P09 消え得ぬ影へ青年は
祈道士たちの神霊術より、原因不明の不調に陥っていたクラリオン近隣住民たちは救われた。
そんな一言を紡げるなら、平和に終わって、めでたしめでたし、なの、…だが。
「店の奴らの病気が治らねぇ?」
「うん」
怪訝を全開に問い返してくる目前のヘイの言葉に、こくりと椋はうなずいた。
あの祈道士たちの「診察」からすでにまた数日が経ったが、結局のところを言えば、原因不明の病気は収まらなかった。一時は良くなったかと思われていた誰もが、早ければ翌日、遅くとも二、三日後にはまた、同じような不調を訴えたのである。
本当にまったくもって、誰もわけがわからなかった。そもそも一度はよくなってそのあとすぐに増悪する、そのメカニズムが本当にさっぱり分からない。
しかも相も変わらずに、あの場で椋だけ、健康なままなのだ。
思わずため息をつく椋に、腕組みをしつつヘイが口を開いた。
「前にも確か言ったけどよ。やっぱり流行病か何かの類じゃねーのか?」
「それじゃ、俺だけ病気になってないのも誰も回復できてないのも変だろう。ついこの間まではみんなだって俺と同じように健康だったし、病気になってからはみんな、出来る限りのきちんとした栄養摂取を心がけてるって聞いた。それにそもそも俺、ワクチン接種も薬の予防内服も、感染予防だってなんもしてないんだぞ」
クラリオン周囲に住んでいる、椋以外の誰をも冒すこの謎の病。教会の発表いわく「アイネミア病」と名付けられた奇病は、感染症とするにはあまりに奇妙な点が多すぎた。
アイネミア病が感染症なら、なぜ椋だけが相変わらず感染していないのかがまず説明できない。自分という存在の出自云々はともかくとしても、肉体的な特別など一切ないことは椋自身が一番よく知っている。
周囲にインフルエンザが流行れば椋だってかかることはままあったし、テスト前にやたらと無理に詰め込もうとしすぎて体調を崩したことも複数回ある。何も考えないで木の上で遊んでいた結果、骨を折ったこともある。風邪の一つも引かず怪我をしたこともないような、それこそフィクションもののアイアンボディなど椋は持っていないのだ。
しかしひとまず目の前の家主は、椋の発言内容よりも彼が発した言葉、それ自体に首をかしげた。
「ワクチン接種? …予防内服?」
「あ」
思わず瞬き。言われて初めて椋は気づいた。ついつい当然のように彼へ向かって言ってしまったのが、「感染」という概念の存在しないこの世界においては理解されないもののオンパレードであったことに。
椋の抱える事情をある程度理解しているヘイを相手にしていると、かつて学部内で級友たちと交わしていた会話のノリで喋ってしまう傾向が椋にはあった。つい口にしてしまった医学用語に、首をかしげられるのも今日が初めてではない。
かりかりと己の頭をかいて、曖昧な苦笑を洩らしつつ椋は解説のための口を開いた。
「悪い悪い。…ええとな。ワクチンてのは、身体に害が出ないように力を弱めた、流行病のもとを指す俺の世界の言葉。んでワクチン接種は、そのワクチンを病気になる前に身体に入れて、その流行病に対する抵抗力を高めることを指してる」
「予防内服ってのは?」
「流行病ってのは、体内に存在する病気の元の数が一定以上に増えることで起こるんだ。だから職業柄その病気の元に接触する機会が多い人は、あらかじめその病気に効果がある薬を飲んでおくことで病気の元の増殖を抑えるんだよ。これが予防内服」
「ふーん」
何とも言えない表情で、顔をしかめたヘイの様子はなんとも、外見からの判断がしづらい。
これは駄目かなあと思いつつ、一応の確認の言葉を彼へと椋は向けた。
「理解、できてる?」
「いーや。分かるけど分かんねぇ。…ことに治癒魔術に関係する分野のこと喋るときのお前、相っ変わらず本当に異次元だよな」
「全然嬉しくない褒め言葉をありがとう。仕方ないだろ、俺の専攻これなんだから」
それにヘイ、おまえだって魔具云々のこと話してるときは完全に、おまえは俺にとって異次元になるんだぞ。
言おうかとも思ったその言葉は、考えるだけに今は留めておいた。今ここでお互いを変だといくら言い合っても、絶対にクラリオンを取り巻く状況は好転したりはしないのだ。
