P2-55 オチル
どうして こんなことに なったの ?
「……ッ」
偶像の前にて組み合わせた手。常と変わらぬ祈りを捧げる手が、震える。
何もかもうまくいっていたはずの自分が、どうして今ひとりでこんな場所にいるのだろうかと思う。
勿論そんなことを思ってはいけないと、こんな雑念ばかりの心で神の御前に立つなど不敬極まりないことと分かっている。こんなことではいけないと思うのに、この思いも、何も届かないと思うのに。それなのに、いくら思ってもいっこうに震えは、おさまらない。
俯いた拍子にほろりと涙がこぼれ、ぎゅっと思わずマリアは目をつむった。
寒かった。暗かった。心細かった。空虚だった。
すべては、順調だったはずだった。
神の御手より創られた、この身に宿った魔力と神霊術を扱う才、そのいずれも、マリアのものは親兄弟に負けずとも劣らなかった。
常に学院の、神霊術部門では首席で在り続けた。学生のみぎりより、多くの人を手にした力を使って治療してきた。これが私の生きる道、生きる意味、神の与えたもうた使命なのだと、一途な思いに幼いころより意志を燃やしてきた。
それが崩れたのは、一体いつからでどうしてだろう。今更考えるまでもなく発端など一つしかあるはずもないのだけれど、それでも考えずにはいられない。
どうして私の大切なものが、あんなものひとつによって全て崩れなければ、何もかも失われなければならなかったと、いうの?
「う、……っア、」
目を閉じようと開こうと、消えない景色は赫と黒。
助けられるはずだった、助けるのを当然とした命。それを目の前でマリアから奪った、醜くおぞましい黒の男。
あの諸悪の根源は、今回の件によりようやく捕らえられたと聞いた。けれど事の起こってしまった後で、取り返しもつかないような殺人を犯させた後でそんな程度のことになっただけでは遅い。遅い。遅すぎる。
だから私は、正しいと言ったのに。
決して私は間違っていないと、間違っているのはそちらの方だと何度も何度も、声をからして叫び続けたのに。
私はどこまでも、正しいことしか行ってはいないと確かに、何度も何度も何度もあちこちへ何回も何回も何回も訴え続けて、皆も協力してくれて何度も、何度も、何度だって――。
「……ごめんなさい、」
私が、もっとしっかりしていれば。
私が絶対正しいことを、もっと早く証明することができていれば。
そうすればきっとあんな黒なぞに、ケントレイは殺されずに済んだはずなのだ。彼は決して、殺されてよい人間などではなかった。
だって彼はディーナと結ばれ、彼は彼女を幸せにしていた。王宮に仕える官吏としても、かなり優秀であったと聞いている。貴族としての誇りも自覚も、権利も義務も全て立派に果たしていたのを知っている。
そんな彼が死ぬ理由が、あんな黒の手にかかる理由がどこにある。
あるはずがない。ありえるはずもない。
……一つであろうと、あっていいはずが、ない。
「――――悔しいか?」
悔しい。そんな一言では片付けたくないほど。
死ぬべきは彼ではなかった。命を奪うのがあの黒であっていいはずがなかった。
全ては逆であって、然るべきだったのだ。
御神へたてつく男なぞに、光を否定しようとする醜い影法師なぞに、存在理由など初めから存在するはずもなかったのに。
「君をそうした存在が、憎いか?」
憎い、――憎い?
そんな言葉は、おおよそ私には相応しくない。ああ、まったくもってそぐわない毒々しい言葉だ。
私はただ、己より下等のヒトモドキを、最大級の憐憫をもって消し去ってやりたいと強く強く、ただひたすらにひとえにひたむきに願っているだけだ。他の正道を曲げ捻じることしか考えてなどいない、そしてできもしない愚かな哀れな存在に、一日一刻でも早い天罰を、そして天罰の後に訪れる破滅という名の安らぎを与えてやりたいだけだ。
憎くなど、ない。そう、憎くなどあるはずがない。
だってそれ程度では、この感情の渦へ名をつけるにはあまりに生ぬるい。
全てだ。すべて、なにもかも欠片も残さずに灰すら残らないほどに完膚なきまでに消し去ってやらねば。
この思いは決して、晴れは、しない。
「そうか、」
ふわりと、泣きぬれた頬を拭われる感触があった。
顔を上げれば、あるのは光。その中心に立つ人影は、あまりの光の強さゆえに顔はおろか、輪郭すらどこかぼやけてかすんで見える。
光の方へ、マリアは知らず手を伸ばしていた。
それほど彼女は、光を欲していた。光、光が欲しかった。
あの汚濁が潰されるまで、この心に巣食う黒が完全に晴れ上がるまで。心を支えてくれる光、優しくも力強い光、御神の眩く聖なる光が、どうしても欲しかった。
ふわりと瞬間、光を背負う人影がやさしく、微笑むのが見えた。
それならばおいでと手を伸ばされた、手のひらを拒む理由などそのときの彼女には微塵もあるはずがなかった。
――――その手のひらこそが、彼女にとっての本当の破滅をもたらすものであるとはつゆ、知らぬままに。
「――それが貴方の、最後のお戯れですか」
短くも長くもない話を聞き終えて、ふっとひとつ、聞き手にまわっていた男は息を吐いた。
呆れにも笑っているようにも取れるその吐息に、それまで語りを続けていたもう一人は楽しげに鷹揚に、笑った。
「何事につけても、手土産は必要だと思ったからな」
「成程。貴方らしいことだ」
問うた男は答えを受けて、今度こそ確かにくすりと笑った。
冥く沈んだ室内は、二人の顔どころか存在すら、どこか危うく見せていた。
「では、私も行って参ります。殿下」
「ああ、行って来い」
至極軽い口調で交わされる会話。それはおおよそ室内を満たす薄闇には相応しくない軽さと柔らかさと穏やかさをもって響く。
しかしそれぞれの持つ言葉の、その実を知るものなど結局はこの二人しか存在しようもないのであって、
「ライ」
「は」
室内に今も残り動かぬ一人が、もう一人の名を呼ぶ。
誰かの先を占うような、底知れぬ薄闇の中で振り返った彼へと男は笑った。
「くれぐれもよろしく、と言っておこうか」
その言葉の方向、意味は、
「――我々の可愛い、みどりの最愛たちに、な」
結局は二人の内側にだけに、現在という時間軸それだけに束縛され封じ込められるものであって――




