりがくるりと一周した椋の思考の最後を、少し困ったようなライゼルの言葉が掠った。
「――――残念ながら君がここから、動く以外の選択肢を用意してやる訳にはいかないのだが、ね」