「そもそもこれが普通の感染しょ…流行病だったら、わざわざヘイに相談したりしないよ、俺は」
「どういう意味だ」
「おかしいんだよ、色々と」
先ほどさんざん述べたように、別に体質的に病気に強いわけでもなければ防衛策も何もしていない椋がこの病気にかかっていないこともそうだがまだ、おかしな点はある。
アイネミア病患者の絶対数は、本当に少しずつしか増えていないのだ。
人を死に至らしめうる、毒性の強い感染症ならばまず、そんな増え方はしないはずだ。過去に数十数百万の命を奪った感染症は、その強い感染力をもって「死神」と恐れられたのだから。
それにこれが流行病なら、まず病の犠牲になるのは病原に対する抵抗力が低い、子どもやお年寄りであるはずだ。
しかしアイネミア病においては、年齢による症状の変化は少なくとも、椋が見ている限りでは、ない、としか思えなかった。
同じような状況に陥っている、というより、クラリオン周囲よりも更にひどいことになっているという西では、子どもも大人もまったく関係なしに、次々に人が死んでいっているのだと昨日、またクラリオンを訪れたクレイが教えてくれた。
ちなみに彼の妹に会った話をしたら、非常に不快げな顔をされた。どうやらクレイはかなりのシスコンらしい。そしてあの前日の妙な念押しは、結局そこにすべての理由が集約されていたらしい。
にこにこ笑って、患者と応対していた彼女。
彼女ら。白い修道服を着て白い癒しの光を操る、…祈道士たち。
「…あと」
「あと? なんだよ」
「………」
怪訝に聞き返してくるヘイに、しかし思わず椋は言い淀んだ。祈道士様と呼べ、と。
先日椋にそう言って、笑っていたおやっさんの声が頭に、響く。
「リョウ」
「信じる者が、…救われ、ない」
「…あ?」
曖昧にぼかし、呟くように発した椋の言葉にさらに怪訝そうな表情をヘイは浮かべた。
ぐっと、思わず強く己の唇を椋は噛んだ。この国の宗教云々など正直、無神論者である椋には感覚的には至極どうでもいい。しかしあの白い優しい光を、患者のためを思って放たれる光を祈道士たちの笑顔を、否定するのはどうしても彼には、躊躇われた。
しかし椋のそんな逡巡を、打ち砕くように冷たく理論的なヘイの声は降る。
「リョウ。言いてェことがあるならはっきり言え。曖昧なのは俺ァ嫌いだ」
俺だって。曖昧で訳が分からないのは、嫌だ。
思いながら、うつむいて膝の上でぐっと、椋は己の両手を握りしめた。
「……教会の」
事実を認めろと、冷徹な声がする。
現実を現実と認識しろ、患者のためにならない甘い夢など捨てろ。
自分のものであって自分のものでないような、鋭利に現実を切り開こうとする言葉が、響く。
「祈道士の使う神霊術が、結果的にアイネミア病を悪化させてるように俺には見えるんだよ」
「!?」
腹の底から、無理やり引きずり出すように口にした言葉はあちこちがかすれ、ゆらいでいた。
しかし今口にしたことこそが、他の誰にも下手に言うこともできない、椋が今までずっと患者たちと接してきた結果として導き出した嘘偽りのない「事実」だった。
アイネミア病の患者は確かに一度は、祈道士に診てもらい神霊術を使ってもらえばその症状は軽快する。しかしそれからほんの数日で、それまでよりもさらにひどい症状が出現してくるのだ。
一度は確かに目に見えて症状は良くなり、それから少し間が空いて症状が増悪(症状が一層悪くなること)するから、みんなはっきりとは関連が分かっていないようなのだが、…しかし。
「…なンだそりゃ」
「俺だってなんだそりゃだよ。わけ、わかんないんだよ」
ヘイの言葉にも、ただ苦笑を返すしかできない。
しかし一度噴出した、疑念はもう抑えることができない。消えない。目に見えて血色の悪くなる患者たち、少しの動作でも起こる息切れ、動悸、めまい。少し見せてと何人かの患者の瞼の裏を見せてもらったところ、見事なまでに誰もが、完全に血の気をなくして真っ白になっていた。
とある二つの仮説が今、椋の中には存在している。
それの特徴であるはずの、ある症状が誰にも出ていないことは気に、なるのだが。
「…なあ、ヘイ」
「なんだ」
「どうしてこの世界では、二つの違う職業が医療を担ってるんだ? 祈道士と治癒術師ってのは、いったい何が違うから別の職業だってことになってるんだ」
「………」
研究者であるヘイが、沈黙する。おそらく魔術については誰よりも、おかしいまでの詳細な研究を今でも続けているはずの男が答えを返さない。
それは即ち、この問いに対し用意された答えはどこにもないということ。一カ月と少し前から今までずっと、椋に知識と居場所を与えてくれてきた彼をただ頼っていれば何とかなった時間は終わった、ということ。
しかし、解決しないことには自分がどうにも気分が悪い、すっきりしない解決したいと思う疑問がある。以前から静かに積もっていたそれは、今回このアイネミア病という病気が椋のすぐそばで発生したことによって、彼の意識の中で顕在化した。
何より周囲の人間が、訳の分からない奇病に冒され苦しんでいる、その苦しみが長期的にはひたすらに増悪していくだけの様子を見ているしかないという現況が、非常に椋は嫌だった。
おそらくこの先に進むにしても、自分にとっての現況を保持する方向に動くとしても。ただ誰彼より何かを享受しているだけでは、もうだめなのだ。
二つの治癒職、そのうちの一方ではどうにも治っていないようにしか見えない謎の病気。この病気の治療法を原因を知ろうとするなら、確実に椋はこれから先、この一カ月と少しの間はずっと自分の奥底に封じ込めていたすべてを、引っ張り出して日の元に晒さなければならない。
おまえはひどいやつだよなと、とある創世主へ心の中だけで椋は呟く。
勝手に俺を放りこんで、夢を奪って、絶望させて。
それだけではまだ飽き足らず、更に俺を、おまえはどう動かそうとするんだ―――。
「理由が分からないからこそ、お前が足踏みしてることは何となく知ってるよ」
「…リョウ?」
銀めいた蒼色の目が、不可解の光を宿して椋を見つめてくる。
誰かの癒しの手で在りたい、しかし魔術が使えない、そしてこの世界グレイスハルトにおいて、魔術の使えない癒し手など存在しない。
残酷な事実に打ちひしがれた、自分ではどうしようもないところで夢を砕かれた椋のため。うわべでは色々と言いながらその実、事実を知り絶望した椋のためにずっと、ヘイが神霊術および治癒魔術を研究し思考錯誤を繰り返し、最も簡単な魔術すら使えぬ無魔であっても、それが使えるようにと寝食はおろか魂すらを削ってくれていることを、椋は知っている。
しかしきっともう、その優しさに甘えているだけではだめなのだ。この世界に生まれこの世界に生きるべくつくられた人間であるヘイには、決して見えることのない何かが彼の「不可能」の中には存在しているのだ。
存在に、意義に。おそらく論理的な意味を見いだせるのは自分だけだろう、と椋は思う。だからこそ今までは下手に動きたくなかったのだが、彼を取り巻く状況は既に、そんなことを暢気に言うのすら椋には許さないことにしたらしい。
だから、もう、諦めよう。動かないことを、目立たないことを諦めよう。
これから俺は、動こう。
俺を拾い、受け入れてくれた、この世界の人々を少しでも悲しませないために、
…ただの酒場の従業員の「リョウ」ではなく、異世界の医学の知識を中途半端に詰めた異世界の人間「水瀬椋」としてこれからは、動こう。
「だからさ、ちょっと俺、勉強しにいってくるよ」
「勉強ォ?」
そのための言葉を口にすれば、わけがわからないとでも言いたげな声を返された。
しかしヘイのその声にも、視線にも椋は笑って見せる。
謎の奇病アイネミア病、徐々に増えていく患者となぜかその例に入らない椋。二つの治癒職が持つはずの差異、そして施術による病状の寛解(病気そのものは完全に治癒していないが、症状が一時的、あるいは永続的に軽減または消失すること)と増悪。
絶対にそれらはつながっていると、椋にとって大切な人々を苦しめるアイネミア病解決へのカギは、そしてそこにこそあると。
確証はない、誰に言われたわけでもない、客観的、論理的な証明もできない。
だが椋は既に、確信に近い感覚をそれらに対して、持っていた。
「おまえの嫌いな図書館ってのは、…こういうときにこそ、使うもんだと思うからさ」
不敵に言って、もう一度笑って見せる。
もしもこれが解決したら、もう俺はあの場所には行けなくなるかもしれないなと―――そんなことをふと刹那、思った。




